Nu blog

いつも考えていること

2月せんぶ

平昌オリンピックにかじりついていたらブログをちっとも書かなかった。

冬季オリンピックはやっぱり楽しい。

どの競技も4年ぶりにみるけど、どれもおもしろい。スキーやスケートに行きたくなる。

選手の皆様、関係各位は日々その競技に取り組まれていて、前の大会からの4年、オリンピックで活躍できるレベルを維持・向上するため努力されてきたのだと思うと、不真面目な観客・私は、4年に一度、たった1日や2日の結果だけをみて良かっただの悪かっただの品評しやがるのだから、ひどい人だ。

しかし、だからこそ、W杯とか世界選手権を凌駕する注目度を持つオリンピックには価値がある、と毎度思う。こうした不真面目な観客でさえもみるオリンピックだからこそ、それを契機にスポンサーがつくし、選手人口が増える。

ゆえに、オリンピック競技から外れること、オリンピック競技になることで上へ下への大騒ぎは当然のことなわけだ。各団体の生き死にがかかってる。

マチュア相撲、ぜひオリンピック競技にしましょうよ。なーんてね。

前口上はさておき。

一番楽しかったのはスノーボードハーフパイプ平野歩夢ショーン・ホワイトの一騎打ちは最高でした。平野歩夢の優勝でも良かったのでは、と思いつつも最後の最後で決めてくるショーン・ホワイトの強さには胸打たれる。

スロープスタイル等でも話題になりましたが解説の中井さんもクール。「スタイル入ってますね」「かっこいいです」「渋いです」、そして「オシャレですね」。

スポーツの価値観に「オシャレ」というのは新感覚。過去2大会でもハーフパイプはみてたけど、「かっけー」「すげー」はあっても「オシャレ」は思ったことなかった。

ラグビーや相撲などぼくの好きなスポーツにも「オシャレ」なプレイがあったら、きちんと評価したいと思いました。

「今のパス、オシャレですねー」「タックル決まりました、かっこいいですね」「まわしの切り方が渋いです」「体の寄せ方、スタイル入ってますね」etc……。

そしてカーリング。ルールや戦略が分かり始めるとめっちゃおもしろい。前半の4投が後半の4投に響いてくる感じ。数センチの差で変わる情勢。点差が戦略に影響し、指先へ、ブラシへと波及していく。

銅メダルを取ったLS北見、3位決定戦のイギリスもそうでしたが、予選のフィンランド戦とか準決勝の韓国戦とか、いいところで相手のミスを誘発する「勝負強さ」が一番の魅力でした。あと、ゆっくり歩いてくるリンドコーチのカッコよさ。

いつも楽しいモーグル。どんどん技術が上がっていて、もう誰もツイスター(身体を左右に捻るやつ)とかコザック(脚を広げて身体を折り曲げるやつ)とかやらないんですね。

それどころか、くるくる回ってて驚きました。子供の頃はスキーでグラブしてる人見たことなかったのに…。

男子で優勝したキングズベリーの微動だにしない上半身に感動。これするために生まれてきたのかな、って勝手に思った。「キングの滑りですな」という親父ギャグを言ってたことをここに公表しておきたい。あと2日くらいで記憶から完全に消えそうなので。

人生はマススタート、最後の1周で1位を取ればいい。みたいなつまらんことを思いついてしまう。もうダメだ。

女子のマススタートで最初ぶっとばしてたエストニアの人が4位入賞なのは良い戦略ですが、どうせなら3位になれるシステムにすればいいのにと思いました。つまりポイント間の差を20点じゃなく10点にする。けっこー白熱すると思うけど、競技の主旨が違うのか知らん。

 

2月はサウナにもよく行った(歯医者にも毎週行った…)。

自転車で10分走ればチョイスが3つ、4つあることに気づいたもので。

あるところはテレビが設置されていたのですが、ありゃうるさい。集中できん(何に?)。

懐メロがベター。昴とかあずさ2号とかが流れてると、まったく世代じゃないから無心になれて良い。

歌詞も聞き取りやすく、今なんつった?みたいなストレスがなくてよい、などと。

 

花やしきにも行った。敷地の狭さにも驚いたが、そこにけっこーな数の遊具がひしめいていることにも驚いた。

ひとつひとつはさほど怖くないのに、錆びついたボルトやガタピシ音を立てる遊具が怖い。ビッグ・オーという回る遊具があったのですが、ほんまに横の建物とぶつかりそうで、死ぬかと思った。

奇天烈な世界だなあと感じたけど、子供の頃は遊園地が身近にあったのに、USJができてからどんどんなくなって、甲子園の遊園地が住宅展示場になってた時の悲しさは今でも思い出せる。

だから、郷愁漂う花やしきのあの世界というのは、全国で失われてしまった遊園地たちの無念さが集まってできたものかもしれない。

園内にいる間、すべてがセピア色がかってた気さえしてくるのです(大げさ)。

 

鷲田清一『モードの迷宮』を読んだ。

図書館にハマってて、他にも色々読んだけど、まあいいや。

目についたから借りた。これはなんとも装丁がかっこいい、と思ったら、やはり菊池信義さんである。「あっ、かっこいい」と思ったら、たいてい菊池信義、本当に。

中学生の頃から、かっこいいと思う装丁はすべてすべて菊池信義なので、菊池信義が大量の本を作ってあることに驚くし、気づく自分を誇らしく思う。

モードの迷宮

モードの迷宮

 

1987年7月から1988年11月まで、『マリ・クレール』に連載されたもの。意識高い系女性誌というのは今もあるが、たとえば『クレア』誌の連載が池上彰佐藤優であることを思うと、時代の移り変わりを感じる気がする。

鷲田清一氏とともに、思索の散歩をする本書。迷宮をさ迷い、抜け出た先の景色は、迷宮に立ち入る前と何も変わらないようでいて、何もかも変わっているようでもある。

本書の刺激的なところは、時代ごとの「モード」が何を表しているのかに構造主義的にアプローチするのではなく、そうして変化する「モード」が何を示しているのかを現象学的に見抜こうとするところ。

だから「〈私〉」という表記がたくさん出てくる。

いくつか引用して、内容をかいつまんでみたい。

衣服が身体の第二の皮膚なのではなく、身体こそが第二の衣服なのだ。(p26)

衣服が第2の皮膚と言われることと身体が第2の衣服と言われることの大きな差に愕然とする。

この身体も衣服である。となれば、「衣服」は何から何を守ろうとしているのか、何から何を隠そうとしているのか?

(制服としての)衣服が狙っているのは、よく言われるように、多様な個性の均一化ではない。(……)衣服は(……)個々人の差異を消すという口実のもとで、別のもっとのっぴきならない事態を隠している(……)私が現にいまこの〈私〉であることには必然的な根拠がないということ、この事実を衣服は隠蔽する。それは、私にある共同的な表象をまとわせることによって、(……)私が〈私〉となるプロセスが存在することを隠蔽し、私を〈私〉であるという自己同一性の夢のなかに閉じこめる。(p118-121)

こうも簡単にネタバレしてしまうと感動もないだろうが、上に引用した一文に至る感動は読んで味わってほしく思う。

平日、あえてサラリーマンらしい格好、OLらしい格好をしているあなたが、反動として休日に派手な格好をしたり、あるいは平日に引きずられるように地味な格好に埋没したり、そんな普段のあなたを想像してみよう。

何を着ているあなたがあなたか?あしたなに着ていきていくのか?

たえざる偽装、はてしのない移行。(……)服を変えれば、世界の感触、空気の香りまで変わってしまう(……)私は別のものへの移行と変換(エクスタシー)においてはじめて〈私〉となる(……)〈私〉の生成は、後戻りのきかない不可逆的なプロセスなのである。(p133-134)

クローゼットに並べられたどの衣服が偽りなき装い、本当の私の服なのか、と問うてみれば、すべてが偽装であることに行き着く自分を発見する(「たくさん服を持っているのに服がない」という現象の原因はこれではないだろうか?)

しかし、袖を通せば明るい気持ちになるものもあるし、憂鬱な気持ちになるものもある。不思議なことに衣服は私そのものではないにもかかわらず、私そのものなのである。

〈私〉 の時間的生成についても(……)〈私〉の現在はただちにもはや現在ではないもの(「たったいま」)へと滑り落ち、(……)現在には、まだ現在でないものがどんどん流れ込んで(……)たえざる到来と消失の運動(……)そうしたなかで〈私〉が〈私〉であるためには、〈私〉は自らを同一のものとしてたえず受けとりなおす(……)自己の差異化・複数化と見えたものが、実は自己の反復であることを示さねばならない。つまり、現在ともはや現在でないものとを、同一のものなら反復としてたえず架橋していかねばならない。(……)自らに形を与えつづけなければ、〈私〉は流れる時間によってたえず帳消しにされる(……)箱のなかの物体の形状や量感を、箱を揺さぶることによって確認するように、私たちは自分が何であるかを、共同的な意味の枠を揺さぶる(p165-166)

刻一刻と失われ、新たに立ち上がる自己の存在の連続性を保つためにこそ、装いが必要とされ、装いもまた刻一刻と失われ、新たに立ち上がる現象=モードとして人々に目撃されることとなる。つまり、装うことは私たちの生の根源と結びついているのだ!

引用したような概念的な話ばかりでなく、靴やコルセットといった衣装が人体を変形させてまで求められる意味や、人体の「自然」を離れすぎた衣服が求められない理由など、面白く、腑に落ちることがたくさんある。

オススメです。

 

東京都庭園美術館の『装飾は流転する』展を観た。

上述した『モードの迷宮』につながるかもと思ったが、あんまりつながりませんでした。

むしろ本を読んだ後だったので、「人間は装飾を必要とする」みたいな歴史的展開が知りたかったのかもなー。縄文土器から現代まで、的な。

ニーズの不一致は致し方がありません。

 

地上波放送の『HANA-BI』と『シコふんじゃった。』を見る。

大杉漣演じる引退した刑事の暇の持て余し方が、しみしみしみ込んで、心の痛さで泣きそうだった。

たけし演じる西の暴走と逃走の美しさを言語化したくない。

なんて、いい映画なんだろう。

 『シコふんじゃった。』のもっくんの弟役の役名が「春雄」で、「照ノ富士やん」って時空を超えてツッコんでみた。虚しい。なんか、もう、テンプレ的展開が最高に良い。おもしろい。本当におもしろい。

 

相撲についてのいざこざはオリンピックのおかげでいったん表舞台から遠のいた。けど、またすぐに三月場所が始まる。ワイドショーの格好の餌食として、あーでもないこーでもないと騒がれるのには嫌気がさす。

生前、母親が「相撲してきた人にそれを求めるのがおかしい」と言ったことを思い出す。

時津風部屋暴行事件や賭博問題、八百長問題で角界が揺れていた時のことで、北の湖親方や放駒親方(元魁傑)らの対応を見ながらのことだったと思う。

「それ」とは「常識」とか「社会通念」とかそういうことで、今回の件で言えば、「そもそも問題を起こさないようにしましょう」「問題が起きたら速やかに対処(公表、解明、再発防止)しましょう」みたいな、社会のルール、真っ当な企業や組織に求められることのことだろう。

はて、「相撲をしてきた人」に「それ」を求めるのは「おかしい」のか?

たとえば野球だけしてきた人に、サッカーだけしてきた人に、バスケ、ラグビー、アメフト、卓球、バレーなんでもいい。スポーツの世界だけに生きてきた人に「それ」は求められないのか?

簡潔に、結論は「そんなことない」である。

なんであれ社会で生きてきたのだから、「それ」と無縁の世界はない。その世界だけの「それ」があったかもしれないが、「それ」があることさえわかれば、そのコードが変わろうと順応できるはずだ。

…しかし、相撲には一般的なスポーツと決定的に違う次元、側面を持つ。

そもそもが鎮魂の意味さえ持つ相撲という神事である。

名著、宮本徳蔵の『力士漂泊』からいくつか引用させていただこう。

京橋、日本橋に住むふつうの市民にとって、橋の向こうの地域(いわゆる向両国)は「異境性」を持っていた。それを渡ることは、生者の国から死者の国へ足をふみ入れるにひとしい行為だった。(……)相撲もまた江戸市民にとって、花火や水垢離と同じ意味を持っていた。法界の諸仏、わけても金剛力士への信仰にもとづく、鎮魂のパフォーマンスであった。(p65)

チカラビトは異形の者である。その点では、方向性こそ反対ながら侏儒と似ている。四六時ちゅう無慈悲な好奇の眼差しに取り囲まれているのみならず、規格外の肉体がふつうの生活をおくることすら許さない。(p58)

力士漂泊 相撲のアルケオロジー (講談社文芸文庫)

力士漂泊 相撲のアルケオロジー (講談社文芸文庫)

 

「あちら側」の世界、人ならざる者として、通常の世界で言うところの「基本的人権の侵害」が通常な「あちら側」。

このブログの言葉も優れている。

力士の髷は「人ならざる者」であることの象徴であり、それ故に彼らは常人の世界観から逸脱した「強さ」という幻想を背負っているわけです。例えば、朝青龍が「腰の骨が折れている」と言って休場している間にモンゴルでサッカーをやっていて問題になったことがありましたが。「朝青龍は腰の骨が折れていてもサッカーができるほど強い」くらいに考える方が、彼らの背負っている幻想に対しては誠意のある態度なんじゃないかと僕は思います。貴の岩の件に関しても「力士は強いんだから、ビール瓶で殴られたくらい大丈夫」と、やせ我慢でもいいから言って見せるのが相撲の親方としてあるべき姿なのではないでしょうか。

pocohechodesanmiguel.blogspot.jp

異形の者でありつつ常識に従え、あるいは一般的な人間でありつつ怪力を持て、なんてことは無理、無理、無理。

つまり、「人ならざる者でありつつ人であれ」と言うのも、「人でありつつ人ならざる者であれ」と言うのも、どちらであれ可笑しいこと。

実は簡単な結論があって、早い話、さっさとスポーツ化してしまえばよい。

これは密やかな僕の意見でもある。親方制度なんて止めて、クラブチームにすればいい。企業が力士を雇い、スポンサー企業も入れる。全国にスタジアムを作ってもいいかもしれない。なんの問題があろうか。野球やサッカーと同じことだ。

そうとなれば、人間であり、かつ人間のルールに従え、などと至極当然のことが当然となる。

宮本徳蔵はこう書いている。

こうまで人びとの意識の深層に根ざした文化的なシステムである以上、近代化を焦るあまり、本質的な部分にちょっとした改変を加えただけでも、あっという間に全体が崩壊してしまうだろう。(p76)

潰すならちゃんと潰してまったく別のものを作った方が、本来の精神や文化が残ると思います。

そういえば、職場の飲み会で「隣の部署の誰々さんは日馬富士に顔が似てる」と言われ、ぼく以外のみんな笑っていたが、ぼくはちっとも似ていると思わなかった。

誰も、ちゃんと見ていない。

そんなもんなのだ。

 

tofubeats『ふめつのこころ』が良い曲です。


tofubeats「ふめつのこころ」

 

ヤバイTシャツ屋さんのライブに行った。

ああいう激しめのバンドのライブって初めて行ったのかもしれない。ほんと、モッシュとか初めてみました。遠くはるか先での出来事だったけれど。あれ、楽しいのか…?

どんどん売れてってね、がんばれ。と親のようなことを思っております。

 

『anone』みてるけど、4話のあおばさんの息子の態度に関する言及が割と少ないような。ぼくにとっては『問題のあるレストラン』における「傘が無い」話と同様に衝撃的だったのだけど…。

人前でもなんの気兼ねなく服を脱いだり、具合の悪い母親を心配することなくご飯を要求したり、50歳くらいの女性に何かできるなんて露ほども思ってなかったり…。

でも、ハンバーグを一緒に作る時の息子さんは従順というか、素直で、優しく、良い子なのだ。

なんだか、もう、それが…、身に覚えがあって…、うわー、ってなってしまったんですが…、みんな身に覚えないんですかね…。いいなあ…。