部活動において、時に、優秀な選手の驕りを戒めるため、「干す」ということが起きる。
実力ではAという選手を使うべきなのに、あえてBという選手を使い、Aに発破をかける、という行為を「干す」と言う。
パフォーマンスが期待を下回っているとか、態度が尊大だとか、気迫に欠けた怠慢なプレーが目立つとか、様々な理由がある。
「干された」選手は、理由が明確に提示されているのであれば、その条件をクリアしようと奮闘するものだが、往々にして運動部のコーチというのは「何が悪かったか自分で考えろ」などと不明瞭なことを言いだす。
理由が不明なので、練習試合1試合で終わることもあれば、かなり長い期間に渡ってそれが続けられることもある。
周囲は「ああなりたくない」と思って、恐怖心から指導者の心証を悪くしないよう振舞うことを、環境的に強いられることとなる。
結果として「干された」選手が腐ってしまうこともある。指導者らの思惑とは異なり、優秀な選手がいなくなるリスクもあるわけだが、指導者というのは他人の人生を変えてしまったことに面と向き合わず、小賢しくも辞めた選手のことを悪し様に罵り「ああなっちゃいかん」などと利用する。
そんなわけで「干す」文化はなくならない。
しかし、「干す」ことがどれだけの効果を得られるものなのか。
単に事実を列挙すれば、それは「いじめ」や「パワハラ」「暴力」でしかないのだが、こと部活動や教育の現場では正当化されがちなのが不思議だ。
此度の日大-関学アメフト事案について思うと、忸怩たる思いに駆られる。日大の選手の会見を見たが、なんだか涙がこみ上げてきた。大学進学後、厳しい練習の中で「フットボールが好きじゃなくなっていった」と言う。なんて悲しいことなのだろうか。
野球やサッカー、ラグビーの強豪高校で鍛えられた人が、大学のサークルで久々にその競技の楽しさに気づき直せた、なんて話を耳にしたことがある。
もちろん、競技であるから、そうした強豪校から日本を代表し、世界と戦う才能が育っていくわけである。
しかし、そうしたトップの選手たちにこそ競技の楽しさ、そして勝利のために鍛える過程のある種の気持ち良さみたいなものを表現してほしく思う。辛くなければ意味がないとか、しんどくなければ本当じゃない、みたいな価値観は、消え去ってほしい。
会見を開いたあの選手の未来が、どうにか救われ、明るく照らされていきますように。
日大のその他の選手らの上にも、平安が訪れますように。
また、怪我をした関学の選手も、無事に治り、復帰できますように。