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いつも考えていること

おぼろげな90年代

1990年代論 (河出ブックス)

1990年代論 (河出ブックス)

 

『1990年代論』を読んだ。 

いふまでもなく、音楽の場合であれダンスの場合であれ、われわれはリズムを知るために、そこから遠い距離を取る必要はない。それどころか、リズムといふものはわれわれがその渦中にあってこそ、その全体像も、内部におけるわれわれの位置づけをもつかみうるものである。同時代史を書くために、ほんとうに必要なのはこのリズムを捉へる感覚なのであって、それさへ働けば、時代変化の意味を知るのに十年の時間を生きれば十分だ

というのは、山崎正和の『柔らかい個人主義の誕生』からの引用であるが、今、1990年代論が出される意味とはこのあたりにあるのだろうと思う。

様々な観点からの論考が並び、それぞれの語り口で90年代が論じられる。どれも現在の足もとに何が埋まっているのかが明らかになるものばかりだ。

いくつか挙げる。

吉田徹氏の「「敵対の政治」と「忖度の政治」の源流---獲得された手段、失われた目的」。選挙制度改革と行政改革がもたらした、「現在の政治」の原点が詳らかになる。

選挙での勝利を逆算して政策を進め、敵対する陣営を国会論戦などで徹底的に非難しつつ、首相官邸からのトップダウンね政策を進めていく様は、二〇一二年から野党に返り咲いた自民党、安倍政権の最も得意とするところである。安倍政権の「一強」の理由は九〇年代の改革の論理的帰結なのである。

「家族」をテーマとした水無田気流氏の「「平凡」と「普通」が乖離した時代」では、90年代の家族の変化=主婦パートの増加を、その象徴として桐野夏生『OUT』を引く。90年代を未婚化、少子化高齢化がそれぞれに進んだことで、「平凡に生きて来たのに、これまでの「普通の主婦」の生活から滑り落ちていく人たちが増えた時代」と捉える。

「普通にしていば、普通の幸福をつかめるはず」という「将来に対する唯ぼんやりとした希望」がまだあったがゆえの「平凡と普通の乖離」のスタートが90年代なわけだ。

ゼロ年代以降、「希望」は「不安」に反転し、「おひとりさま」「カツマー」「婚活」がジェットストリームアタックをかけてくる。ゆえに90年代を「次回予告の惨劇におびえる時代」としたのは、言い得て妙だ。

その他「社会問題編」では心理、宗教、科学の分野に関する論考も面白い。特に科学に関する水出幸輝氏の「震える、あの頃の夢」は、科学的地震予知に関する90年代の日本の政策に関するものであり、「予知できる夢」の中、阪神・淡路大震災が起きたことを指摘する。なお、いまだに私たちは地震予知の夢の中にいるのである…。

後半は「文化状況編」。90年代文化と聞くとテレビからな影響か、「アムラー、コギャル、たまごっち」みたいな雑なことを考えてしまうが、そういうものではなく、映画、文学、音楽、漫画、ゲーム、ファッション、それぞれのシーンについて論じられている。

簡単に紹介すると、庵野、新海、岩井を軸に先行者の仕事から現代の映画までを広く見渡した渡邉大輔氏の「「ポスト日本映画」の起源としての九十年代」や社会の二十四時間化に伴い、深夜番組の位置づけが変化していったことを捉えた近藤正高氏の「フロンティアとしての深夜帯」などなど。

柳美里角田光代小川洋子らの存在から90年代以降の文学シーンで女性作家の存在感が強まったとする江南亜美子氏の「九十年代に花開いた作家たち」。景気が悪くなったからようやく女性の参入を許した、という見方に唸ってしまう。また、女性だけでなく、阿部和重中原昌也町田康の名前を「欠くことが許されない」と評したのはゼロ年代に彼らに触れた私(たち)としてはとてもうれしい。

また論考の最後において、

いかに個人的な問題と向き合うかがそれぞれに問われる時代であった以上は、統括ではなく拡散、俯瞰より偏在、批評より趣味的

と断じていたのがカッコいい。

 

2010年代から振り返る時、80年代(昭和)を近代、ゼロ年代以降を現代と捉え、90年代をそれらのブリッジ、橋渡し程度に見做してしまいがちじゃないだろうか。80年代をまるで大昔のように、そしてゼロ年代以降と「今」に変わりがないように扱ってしまいそうになる。

特にインターネットの普及がゼロ年代以降であったことが、その印象に拍車をかけているように思う。というのもインターネットを通じて目に触れる言説は、普及し始めたゼロ年代以降の20年分程度の情報が大勢を占めているからだ。や、もしかするとツイッター以降のせいぜい10年分くらいの情報がぐるぐる回ってるだけかもしれない。過去のアーカイブ化されなかった言説が「なかった」ものになってしまう。

確かにぼくにとってもパソコン、インターネットはゼロ年代のツールだから、そう思うと90年代というのは、色あせた写真のように遥か昔のことのようだ。実際にアルバムをめくれば、今ではもうあまり見かけない印画紙の質感を不思議に思ってしまう。

89年生まれの自分にとって、90年代は記憶おぼろな幼少期の10年だった。

思いつくものを気ままに挙げてみれば、郊外のマンション*1スーパーファミコン*2、お受験*3写ルンです*4ゲームボーイ*5ユニクロ*6名探偵コナン*7ポストペット*8ポンキッキーズ*9、etc、etc…。

すべて骨董品のように扱われそうな事柄だが、30年も経っていない。印画紙に焼き付けられた記憶たち。まだ普通があると、平凡に生きられると、それこそが幸せだと、少し不安げに、あえて無邪気に信じていたようにも思える。

現代、普通も平凡もないことに気付いて、なお抗う人がいて、あるいはどのように多様性を受容し、自らもその一人だと認めたらよいのか惑う人がいる。私(たち)のことである。

現代。着地点はねえ

ずっと、飛んでるキブン

(ZAZEN BOYS「KIMOCHI」)

*1:80年代の住宅開発から築10年を迎えた頃。

*2:90年発売。同年発売のスーパーマリオワールドと92年発売のマリオカートについて、幼稚園児の頃の記憶にある。先日のニンテンドークラシックミニスーパーファミコンには狂喜。

*3:お受験を題材にしたドラマ『スウィート・ホーム』が94年。自分自身小学校受験をしたが、お塾には通わなかった。

*4:写ルンですは86年発売で2001年が最盛期。90年代は写ルンです時代なのだ。写真屋さんで現像を頼み、1時間くらいマクドで過ごして待った。

*5:あの大きいやつは89年生まれ。同年、テトリス。96年、ゲームボーイポケット、同年、ポケットモンスター赤・緑、98年、ゲームボーイカラー、99年、ポケットモンスター金・銀

*6:98年、フリースを200万枚売り上げ。余談ではあるが、ゼロ年代以降の大規模小売店舗立地法制定以前、つまりららぽーとやイオンができるまで、ユニクロは大きな道路沿いに路面店を構えていたものだった。みんな車で乗り付けて、フリースを積んで帰っていた。

*7:96年、アニメ放送開始。

*8:97年サービス開始。

*9:94-99年までBOSE鈴木蘭々がMC、斉藤和義の「歩いて帰ろう」、大江千里の「夏の決心」、アニメ「花子さん」や「ポストマン・パット」など記憶に残るものばかり。99年以降爆笑問題に代わってしまって、年齢もあり、徐々に離れていった。