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いつも考えていること

「雨ふるも 時は戻らぬ とうとけり」ー滝沢カレン文学論

滝沢カレンの言語感覚が素晴らしすぎて、怖い。いや、悔しい気さえする。これが才能か。まさか、彼女のことを「語彙力がない」などと言うなかれ。彼女の言語が生み出す豊饒なイマジネーションは、立川談志の言う「イリュージョン」ではないか、とくらくらする。

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言葉は他人のもので、自分の口から発した言葉は、過去の人生でいつか出会った何かの言葉から連想したものだ。決して「オリジナル」な言葉はない。

「ペポロトキタカナイサ」とぼくが書いたところで、この言葉は「無意味」の象徴でしかなく、オリジナルの言葉のように見えて、オリジナルではない。

「私が蟹に乗って、サハラ砂漠がいつしか屋上に母と鳩との海辺なのだ」などという文法無視もこれまた無意味の象徴だから、何のオリジナリティもなく、つまらん。

無意味は他人に何も伝えないから、あまり面白くない。それが面白いこともあるけど、大抵は面白くない。

滝沢カレンの言葉は他人に伝えたい「意味」を有しながらも、私たちが思い込んでいる言葉の「普通」を変化させて、新しくしてくれる。

たとえば、彼女のインスタグラムから例を引こう。

おいおい✋🏻どんな番組なんだ🤔と言うのでしたら、
世界を東京から見たらどうなんだという話になってきて、東京から見て色んな国を丸裸にしよう🤔というようなコミカルな内容だと言ってしまっていいのではないでしょうか🤗💓 単なる映像を見る!なんて言葉じゃただじゃおかないぞというように、体験型と言ってしまっていいのではないでしょうか❓😉 見るもの全てを戸惑わしてしまうこの感覚を味わったらどうなんですか❓🤗 わたしも実は素晴らしい体験をしたのでね...(2016/11/7)

この最後の「わたしも実は素晴らしい体験をしたのでね…」のぞくっとする感じ。ミステリー小説のような「引き」がある。

2016/12/31は最高に格好いい文章である。

みなさん....😌 誰もが認める、2016年12月31日という日になりました💫🌎 それでも世界は不思議なもんで、
どんなに世界的に偉い人が「いっせーのせで2017年にしようよ🤔」と言うもんであれば上手くはいかず、、 各々、国特有のズレをどこかしこも持ちながら、そんなズレをあたかも感じさせない、2017年の幕開けなのです⚡️🕊🌎✨ わたしは楽観的にこんなことを考えて不思議な気持ちになるという感情の繰り返しでいま、
ここにいます😅💕 この独特のズレを誰しもが口を挟まず、
わたしたちは日本が生み出した時間を良い意味で鵜呑みにしては、明日への期待を秘めているんですか❓😌💫 「おいおい、発明家じゃあるまいし何が言いたいんだ🤔」というのであれば、、 2016年みなさまと同じ感覚で公平に頂いた、
時間をここぞとばかりに有効活用することができました🙏🏻☺️🌟 なんの言い残しもなく、
なんの名残惜しさもなく、
なんの感情もなく、、 ただただ見つめる先には、
だだっ広く広がる光の波が見えます😌💫 ここまで言うのだったら、
24年間生きていて一番、夢に積極的に向き合えた年であり、それは何を隠そう、毎年毎年更新していきたいです🕊🕊🕊💗 みなさまにとっても、
すさまじい年であったと願いつつ、
2017年のあの重く分厚い扉をいま、
こじあけません❓🚪 みなさま、
もし世界的に偉すぎる人が「はい、実は今日は2023年6月21日でしたー」なんてバラまかされたらどう思うのですか❓🤔🌟 一体、誰が信じるであろうか。。 わたしはそんな事をただひたすら考えて、
2016年はひっそりわたしの心の金庫に閉じ込め予定です😋✨ ようは、小さいことは気にするな🌞
という話ですね☺️💗 それではみなさん、
良いお年をお迎えください💞🎋 #2016年おつかれさまでした
#数字はなぜ増えていくのか
#謎は生きてる分だけ増えるばかり
#答えなんて知ってしまったらつまらないじゃないか

まるで星新一ショートショートを読んでいるような、ドキドキ感がある。

この独特のズレを誰しもが口を挟まず、わたしたちは日本が生み出した時間を良い意味で鵜呑みにしては、明日への期待を秘めているんですか」とか「2016年みなさまと同じ感覚で公平に頂いた、時間をここぞとばかりに有効活用することができました」とか、滝沢カレンは時間に対する感覚がとにかく鋭敏で、尋常ならざるものを感じる。その他の投稿でも、自分の番組を観てもらうか、睡眠をとるか、などといった「他人の時間」に対する独特の配慮を見せるのが興味深い。時間の重要性を大切にしているので、そこにこだわりや優しさがあるのだろう。

ところで、時差のことを「各々、国特有のズレ」 と表現できる人がいるなら、出てきてほしい。こんな詩的な素敵な表現は並大抵の凡人にはできないことだ。本当に素晴らしいセンスだ。悔しい。

あるいは「数字はなぜ増えていくのか」答えられる人がいたら、やはり出てきてほしい。いや、「こたえなんて知ってしまったらつまらない」か…。

「緊急!ニッポンを襲う 世界の超S級危険生物」になんと、現場隊員として出場します❣️❣️❣️❣️ 世界なんだか日本なんだかどっちなんだとなってるかと思いますが、世界でも活動している危険生物が日本にまで進出していま人を惑わせてると言ったら分かったでしょうか😥😥🚨 とにかく、生物好きだからと言って、いさぎよく近寄るもんなら、向こうは向こうの考えがあるので、感情を剥き出しに危険なことをしでかす😳🚨という生物が世界にはたくさんいます❣️ 地球上全てが仲良く、楽しくなんてそうは簡単にさせてくれない、生物もいるようです😅💖一目散にはいかないですね🤔💫 そんな一方、向こうも危険生物と呼ばれるがままですが、危険な行動をするにはそれなりの莫大な理由がある訳で、わたしたちになにかを知らせるための余儀なく行動がこうなってるかもしれません🚨🌟🤔 向こうの世界でも、私たち人間を「危険生物」としてまさか認定されてるんじゃないでしょうか...💫💫 こんだけどデカイ地球です、
謎は深まるばかりです、、、🔦💭🔁🔍 それでも譲らず私は人間ですので
人間の掟に従います🙋🏼💛🔍👍🏻 #地球上全てには理由がある
#目的が同じだからってうまくいく訳ではないのがこの世界
#だからといってどこかで必ず繋がってるはず(2017/2/5)

「一目散にはいかないですね」などの表現もぐっとくる。しかしなによりも、途中、動物に共感していながら、最終的に「それでも譲らず私は人間ですので  人間の掟に従います」と結ぶあたりが素晴らしい。どことなく寺山修司

肖像画

まちがって髭を描いてしまったので

仕方なく髭を生やすことにした

という詩句を思い起こさせる。

あるいは、太宰治

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

なんて言葉も想起させはしないか。

「おいおい、今日はこんな晴れてる日曜日なんだからたまの休日くらい外で元気に遊ばしてくれよ🤔」と言われてしまえば今日は引きにくいのですが、
なんせ太陽が一番に照る時間というのもありますが渋々観ていただけたら幸せです💕💕💕💕💕💕👏🏻 それさえ終われば、お好きに過ごしてもらってください🌟
素敵な日曜日をお過ごしください❤️ @tiit_tokyo
#太陽をみてこうつぶやく
#太陽以上のスケジュールってないんだろうか
#人はしりたがる全てのことを知らなきゃいいと気付きながらも(2017/2/26)

「太陽以上のスケジュール」という時間感覚もまた、12/31の感覚に通底するものがある。なんなんだろうなあ。言葉には、こんな豊かな表現があるのか…。

 

おおよそすべての投稿を読み通したのだか、全編を通じて、川上未映子の『わたくし率イン歯ー、または世界』などを思い出した。

そう(引用者註:わたしは奥歯である、ということ)思うようになってからこっち、日常を賭しながら完全に予感しながら、鏡の中の奥歯を見つめるようになって砂漠的かつ無署名的な幾年もが過ぎ去り、その過ぎ去りが今まさに過ぎさろうとする渦中にあっては渦中のことはよくわからないのであって、茫洋が茫洋をつれるある日に、わたしは、そのように奥歯たる自分がどこで働きどこで一日の大半を過ごすことが一番しっくりくるものなのかしらんをぽーと考えるようになっていて、それまでは百貨店一階のカウンターに待機をして、くる女性くる女性に化粧品を売る、ほどこす、という仕事に明けも暮れも従事していたわけですが(中略) それにしてもこのちっこい四角いっこ七千円もしてしまうのですかというような無数の色味、ものすごい数の筆や瓶、ひしめく肌色、ふさふさ、そんなもんばっかりを扱って、そして文字どおりそれらは売れながら飛んでゆき、それら飛んでゆく品々のお名前、用途と特性を暗記して実践、すぐさまそれを披露せねばならんしの局面ばかりであったから、なんかぽやんと。 

言葉の「私性」。誰かに伝える=「公共性」「社会性」という言葉の一般的な役割を逸脱して「私性」を獲得しようとすることの面白さ。これは文学の役割の一つだろう。

他にもたとえば、鈴木志郎康

夢に舌刺されて

法外な目覚め

しかし今日は楽しく出勤して

一日一善で二日で二善と気がふれる

正直いうと

横川駅前では広場を渡るとき信号の短さがいつも気にかかります

青に渡り始めて赤になるバスが行ってしまう

これは余りにも法外ではないか

(中略)

全くの闇の中で

タイムカードに9:43が打刻されました

この処女の男根化についてどう思いますか

夢にあるのですか 夢は武器ですか

何を撃つのですか

殺せますか

言葉で

私を

(法外に無茶に興奮している処女プアプア)

あるいは吉増剛造。彼の詩に至っては正確な引用ができないが。

そうした「私的」(「詩的」)な言葉は、他人に伝えることを第一目的としていないから、誤解や違和感は当然のことだし、そこにこそ「言語の可能性」「思考の可能性」「想像力の可能性」「人間の可能性」が生まれる。

滝沢カレンは、本人の望むと望まぬとにかかわらず、それに挑戦させられているのであるから、恐ろしく厳しい世界に孤高、立ち尽くしているのである。

少なくとも笑いに還元し得るものではない。彼女を笑いの対象として消費して、終わらせてしまってはならないと思う。

 

誰か彼女にエッセイか小説を書かせてみてはどうだろうか。特にエッセイは、期待できる。現代文学に多大なる影響を与え、進歩を促すのではないかと期待する。

 

ちなみに、(悔しさとかその他いろいろな感情が入り混じって)死にそうにやばいと思ったのは、2016/10/5に書かれた詩だ。

雨ふるも 時は戻らぬ とうとけり 肌をとびかう 山肌に 虫もを避けるか さらば夏空 ついには来たか 秋景色

「雨ふるも 時は戻らぬ とうとけり」のパンチラインはぐっとくる。ここにも不思議な時間の感覚が表明されている。「雨が降る」という現象を通じて、また「尊い」とする主体を通じて、「時は戻らぬ」ことを思う。つまり、時間が独立してあるのではなく、意識や世界と共にあるのだ。

さらに「虫」を媒介に自らの肌と山の肌を重ね合わせる。そして、夏の空が去り、秋の景色が来る。肌と季節という複数のイメージが鮮やかに同時に立ち現れる詩的強度に目を見張る。 

怖い。