牛乳石鹸のWEBムービーについて。
不思議な、奇妙な、とらえどころのない感覚になるムービーだ。この人の考えていること、この人のしていること、この人の感情がうまく理解できない。
これまでにもいくつかあったCM炎上、たとえば志布志市のうなぎPR動画やインテグレートのCM、ルミネの"女性応援"CMとか、それらは動画を見てみれば差別的な問題点をクリアーに感じられたが、今回のはそうではない。
何が問題か、分からない。ぼんやりとした不安に包まれるだけ。
考えてみた。
子どもの誕生日にケーキとプレゼントを買ってきてほしいと頼まれて憮然とすることが問題?
この憮然とした反応を、CMのトーンとしては肯定しているように感じられることがまずはよくないと思う。「おっけー!」と明るく反応したり、むしろ「今日誕生日だから、ケーキとプレゼントと買って帰るね!」と先制していれば、「家族思い」感はアップし、CMのトーンそのものも変化しただろう。「なんで俺が」と拒否しないくらいには家族思いな父親、なのかもしれないけど。しかし、どうもこれは違和感の一部でしかない。
ケーキとプレゼントを持ったまま飲みに行ったことが問題?
描写的には自分から後輩を誘ったらしいから、子供の誕生日を認識しておきながらどうして飲みに誘うのかな、とは思う。頭おかしいのかな、くらいには思った。これが「後輩(または上司)に誘われた」とか「尻拭いの残業に付き合わないといけなくなった」とかなら、「仕事優先の親父」を意識してサラリーマンを演じてるんだなあと理解できる。「飲みに行って慰めるのも仕事」みたいな価値観も、あるのだろうけど。しかし、これも演出の問題であって、致命的に変とかそういうもんでもない。気になるのはケーキがダメにならないかどうかの方で、たぶん本来は飲みに行かないつもりだったんだから買う際に「持ち帰りの時間は?」と聞かれて「30分くらいです」とか言ってるだろうと思うのです。そうじゃなく、「3時間です」とか言ってたなら、飲みに行くことを確信しながらケーキを買ってるわけで、後輩は飲みに行くための口実、ダシでしかなく、むしろ怖い。ていうか、ケーキって保冷剤たくさん入れたとしても3時間も保つの? あと、グローブだのケーキだの大きな荷物持って飲みに行きたいとは、ぼくは思わない。
帰宅後、憮然とした表情のまま逃げるように風呂に入ったことが問題?
これはかなり良くなかった。不貞腐れたらそんな態度取っちゃうよなあと思いつつ、我が身を反省しながら、ああいう態度は良くないって思った。
その後、風呂から上がって、当然許されるだろうと言わんばかりに「さっきはごめんね」で済ませていることは、もしかすると違和感の所在地かもしれない。
この話は夫側が終わらせるんじゃなくて、妻と子供側が終わらせることだろう、と。「謝ったし終わり!」みたいな態度って喧嘩の中で一番ヒートアップする流れだと思う。なぜ飲みに行ったのか、最近不貞腐れてるのはなぜなのか、そういうあたりを話さずに「俺は俺の機嫌直したから、みんなもええやろ?」というニュアンスの「さっきはごめんね」にはイラっとした。しかし、イラっとしたくらいで、激怒ってほどでもない。
「家族思いの優しいパパ」を「でも、それって正しいのか?」と否定していること、加えてそもそもこの人が家族思いの優しいパパっぽくないところがやっぱり違和感の元なのだろうか。
まあ、これも演出の問題だろうなあ。家族思いの表現がゴミ出しだったり、待ち受け画面の家族写真だったり、ってのがありきたりな上にそれほど効果がないのは問題とまではいかない。むしろ、家族思いの優しいパパを否定した先が、誕生日ボイコットってのがダサい。優しさを維持できない自分に悩む気持ちそのものはわかるけど、洗い流してしまうのではなく、逃げるなら逃げるで、家族と向き合って、自分をさらけ出した方がカッコよい。
と、いうわけで、演出上の違和感や価値観の相違はあっても、少なくとも差別的な問題はないように思う。
この家庭において、母親が仕事もやり、家事・育児も中心的に担っているであろうことや、父親が本人の認識以上に家庭参加できていないことは、日本の家庭のスタンダードとして問題とされるべきだろうとは思う。
つまるところ、脚本、演出に不調和があるのだから、であるならば、どのような演出が良かったのだろうか。
考えてみる。
朝、子供の着替え、自分の支度、パンをコーヒーで流し込む。妻もお弁当を作ったり忙しない。自転車に乗って保育園まで子どもを送るが、駄々をこねたり、なんやかんやで仕事は遅刻ギリギリ。職場のみんなが残ってる中、恐縮しながら定時で上がり、ケーキとプレゼントを買って帰る。昼間怒られてた後輩とすれ違うから、二言三言励ましの言葉をかけてあげる。3人で誕生日のお祝い。歌を歌ってろうそくを消す息子。お祝いの最中、ふと視界の片隅に、自分の趣味の道具(テニスラケットとかサッカーのユニフォームとかそういうの)が目に入る。趣味に興じる時間がめっきり無くなったな…、息子がとんがった帽子をかぶってケーキを頬張り、口の周りはクリームだらけ。妻も自分も息子ばかり見ている。自分が人生の主人公でなく脇役になったと感じる。家ではいつも不機嫌だった自分の親父もそんなことを感じていたのかもしれないな、なんて思ったり。子供とお風呂に入り、昔から使っている牛乳石鹸で体を洗い、一息つく。子供がじっとこちらを見ている。「これ、お父さんが子供の頃から同じもの使ってたんやで」とか言ってみるけど、子供は泡で遊ぶのに夢中だ。風呂上がり、妻は疲れてしまったのか、ソファで眠っている。自分も疲れているが、台所に溜まった皿を洗わなきゃならん。蛇口をひねり、水が出る。洗剤まみれの手、風呂を出たのに疲れがこびりついて取れない体、もう若くない自分を持て余していることに気づかないフリはもうできない。蛍光灯に照らされた自分の顔は思ってるよりも老けているだろう。妻が起きて、「あ、ありがとう。ごめんね。お風呂入るわ」とバタバタお風呂に入りに行く。シャワーの音、妻に聞こえないように「まだまだやれる」なんてことを呟いてしまうと、なぜか涙があふれてきてしまうのだった。BGMはエレファントカシマシの『やさしさ』。
何をしても どこに行っても 体が重たくて
ああ 今日もいつもと同じ
などというストーリーを考えてみたら、ムーニーのワンオペ育児のCMのことをちょっと思い出した。
動画が結末を迎えても、女性は夫などの家族や家事・育児サービスの助けなどを利用することなく、「気の持ちよう」でこの辛い状況を乗り越えようとしている。そして駄目押しのように「その時間がいつか宝物になる」というメッセージも女性に投げかけられる。
日本の女性は一体いつまで、ムーニーのCMみたいに、「moms don't cry」だとか、ママは泣いちゃダメだとか思いながら、歯を食いしばって、孤独に耐え続けなくてはならないのだろうか? 泣いて笑って生きていく? 長いトンネルの中にいるのに、どうして笑えるの? 強くならなくてはならないのは――変わるべきなのは、社会でなく、ママなのですか?
改めてムーニーのCMを見返せば、さっきぼくが考えたストーリーの父親は、父親にばかり負担がかかってるなんてこともないし、なんなら理想的なくらいか。
こうやって考えてみたら、CMだからこそ、子供の誕生日に間に合わないなんて描写は避けたいとぼくは思ってしまいました。現実には、子供の誕生日でも残業やら飲み会やら、断れずに唇を噛み締めている人がいるのだから、まさか自ら祝うチャンスを放棄するなど、現実でもCMでも(よほど喧嘩したとかでないのなら)納得できることではない。
「その表現の媒体によって問われる意味が変わってくる」というのがあって、例えばこれが中堅作家の短編集の中の一作だったら「だからなんだよ」とは言われないと思うんですよ。「世の中は複雑だよね」という。でもCMっていう媒体はすごく世に問いかけるメディアで、意味を問われてしまう媒体なのね。
— cdb (@C4Dbeginner) 2017年8月16日
亡くなった天野祐吉さんが(80年~90年代に)この牛乳石鹸のCMを見たら、「面白い、こういう曖昧なCMが作れるのが文化の豊かさなんだ」と評したかもしれない。ただ、今上がってる批判心理の中には「日本のCMはいつまで閉じた私小説サロンでいる気なんだ」という特権性への苛立ちがあると思う
— cdb (@C4Dbeginner) 2017年8月16日
この批評が的確。見返せば、ぼくの案もCMではなく私小説的だ。石鹸の必要は特にない。
…。うーん…。風呂に、入ろう…。