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いつも考えていること

東京都庭園美術館『ブラジル先住民の椅子』展-力の込め方が知りたい

ワクワクすると良いらしい、とチコちゃんに聞いたのですが、さっそくワクワクした。

『ブラジル先住民の椅子』展@東京都庭園美術館を観たのである。

 

これまでの人生で、かなりの数の椅子に座ってきたと思う。

学校の、硬くて四角い木と金属の椅子。下に荷物が置ける、謎のバスケットが付いてたりする。後ろの席の奴に、そこに入れた荷物を蹴られて喧嘩したりする。ちょっとずっただけで、床になかなか取れない傷が付く。

会社の、下っ端用のふにゃふにゃな椅子。背もたれは今にも折れそうで、座面のクッションはぺらぺらで、座っているというより乗っかっているというような。

折り畳み式のパイプ椅子。最近すっかり座ってない。パイプ椅子を思い浮かべる時、体育館に敷かれる緑色のシートを一緒に思い出してしまったのはなぜだろう。体育館の講壇の下に収納される無数のパイプ椅子たち。

アウトドアで使う持ち運びできる椅子。去年、フジロックに行ったときに座った簡易な椅子。あるいは店先で見たヘリノックス。もしくは少し荷物になるが頑丈なコールマン。数グラムの違いで値段が倍になったり。

百貨店のエスカレーター横にあるソファ。父親と子供が母親の買い物が住むのを待っているような椅子。冷たい百貨店の床に寝そべったりして。

 

今、家にもいくつか椅子がある。

ダイニング、食卓用の椅子はモモナチュラルで買った革張りのもの。背もたれの曲線が気持ち良い椅子で、春先にベランダを臨みながら座ったりする。

リビングのソファはカリモク60で買った。傷がついてて、割引されたもの。大した傷じゃないので、気にならないで使ってる。2人がけ。3人がけのどっしりしたのに替えたいね、なんて言ってる。

 

椅子と思い浮かべる時、あれも椅子だし、これも椅子だ。

ぼくにとって椅子は座るもの、あるいは荷物置きだったり、時には上に乗って高いところにあるものを取ったりする程度の用途しかなく、機能性やデザイン性も「椅子らしさ」の範疇を超えることはなかった。

しかし、この『ブラジル先住民の椅子』展で展示される椅子たちは、そうしたぼくの先入観ある「椅子らしさ」を軽々と超え、それどころか世界の風景をも一変させる。

動物をあしらっているから、かわいいから、ということではない。もしくは宗教性や呪術性を言いたいのでもない。

椅子だと言われても、椅子だと承服しかねるそれ。椅子または彫刻だと簡単に名指すことのできないそれ。用途や成立の経緯を物語られようと、焦点を一つに収束させられないそれ。

「それ」を見た時に、立ち昇る感情も名付けられない。かわいい、きれい、うつくしい、りっぱだ、すわってみたい、さわってみたい、さわってはいけない、すわってはいけない、ほしい、いえにこれがあったら、なんてすてきだろう。

「それ」の異質さ。異質ではあるが、恐怖は感じない。面白さや楽しさ、愉快な気持ちになるのである。

絵本から飛び出てきたようなユーモラスな造形と、何かを願ったり伝えようとする意志の込められた木材の質感。

 

「それ」はただのオリエンタリズムで終わらせられない。むしろ、その文化を野蛮だとか遅れた文明だとか捉えるのは間違いだ。私(たち)はモノを作る能力を得ることができないでいるのではないか。私(たち)は次に進むことのできないまま、停滞しているのではないか。

 

手で、体で、意志を込めてモノを作ることができない自分を感じる。力の込め方が分からないまま生きているような。パソコンのキーボードを叩いたり、スマホの画面を撫でて、無為に時が過ぎていく。

力の込め方が分かれば、俺だっていろいろしてやるのに。なんて穂村弘の『短歌という爆弾』の序盤に書いてあったようなことを思う(なぜか見当たらないので正確な文章は忘れた)。

椅子作ってやろうか、なんて思って行動に移せなかったりする。

 

職場の丸椅子に座り、背筋を伸ばしながら仕事をしていた同期のことを思い出す。腰が悪いから、座面のクッションはなるべくない方が良いから、と背もたれのある椅子に座らない。

懲罰を受けているようにしか見えないその姿が、本人にとってはコンフォートな状態という。

もしかして、彼は力の込め方を知っているのかもしれない。なぜかそう思ったりした。

 

-9/17まで。

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www.teien-art-museum.ne.jp