昨年のことで恐縮だが、朝日新聞の「オトナになった女子たちへ」(12/14)の感想である。
連載が始まって結構長いとは思うのだが、この欄の趣旨はよくわからない。マア、ふわっとしたコラムなのだろうと思う。
さて、曰く、近所のママトモによれば「男はドラマをながら見できない」「女は一話くらい見逃してもやっていける」「洗濯しながら朝ドラ見てる」とのこと。
女はちゃんと見てなくても補てんする能力がある。一方男は早送りで十秒飛ばしてしまったら、その十秒わざわざ戻ったりする。
などとうなづきあっていたら、後で合流したママトモもその能力を持っていると知り、喜ばしく思った…、という内容。
たしかに、と思うところがあった。
私の母にも同様に「ながら見」及び「補てん」の能力があったように思う。
というのも、私や兄がリビングのテレビにかぶりついてドラマを見ている間、母は食器を洗い、風呂を入れ、アイロンをかけ、服を片し、つまり止まることなく動いていたのだが、画面を見ていない時間があっても、断片的に聞こえるセリフやなんかで、だいたいわかっていたからだ。
平日の昼間も、洗濯物を干し、掃除機をかけ、裁縫やなんかをしながら、午前中に放送されている韓国ドラマをバシバシ見ていた。
その頃の子供・私にはそれが不思議な能力に思えたのだが、気がつけば大人・私にもその能力の少し備わったように思う。
母親ほどにはいかないが、テレビを見ている間別のことをすることはさほど珍しいことではなくなった。
残念ながら今の家は、台所からテレビが見られない・声が聞こえないので、料理をしながら見ることはできないが、一人暮らしの頃はテレビが見えていたのでよくやっていた。
朝ドラであれば新聞に載っている次週予告で大抵の内容を把握するので、ほとんど見ていないのに「そろそろ起業したよね」などと見ているかのように振る舞える(ちょっと違うか)。
いずれにしても、坂元裕二や野木亜希子のように、優れた脚本のドラマは真剣に見ないとついていなくなってしまうけれど…。
結局のところ、男か女かという問題ではなく、慣れ、あるいは訓練によるものであって、talentとかcapacityではなく、後天的に習得されるabilityなのではないか。
朝日新聞のコラムや私の母親であれば「子供の世話を見ながら」が生活のデフォルトとなったから、ながら見ができるようになった。
また私であれば一人暮らしで自分でやらないといけなくなったから、そこそこながら見ができるようになった。
件のコラムは、慣れや訓練でしかないことを、殊更「男」や「女」に回収させて、なんだか鼻につきました。
実は長々と書いたのは、このことが言いたかっただけである。
ここまで書いて、もう一つ原因があることに気づいた。
ドラマやらバラエティ番組やら、テレビをみっちり見たいんだというこだわりがなくなってきた、ということである。
つまり、加齢ってやつだ。
マア、そんなものなのだろう。