Nu blog

いつも考えていること

礼拝

毎日礼拝のある学校だった。

キリスト教の中でもプロテスタントという宗派に属する学校、いわゆるミッションスクールである。

 


礼拝は、オルガンで奏でられる前奏を聞いて黙祷することからスタートする。

礼拝堂に入ったら、友達とのおしゃべりはやめて、心を落ち着かせましょうね、ということになっている。

中にはすでに寝落ちしている奴もいるが、いずれにしても礼拝堂はとても静かである。

前奏は大抵バッハのG線上のアリアだった。だから今でもG線上のアリアを聴くと礼拝を思い出す。土曜日の礼拝を担当していたK先生は、前奏を生演奏してくれる真面目な先生だったのだが、いつも、よくわからない風の吹きすさんだような曲を弾いてくれた。

頭の中では思い浮かべられるのだが、いかんとも形容しがたい。

中学生の私たちは「Kがまたあの曲弾いとる」などと小声で喋りあったものである。

 


司式者、つまり牧師さんが開会を宣言し、賛美歌を歌い、聖書の言葉に耳を傾ける。

日曜日に行われている一般的な教会の礼拝も似たようなものだ。ただ、日曜日の礼拝は時間があるので、賛美歌を三曲くらい歌うが、学校では一曲しか歌わない。

そしてお説教の時間がある。これは一般的な教会では牧師先生が毎週お話しされるのだが、学校では毎日日替わりで誰かがお話をしてくれた。

担任の先生がする日もあれば、あまり受け持ってもらったことのない先生が登壇することもある。身近な話、季節の話もあれば、先生の身辺事情を交えたこと、体験談、あるいは時事ネタなどなどなど。大人が10分弱、話をしてくれるのを聴くのは面白かった。

今となってはそのほとんど、いやまあだいたい全てを忘れているが、人によって話し方や話す内容に差があって、TEDのプレゼンを見ているようなもんで、たぶん知らぬ間に鍛えられている部分もあったのだろうと思う。

 


卒業式の日、院長が登壇された。卒業式も、礼拝形式で行われるのだ。

院長というのは、校長よりも偉い、とにかく偉い人である。

さぞかし立派なお話があるものと我々は珍しく背筋をピッと正した。

礼拝堂が静寂に包まれる。

院長先生は通り一遍の挨拶などはすっ飛ばし、おもむろに口を開いた。

 


三年間、毎日同じ時間に学校に来て勉強をした。これだけでもう十二分に立派だ。誇りに思いなさい。

私は最近、ポーっという汽笛の音で目が覚める。起きて聖書の言葉に目を通す。それで「よかったなあ」と思う。

以上。

卒業おめでとう。

 


これだけであった。

私たちはキョトンとした。院長先生のお話は五分にも満たない短なものだった。

しかし、たぶん多くの人が覚えていることだろう。

きっと、感動したのである。

ちなみにこの院長先生、後に、「同じ話を二回する」事件を起こすのだが、それはまた次回に書くことにする。