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いつも考えていること

山本義隆『世界の見方の転換』

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山本義隆『世界の見方の転換』を読んだ。

『磁力と重力の発見』『一六世紀文化革命』に次ぐ近代科学誕生史を締めくくる第3部(といってもその第1部と第2部は読んでないです…)。

天文学の復興と天地学の提唱」「地動説の提唱と宇宙論の相克」「世界の一元化と天文学の改革」の3巻からなる大著。

そんな大層なことは何も知らず、題名のかっこよさだけで読み始めたので、めっちゃ苦労しましたよ!


順を追ってまとめてみる。

そもそもアリストテレスは「地球が宇宙の中心」であり、「天体の運動は円」と断定し、長らくその断定が揺らぐことはなかった。いわゆる天動説というやつである。

紀元2世紀、プトレマイオスは円の組み合わせで惑星軌道を説明し、アリストテレスの宇宙像の数学的精緻化を図った。

離心円、周転円、等化点を用いた円の組み合わせは、私にその計算の詳細を理解できる頭はないものの、示された図などを見れば、一目瞭然にひとつの芸術であることが分かる。惜しむらくは、それらの円の中心は地球ではなく、真空となってしまうこと。なぜ真空が中心となるのか、といった批判は当然だろう。中心が真空だなんて、恣意的に決められすぎて、納得感に欠ける(アリストテレスは地球が中心と言い切っている)。

プトレマイオスは『数学集成』と『地理学』という大著を記している。本書で示される『地理学』のすごいところが面白い。以下引用する。

プトレマイオスが主張する地理学の数学化ー数理地理学の形成ーの基本は、ひとつには地球を平行圏(緯度圏)と子午線(等経度線)の網の目(グリッド)で覆うことによる、緯度と経度を用いた各地点の厳密に数学的な座標づけであり、いまひとつは縮尺概念の重視にある。(p84)

少なくとも部分図の場合には、……緯度圏を表す円のかわりに直線を引き、さらに子午線をも楕円曲線でなく平行線としてひいたとしても、実体からさほどかけ離れはしないであろう。(Ⅷ-1.6)
とも指摘されている。曲面(球面)上の直交座標系の導入だけではなく、その座標が局所的にユークリッド計量を持つことのはじめての指摘であり、それはデカルトが直交座標を使用したのに千五百年近く先んじている。(p85-86)

すごい…。

さて、ここから1000年以上後、北イタリアの人文主義者が、スコラ学に対抗するために過去の著作を漁り始めるまでの間、埋もれていたと言う(イスラム圏において受容されていたらしい)。天文学の発展は、一旦ストップされていたのである。

そこにポイルバッハが現れる。

1472年、誰が書いたんだか分からない『惑星の理論』をアップデートし、『惑星の新理論』を著した。定義と原理からの論証を第一とする大学教育、スコラ学から離れ、実践・観測を通して、確かめる手法を導入した。実践・観測を通して確かめる、ということがスコラ学・中世において、突拍子もないことであった。

そのポイルバッハの弟子、レギオモンタヌスも数学的帰結と観測結果の不一致を批判。

この「批判」の感覚も同時代からすれば、珍しいことだった。なぜなら、スコラ学も人文主義者も、権威的な過去の著作を「解説」することを講義としており、新しい発見を探すものではなかったからである。すべて古典への「注釈」であって、「科学の進歩」という概念を持たなかったのだ。

そんな中レギオモンタヌスは、先人の到達地点を越えて前進しようとし、より精緻な観測データを蓄積しようとした。

また、出版の潜在的可能性を見抜いたのもレギオモンタヌスだった。「正しく校正されて出版されるならば役だつと同時に、誤りを含んで流通したならば危険」とメディアの力をも喝破していたという。

残念ながら早世したレギオモンタヌスの意思をヴァルターが継ぐ。この人は、天才的な観測屋さんであったそうだ。

この頃、プトレマイオスの『地理学』が更新され始め、これにより過去の知識には限界や誤謬があることがわかり始めた。ヨーロッパ人はようやく、古代の叡智やイスラム社会へのコンプレックスから解放され、新しいこと、より正確なことを見つけ出せるようになり始めた。

ポイルバッハ、レギオモンタヌス、ヴァルターの3人が、天文学という実証を必要とする学問を通じて、近代科学の種を蒔いたのである。

 

そして、コペルニクスの登場。『回転論』により、いわゆる地動説が唱えられる。

しかしながら、「宇宙は球形で無限大に類比」の1行は『回転論』から削除されている。これはアリストテレス自然学に抵触することだったからだそうだ。

また、オジアンダーという人は、『回転論』に「読者へ」という前書きを挿入し、「天界運動の真なる原因にはどんな方法によってもけっして到達することはできない」から、「どんな原因や仮説も許容される」「仮説が真である必要はなく、また本当らしいということさえも必要なく、むしろ観測に合う計算をもたらすかどうかという一事で十分」と付け加えた。

これは、アリストテレス主義者や神学者たちを宥めるための序文だったが、地動説への前進を妨げるものとして、ネガティヴなものと捉えられてきた。

しかし、時代背景を考えれば、哲学と数学の上下関係をこの一冊がひっくり返す重荷を下ろさせたわけで、賢明だったとも言える。不可知論の立場でもあった。

クザーヌスは1440年『知ある無知』において、「宇宙は限界のないもの」であり、無限には中心がないことから、地球が運動することは明白と喝破した。コペルニクスの1世紀前のことであるが、彼もまた不可知論からそう考えた。

なお、同時代の有名人、ルターはコペルニクスを馬鹿者と罵倒したと言われているが、それは怪しいそうだ。

コペルニクスの支持者にはプロテスタントが多かったし、ルター自身「聖書を学習するためには聖霊の表現の仕方に適応しなければならない。他の諸学問においてもまた、最初にその専門用語を正しく学ばないかぎり、成功は覚束ない。たとえば法律家は、医師や哲学者には馴染みのない用語を有しているし、他方で、その後者の人達もまた、他の職業には馴染みのない自分たち自身の言葉を有している。どの科学も他の諸科学を妨げることなく、自身の言葉と手続きを維持しなければならない」と述べている。むしろアリストテレスを追放しようとしたそうである。

16世紀、ティコ・ブラーエ、そしてケプラーと物理学としての天文学が確立されていく。それまで支配的だったアリストテレス自然学からの脱却、新しい世界の見方=近代科学となるのである…。

book.asahi.com

 

分厚く、数式等の記述もちらほらあるし、物理学や天文学への理解が必要となるものの、読んでみれば案外分かりやすく、いわゆる科学読み物として、それもかなり良質な科学読み物として読むことができる。たぶん専門家にとっても耐えられる内容なのだろうと思う。3冊読むのに1ヶ月かかったし、自分の知識不足もあって未消化なところは多いが、とにかく楽しかった。

近代科学の誕生を描いてはいるものの、近代科学礼賛一辺倒にはなっていないのがひとつのポイントだろう。科学は万能ではない(あとがきにおいて、日本における近代科学の帰結として福島原発事故があるのではないかと問題提起している)。しかし、実証と批判の精神が進歩をもたらしたことは確かだし、その進歩のすべてを否定することは誰にもできない。

科学を批判的に考えるために、科学の前にあったものや科学がどのように誕生したかを知ることは、重要な補助線になるだろう。

 

不動の世界がひっくり返り、地球が動き始める。それは千年千五百年の時を経て、実際の観測と計算によりようやく得られた知見であった。

我が身なり周囲なりをうかがって、自分は間違っていないと事実を直視できなくなるのも、むべなるかな、と思わなくもない。千五百年の間、多くの人間が天動説を信じ(もしかすれば天に想いを馳せる暇なく)死んでいったように、私たちもたくさんの勘違いや思い込みを抱いたまま死んでゆく。言いようのない虚しさや悲しさを抱きつつ、それもそれかなと思うのである。