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いつも考えていること

『SUNNY 強い気持ち・強い愛』

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SUNNY 強い気持ち・強い愛』を観た。


大根監督の作品とは、興味・関心は合うのに話が合わない、ということばかりで、いつも歯痒い思いをしてきた。

今回も、「コギャルが主人公」「表題に小沢健二」「90'sムービー」と聞き、いつも通りの結果を覚悟したわけだが、観賞後はなかなかどうして、満足した自分がいた。ほっとするより、なんだか悔しい。 


90年代、淡路島から東京に越し、カルチャーショックを受けつつコギャルのグループに馴染んでゆく高校生を広瀬すずが、その四半世紀後、2018年にそれなりに裕福な家庭の主婦を篠原涼子が演じている。


2018年の女性らが90年代、自身の高校生時代を思い出し、現在の自分を見つめ直すという物語で、つまり、ディテールの細かさこそが作品の肝である。

グループが揃わなくなった「事件」の詳細などは瑣末なことであるから、そういうところを、「しょーもない」と言ってはいけない。つまらないけど、しょうがない。

けど、原作である韓国の映画『SUNNY 永遠の友達』では、その「事件」も不自然ではなく感じられるから不思議だ。ほんとふしぎ。

当然のことながら、原作と日本版ではディテールがことごとく異なる。

たとえば原作で主人公が都会のアイテムだと感じるものはルーズソックスではなく、ナイキ、アディダスのエナメルバッグやスニーカーだ。ダサいものの象徴としてスペックスの靴なるものが出てくるが、ぼくにはそうした原作のディテールは掴めない。

それだけでなく、反共防諜の標語作りやラジオが主要なメディアであること、整形のカジュアル化前夜、軍事政権へのデモ、シンナーなど、きっと韓国のその時代を感じる要素が散りばめられているのだろうと思う。

同様に日本版では、全員コギャルの学校(クローズゼロを反転したような世界だ)、ロン毛のイケメン、小ネタで扱われる伊東家の食卓など、日本のその時代を感じる背景が盛り込まれる。女子高生たちの服装よ!

演者や時代によって、源平盛衰記のくすぐりネタが異なるように国により、時代により、ネタも変わるわけだ。

 
日本版のは時代背景がわかるため、ディテールに対する違和感も強くなる。

全員コギャル設定ってどうなのよ?とか。たとえどんな学校であろうと、そんな一辺倒なこたぁないだろう。90年代を最後のマス文化と捉えるのか、多様化前夜と捉えるのか。大根監督は前者と判断した、ということか。

あるいは、DJをやっているロン毛イケメンの三浦春馬が、ヘッドフォンで聴いている曲がChara。たしかに場面にはあっているのだが、なんだかリアリテイにかける。まあ、初めは「今夜は、ブギー・バック」だったらしい。回避されてよかった。

あとはもうちょっと雑誌全盛期であったことを映し出してほしかった、とか。

 
しかし、観賞後の満足感がどこに由来するかといえば、まさか安室奈美恵の「Sweet 19 blues」なのである。しかし、ぼくは安室奈美恵と縁遠い。耳にしたこともテレビ番組から流れるそれ以上はない。しかし知っている。そして聞こえてくる。「ただ過ぎて行くよで/きっと身について行くもの」。この歌詞こそが本作の象徴だろう。主人公らはしばし「あの頃何が面白かったのか分からないけど、ずっと馬鹿みたいに笑ってたよね」と語る。「ただ過ぎて行くよな」日々が現在・未来の自分を作り上げる。時の流れに受動的に身を任せているようで、生はいつも仕方がなく能動的である、ということを思う。

 
それにひきかえ、小沢健二の使われ方には不満が残る。そもそも渡辺直美広瀬すずの対談において「この曲は、今回初めて知った」と発言している。明言されていないものの安室奈美恵ならば知っていたのだろう。売れていたとはいえ、マスではなく個人、一部の熱狂を作ったアーティストなのだとつくづく感じる。大根監督のこだわり自体はそうした一部の熱狂を表すとともに、90年代総括から的を外したと言える。中盤のさりげないところでブギーバックを打ち込んどくくらいが、よかったのではないだろうか。

 

そして、満足したのにはもう一つの理由があって、それは役者らの奮闘である。

特に池田エライザには勝手ながらMVPを差し上げたい。90年代ファッションがバチバチに似合っているのだ。すげーなとしか言いようがない。大人になった池田エライザについては、何かもっとインパクトプレイヤーを投入してほしかったけど。

また、山本舞香も素晴らしい。現在放映中の「チアダン」におけるレズ疑惑、やや不良、踊るという三要素が被ったのは偶然か。原作同様、首に手を回して強引に広瀬すずを連れて行く姿やサラリーマンに「一億払えよ!」と威勢良く言い放つ姿など、なんともさわやかである。

2018年の山本舞香板谷由夏が演じる。この板谷由夏もいい。今はまだ生きている、という病人特有の宙ぶらりんさが染み出ていた。もともと真木よう子がキャスティングされていたと聞くが、それも観てみたかった。

そのほか三浦春馬小池栄子渡辺直美ともさかりえらも思い出せる演技ばかりである。

というようなツイートを見かけたが、それが本当かどうかは別として、監督の意図を超えた共同芸術としての映画の魅力を最大に感じられる作品なのかもしれない。

 

学生時代の時間はあるが金のない、致し方ないDIY精神。90年代のティーンはバブル崩壊後の日本をこんな風に乗り越えたのだと思うと感慨深い。

リリー・フランキーが言うように「女子高生を中心に世界が回っていた」のか、と言うとそうではない。そういう発言を軽々しくさせてしまうところに大根監督のジェンダー観が見える。

日本社会において、自身で生き方を決定できる女性かつティーンが現れた。それが90年代からスタートした。そのことを作中でもっと尊重してほしかったし、そのことこそが2018年に失望と疲労の重なる日々を送る女性らの、灯台になるのではないか。

さて、自分や同世代は、00年代をどんな風に過ごしたっけ?そして今のティーンは?そして未来に何があるのだろうか?

 

ちなみに、原作ではイケメンの現在を北の富士さんに似たおじさまが演じているので、そちらもぜひご覧ください。