「笑い 差別」で検索すると、この記事が一番上に出てくるんですね。知らなかった。
たぶん、とんねるずの保毛尾田保毛男の件から、そういう検索が増えてると思われる。
しかし、ぼくはその番組を観ていないのだ。ツイッターで話題になったのは知っているから概要はしっているのだけど。
しかし、このことに関する批判でまず思ったのは、このコンテンツ溢れる時代に、わざわざとんねるずの番組を観ている人ってどういう層なんだろう、ということ。
というのも、ぼくが小学生の時、「うたばん」での石橋貴明はどんなミュージシャンに何を言っても良い、どう揶揄っても許される、そんな人だった。正直なところ家族全員、その石橋貴明の人懐っこさというか、不敵な態度というか、その振る舞いがどうにも面白くて、「うたばん」だけは積極的に見ていたものです。他の番組では、あの「食わず嫌い」とか「細かすぎて伝わらないモノマネ」とかしか見たことない。「うたばん」以外では芸人同士の絡み合いのイメージで、ミュージシャンに接する時と違って「無茶が多くて怖い」イメージがあったので。
そういう石橋貴明的態度って「不快さ」を孕んでいるものだと今になっては思うし、その不快さが90年代-00年代のなんともぽっかりとした世相―「ウザさがおもしろい」「キモさがおもしろい」というような反転的な世相―に"たまたま"はまったけれど、時代が進み、テレビが娯楽の王様ではない、コンテンツ溢れる誘惑多き時代に、痒い所を全力で掻いてくるような石橋貴明的態度をわざわざ摂取しようとは思わない。
前述の記事にも書いたが、「笑いは差別」だと思う。差別というのは、「これは普通だ」「これは普通じゃない」という正常/異常の感覚から生まれ出るものだ。いわば、「非・普通」とされたものを観ることで自らの「普通」に安心することで笑うのだから、笑いというのはひどいもののように思える。
時には「非・普通」であることを利用し、笑いに転化することで自らの「非・普通」を肯定できている人もいる。トレンディエンジェルの斎藤さんの芸はそこにあるので、ぼくは彼らのネタを見る度に笑い転げている。
ただ、テレビであったり、大物芸人であったり、そうした立場の強いものが、マイノリティ等立場の弱い人を揶揄することで、自分の立ち位置の揺るがなさを確認するような、そんな「人を踏み台にする」ような笑いは、「笑い=差別」とはいえ、やり口が不快ではないだろうか? なぜなら、立場の強いものは傷つかないで、他者を傷つけているだけだから。
「人を踏み台にするな」と言われて、「最近の世の中は窮屈だ」何だと言うのはおかしい。笑いとなる差別には作法があり、弱い者いじめは笑いではなく、嘲笑、侮蔑であって、笑っているのは面白いと思っている強い人とそれに追従する人だけです。
日本のテレビには弱い者いじめか自虐のどちらかばかりで、弱い者いじめは今後批判される続けるだろう。ぜひ強いものへ、権力を持つものへのカウンターパンチとしての笑いを指向してもらいたいし、それこそがこのライバル多き娯楽産業における公共の電波を使ってやるべきことのようにも思う。や、そんなに期待してないです。
あるいは、にゃんこスターやあきら100%、ロバートの秋山のような、ただの悪ふざけを。それらをテレビは「ハプニング」としてしか取り扱えないのだろうけれど。