Nu blog

いつも考えていること

考えの異なる私達をつなぐもの―until you consider things from his point of view

成人式について、昨年も気になったことなのだけれど、結局もやもやしたまま書けなかったことを今年は書いてみたいと思う。

 

まずはこのツイートから。

 

平成生まれのぼくにとって、物心ついた時から成人式は荒れるものだったと記憶する。

荒れる成人式」の代表として挙げられる沖縄。その沖縄を中心とした「成人式史」の記事が公開された。

この記事によれば、新聞が「ド派手成人式」を取り上げたのが2000年、全国的に「荒れる成人式」として問題となったのが2001年とのこと。物心ついた時、という自分の感覚と相違ない。

bylines.news.yahoo.co.jp

 

最初に紹介したツイートのように、「荒れる成人」にとって「成人式」はその人が主役になれる「一生に一度の晴れ舞台」なのだろう、などといわば揶揄されるようになったのは、ぼくにとっては昨年からだった。

 

見かけた中で最もひどいものでは、「彼らは中卒あるいは高卒で就職し、すでに2〜5年、低賃金の肉体労働に就労しており、成人式は卒業式以来の、久々に仲間とともに盛り上がることのできる機会。明日からはまた辛い肉体労働が続くだろうことに想像を巡らせば、彼らが多少荒れるのも理解できる」というようなものがあって、昨年はそのクソみたいなスノッブな偏見に心が痛んで、何も書けなかった。

 

先に挙げた與那覇さんの記事の中でも「沖縄のヤンキー文化に詳しい研究者の打越正行さん」が似たようなことを言っていて、ダメージを受ける。

学校にほとんど行かず、中卒後に建築現場などで働く若者らは、10代のころは下積み期間で能力的な成長も実感できず、給料もほぼ最低賃金のまま。つまり学校と対照的に通過儀礼などを通じて時を刻む(成長を実感できる)機会がほとんどありません。祝日も長期休暇もなく、そして旧盆などの年中行事もハレの時間として経験しておらず、あるのは1週間を淡々と積み重ねる日常です。これが15から少なくとも30歳を超えるまで続くわけです。そんな彼らが、中学卒業して5年後に後輩たちの応援もあり、国際通りなどに集って時を刻む場が成人式になっている

この方のこの見方、根拠が見当たらなくて、決めつけ・偏見ではないだろうか、と思ってしまうのだけれど…。

 

そもそも「輝く」とか「主役」とか「晴れ舞台」とかなんなんだろうか。

そういうことをぽろっと漏らしてしまえる人は、人生をどういうものだと思っているか聞いてみたい。いや、怖いから聞けない。

お祭りごとで盛り上がっているだけ(暴力や破壊行為は論外だけれど)の行為に過剰に意味を持たせて、実際には彼らも自分たちと差のない暮らしを営んでいる、という事実を隠蔽したいのではないか、とぼくは言いたい。

 

「コーチー・カーター」という映画がある。実話を基にした映画だ。

アメリカの、とある街の高校のバスケ部の話。

その高校は、落ちこぼれの集まる高校で、大学に進学できるのはごくわずか、なんなら卒業後の進路は刑務所だったりするようなところ。

バスケ部も過去には活躍したこともあったが、今は弱小。

そこにカーターさんが新しいコーチとして赴任。彼は部員に対し、バスケをする前に、そもそも勉強でちゃんとした成績を残すよう指示し、契約書への署名まで求め、何人かの部員は反発し去ってしまう。

しかし、カーターの厳しい指導の下、バスケ部は地区大会を勝ち進む快進撃を見せる。

契約書に反発した部員も戻ってくるなど、カーターの指導が早くも実っているかに見えたが、実際には勉強のままならない部員が多くいたことが判明。

カーターは成績の悪い部員や授業を欠席している部員が多いことから、試合は棄権、練習もストップさせる。カーターにとって、試合の勝利よりも、勉強の方が重要なのだ。

そんなカーターに対して、保護者や教育委員会が怒り、勉強などどうでもいいから練習をさせろ、試合をやれと求める。

アメリカのスポーツ至上主義が垣間見える一幕だ。

校長までも「このバスケ部での活躍が、彼らの人生の最大のハイライトシーンになる(のだから、勉強は二の次でよいではないか)」と言い放つ。

そう、誰もが、子どもたちの未来は今より良くなることはなく、落ちるだけだと悟っているのである…。

このセリフ、映画を観たのはもう10年ほど前のことだと思うが、いまだに忘れられない。

ネタバレすると、その後、部員は勉強に励み、カーターとの約束を果たす。地区予選を勝ち抜き、州大会に出場するもののの、すぐに敗退。しかし、コーチが望んだとおり、多くの学生が大学に進学するのである。素晴らしい。教育の力を知ることのできる名作である。

movies.yahoo.co.jp

 

「コーチ・カーター」からぼくが言いたいことは、果たして校長先生のように、勝手に他人の人生の「ハイライトシーン」を設定するのはいかがなものか、ということだ。

 

話は変わるが(もちろん関係しているが)、4年ほど前に、似たような案件で気になったのだけれど、言いたいことが喉で引っかかって、うまく言えなかったことがあった。

「低学歴の世界」という言葉が話題になった時のことだ。

下記3つの記事を読めば、当時何が話題となったかおおむね分かるだろう。それぞれすごい数のブックマークがついており、反響の大きさがうかがえる。

luvlife.hatenablog.com

anond.hatelabo.jp

d.hatena.ne.jp

 

要約すれば、日本には「低学歴の世界」と「高学歴の世界」があって、そこには厳然たる溝があり、生活習慣や常識がまったく異なり、もはや交わることができないのではないか、というものである。

一番目の記事では、そうした溝に対して

「低学歴の大人」や「子供を低学歴にする大人」が作ってる世界に育った子供たちが低学歴になる。/常識をおしえてもらえなかった子供たちが、その子供たちだけの常識作る。/それで、この「低学歴の世界」を、そうじゃない違う世界と切り離さないで、って思った。/(特定のブログの人にじゃなくて、不特定多数に向けて、です)/どこかでパイプ繋げて。/それじゃないと、いつまでも、ちゃんとした世界に入れなくて、この世界に取り残される人がたくさんいる気がした。

と、何とか埋められないのか、という思いがつづられていた。

しかし、二番目の記事、三番目の記事あるいは各記事への反応では、「低学歴の世界」に対する恐れや苛立ち、気持ち悪さが先立って、むしろ切断したがっているような、「手の付けられなさ」が語られるようになっていく。

この溝は超えたことがあるものにしか実感できないんだろうなと思うし、実感しても人生にいいことはあまりない。

 

今の日本社会で仕事をするうえで、この「低学歴の世界」とのお付き合いは、「高学歴の世界」の人にとっても、避けて通れない場合が多いです。特に、その仕事をする組織が、有力で大きい組織であればあるほど。だから、「低学歴の世界」を早い時期に垣間見ておくのは、それはそれで意義あることだと思いますし、銀行とか証券会社とかメーカーとかが、採用した大卒社員を、どんなにエリート候補でもいったんは現場に出すのは、要は、その「低学歴の世界」を若いうちに見て来いってことだと、私は理解しています。

 

「低学歴の世界」について、それを語りたがる人達は自分が彼らより優越的な位置にいることをにおわせることが多い。

その語り方は、「荒れる成人」を低学歴、低賃金の肉体労働者だと断ずることとどこか似通ってはないだろうか。

あるいは、アメリカ大統領選でトランプの主な支持者が「低学歴、低所得の白人男性」と捉えられていたこととも似ていないだろうか*1

つまり、自分と生活習慣や考え方の異なる(であろう)世界に対して、極端に排他的になっていないだろうか?

 

誰もがどうしようもない日々を過ごしている。少し余計に荷物を持ち過ぎながら、それでいてどこか手持ち無沙汰になりながら、あなたも私もどうしようもない日々を過ごしている。

歌人穂村弘の言葉を借りれば、

無色透明な孤独、贅沢な退屈、強すぎる自意識、そんなものたちに取り囲まれて、私たちは身動きがとれなくなっている。友達といくら長電話をしてもさみしい。メールを書いても書いてもさみしい。新しい腕時計を買ってもブーツを買ってもさみしい。そして、いつまでもいつまでも(時には結婚しても子供ができても)理想の恋人を夢見ている。

日常の真空地帯にすっぽりとはまりこんで、毎日をやり過ごすのに手いっぱいで、本当に夢中になれる何かを見つけられずにいる。これだというものがみつかったら、なりふり構わずそいつをやってやってやりまくるんだが、などと思いながら。(穂村弘短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたいあなたのために」)

というような日常を、誰もが送っている。

テレビの向こう側で笑顔を振りまくアイドルも、しかめっ面の政治家も、有能な経営者も、戦力外通告を受けた野球選手も、あの牛丼屋の店員も、朝は満員電車に、昼はきらめくビルに、夜は居酒屋に詰め込まれたあの労働者たちも。

なのに、自分の抱える「無色透明な孤独、贅沢な退屈、強すぎる自意識」が、自分の過ごす「普通の日常」と他の人にも当然ある日常を、全く別物のように捉えさせようとする。

ぼくらはしょせんそんなに変わらないのに、そのことをなかったことにしようとしている。

 

そればかりでなく、自分のことを「高学歴の世界」と思っている人あるいは「高学歴の世界」とされる場所にいる人々も、一人一人を見ていけば、地元を大切にしていたり、あるいは会社内で絆や仲間を重んじていたりするもので、つまり、誰しも一皮むけば、フェティッシュの対象が違うだけで、メンタリティに大した差などないのである。

 

あえて、世界を分断する必要はあるのだろうか?

あちらへ感じる違和感を、あるいはこちらにあると信じる正当性を、全面的に否定するのではなく、新たなものへ更新しようと努めることが多様性、寛容さの要であり、また生きていることの醍醐味ではないのか?

どうしてぼくらは油断すると排他的になってしまうのか?

 

とはいえ、確かに自分と生活習慣や考え方が異なる人に思いをはせることは難しい。

同じアパートの、下の階に住む家の玄関が開いていて、そこから汚い部屋が目に入ったら、もやもやしてしまう。帰り道、ふと見上げたら、下の階のベランダの汚さが目に入って、やるせなくなってしまう。そんな気持ちになってしまうことを否定できない。

それでもぼくらは、何かの縁あって同じアパートに暮らす人間なのである。顔を合わせて話したこともないのに、理解も否定も始まらない。

 

成人式のことを考えていたら、いろいろと回り道をして遠くまできてしまった。

最後に、下の言葉を覚えておきたい。本稿の本筋とは違う文脈だが、しかし、この文章にはぼくが書きたかったことが表されているように思う。

アメリカでは教材として使われる「アラバマ物語(原題:To Kill a Mockingbird)」という作品からの引用だそうだ(これから読む)。

 

But laws alone won’t be enough. Hearts must change. If our democracy is to work in this increasingly diverse nation, each one of us must try to heed the advice of one of the great characters in American fiction, Atticus Finch, who said “You never really understand a person until you consider things from his point of view…until you climb into his skin and walk around in it.”(【英語で読む&見る】涙のオバマ大統領「最後のスピーチ」<全文+動画> | ホウドウキョク)

 

しかし法律だけでは十分ではありません。心が変わらないといけないのです。それは一夜にして変わるものではありません。社会的な態度は世代という長い時間をかけて変わっていきます。
しかし、もし我々の民主主義が多様性のある世界に求められるかたちで機能するならば、我々一人ひとりがアメリカのフィクションのキャラクターの言葉を留めておくべきです。その言葉は「あなたが彼の肌の色で歩き回って彼から見る景色を考慮しない限り、その人を理解することはむずかしい」。(【全文】オバマ大統領、任期最後の演説「あなたたちが私をよい大統領にしてくれた」 - ログミー)

youtu.be

 

*1:実際には所得や性別に関わらず、白人のトランプへの投票率が高く、そのほかの人種においてはクリントンへの投票率が高かったとされる。簡単に想像してみても、人種のサラダボウルたるアメリカで「低学歴、低所得の白人男性」だけの支持で選挙に勝てるわけがない。なお、望月優大さんはこのトランプの支持者像をめぐる言説と「マイルドヤンキー」の言説に似たものがあると指摘している。マイルドヤンキーと「低学歴の世界」の議論はほぼ同様のものと捉えてよいだろう。参考⇒ドナルド・トランプの勝利と「新しい世界」について - HIROKIM BLOG / 望月優大の日記