朝倉彫塑館とジャコメッティ展に行った感想。たまたま、先週は彫刻ウィークだったのである。
まずは朝倉彫塑館から。
都会のど真ん中のめっちゃええ家に、たくさんの彫刻が置いてあるという、贅沢な場所、と言えば彫刻に興味のない人でも少し興味をそそられませんか。
朝倉文夫は1883-1964、東洋のロダンと称される自然主義の作風の彫刻家。存在をそのままに形取ることで、なぜか目に見えないその存在の重さや大きさを見るものに感じさせる。彫刻における自然主義とはこういうことなのか…。つまり、存在を実感することこそが目的であって、写実は手法でしかないのだろう。
屋上には庭園があり、弟子(生徒?)たちに土をいじり、植物を観察することが役立つと教えていたそうだが、存在を感じ取る訓練の一つだった。
思えば私たちはなんといい加減に世界を見ていることか。あの人の腕の長さはどれくらい? 目の大きさはどのくらい? 大切な人の細部も思い出せないのだ。
なお、双葉山の胸像もあった。朝倉文夫は相撲好きだったようで、エッセイのような文章にも双葉山のことを書いていた。横綱の存在感、重み、眼差し。会ったことのない双葉山に会ったように思えた。
ジャコメッティは1901-1966、スイス出身、フランスで活躍した彫刻家で、初期にはシュルレアリスムとの関係も強かったが、よく知られ、また代表的である細く伸ばされた人間の像などは実存主義的と呼ばれる。
たとえばこんなの。
細く伸びる前の作品にはこのようなお茶目なものもある。キュビスムやシュルレアリスムの影響下での作品。なんともかわいらしい。
第二次世界大戦中はスランプで、作品がどんどん小さくなり、最後はマッチ箱に入る大きさになってしまったと言う。
仕方がないので1メートルは死守、というルールを作ると、作品は自然、細く長く伸びていったそうな。
展覧会には多くのデッサンがあったが、見る度にその人の微かな動きを捉えてしまって、たいていの顔は真っ黒に塗りつぶされてしまっていた(動くのは対象者だけでなく、自分の目線、脳かもしれない)。目の前にいる人を写し出そうと真摯に向き合った結果、そんなどこか絶望的な状態になってしまったのだろう。
しかし、そうした「動き」はたとえばすれ違いを表した作品などに結実する。とてもかわいい3人の男。
ニューヨークのメトロポリタン美術館で見た時もテンションが上がったが、たとえば「儚さ」とか「ありふれた光景」とか「社会」とか、そんな言葉が頭の中を駆け巡る。多くの意味を含んだ間合いだ。
人間ばかりでなく、猫と犬の作品もあった。この犬の悲しさ、複雑さ。対照的にどこか呑気な猫、単純さ。
そう言えば朝倉文夫は猫好きだったそうだが、彼の作った猫はこう。
比較する意味はない。
しかし、無理やりに二人の共通点を探せば、それは容易なことで、つまり存在を実感し、存在を生み出そうと、彫刻に向かったことにある。その手法が自然主義か、シュルレアリスムか、細く長く伸びるかというだけで、目的はほぼ同じなのではないか。
それだけ、存在することは重い事実だ。揺るがせにできないことだ。
ジャコメッティ、今、思い出したのだが、ぼくが初めてジャコメッティを見たのは兵庫県立美術館でのことだった。検索してみると、2006年の展覧会だったみたいだ。美術館に行き始めたばかりの頃だった。だから、今でもジャコメッティと聞くと、どこかぼくのルーツのように思ってしまうのだろう。恥ずかしい。
存在とは、存在するという事実とは、見たものを見たままに象るとは、そして、私たちはどこまで「見る」ことができているのか、存在を感じ取れているだろうか?