『ガメラ』
地上波で平成ガメラ3部作を観た。『シン・ゴジラ』が話題になった頃盛んに見るべしと言われていたので、観られてよかった。
1と2はかなり『シン・ゴジラ』的、自衛隊や内閣等々の現実的描写が多く、ようやく系譜を辿れたな、と満足できたが、3は渋谷の破壊等のタブー破り(怪獣に人を踏み潰させる)に感動しつつも、物語は神話的要素を濃くしていて、奇妙。続編を予感させつつも現実には続編は作られなかったわけであるが、それもむべなるかなと思う。
完全にリサーチ不足でした。大泉洋・小松菜奈の『恋は雨上がりのように』に行くか、安田顕・榮倉奈々のこちらに行くかで、榮倉奈々に軍配をあげたのがマズかった。どう考えても前者に行くべきだった。
原作を知らないのでなんとも言えないが、前提とする要素が多くて、理解しがたい。たとえば、榮倉奈々が専業主婦であることが当たり前のように描かれるが、それってどうなの?
この作品はもっと榮倉奈々推しでいくべきだったのではないか。というか、僕はそれを期待してました。しかし、あくまでも「男の妄想するかわいい」≒「都合のいい女」の範疇を越すことがなかった。苛立ちさえ覚えた。
なぜ死んだふりをするのか。死んだふりをする=「生き返る」ことをメタファーにする等、もう少し料理のしようがあったのではないか。死がコミュニケーションを断絶するように、生き返ることが新たなコミュニケーションを生み出すとか、なんかいろいろできたのではないだろうか。表層的な夫婦愛、「長生きしようね」的愛情はー理解できるけれどもーあまりにも世俗的な願望すぎて、もはや共感する余地がない。
『セカチュー』以降の純愛主義はとっくに「死んだ」のだと気づかされた。本来は本作が純愛ものの「生き返り」=「死んだふり」を担うこともできたのではないか。
うーん。これらは鑑賞者でしかない私の勝手な感想なのだろうか。
ちなみに、野々すみ花が「ワニが好き」という設定なのだが、ひっそりラコステのポロシャツ着てるとこだけはよかった。
町田康の文体を映像に落とし込めず、序盤から失速する展開。残念。
豪華俳優陣による怒涛の言葉遊び、言葉の奔流を期待していたのに、もしかして観客を信頼しきれなかったのか、ナレーションで展開させたのは、確かに原作そのまんまなのだけれど、それは小説ゆえのドライブ感を生み出す技法であって、映画で同じことをやるのは違うと思う。
原作ものってそういうのが難しい。別の媒体に落とし込むことで、元の作品にあった魅力が変質してしまう。
豊川悦二と浅野忠信の2人だけが、その存在感でもってして、作品世界のニヒリズムを表していたかなあ、と思いつつ、誰か大作『告白』を映画化してくれへんやろか、なんて思う。怖。
『マッド・マックス』
リュック・ベッソンの『タクシー』でも思ったのですが、この時代の色あせた画面に車と砂埃がよく似合う。最近の画面だと車がキラキラしちゃってて、きれいでしょう。汚さがいい。
他にもいろいろ観た気がするけど、こんくらいで。