ぼくは兵庫県出身だ。就職を機に東京で暮らし始め、この4月でもう6年目になる。
いつまで経っても関西弁を直さないので、初対面の人には「どこのご出身ですか」とか「関西の方ですか」とか「まだ東京に来て日が浅いんですか」とか言われることがしばしばある。
むしろ桂枝雀等の落語を聞くようになったものだから、かつてよりわざとらしい関西弁を使っている時があったりして、それに気づくととても恥ずかしいし、反対に、時折関西弁らしからぬイントネーションになっていることもあって、それに気づくとむず痒い気持ちになる。
東京について、考えている。
きっかけは東京都写真美術館で開催されている展覧会「総合開館20周年記念TOPコレクション 東京・TOKYO」展及び同時開催の「東京・TOKYO 日本の新進作家vol.13」展を鑑賞したこと。
2つの「東京・TOKYO」展は「多相的な都市」=東京がどのように写されてきたかをまとめた展覧会だった。
そこには1960年代の東京から今の東京までが表されており、観る人の持つ「東京」あるいは「日本」のイメージ(東京≠日本であることを注釈しておく)を揺さぶるものだった。
自分の抱いていた「東京」「日本」のイメージとのズレを感じ、一枚一枚、食い入るように見た。
念のため、開催概要を引用すると以下の通り。
東京は、誰もがその言葉からさまざまなイメージを思い浮かべることのできる都市です。しかし、そのイメージは人それぞれに異なり、一つのイメージへ集約しきれない不思議さを持っています。また、東京はこれまでたくさんの写真家のインスピレーションの源にもなってきました。写真家たちは、この多層的な都市とそれぞれどのようなアプローチで対峙し、どのような視点で切り取り表現してきたのでしょうか。
東京は世界有数の都市として認知されています。しかし東京というとメディアに表現されるような、足早に大勢の人々が交差点で行き交うような風景だけではありません。人々が生活し、変化し続ける都市でもあります。写真技術が輸入されてから、多くの写真師、写真家によって記録され続けていた都市ですが、現在の写真家たちの眼にどのような形で映っているのでしょうか。今回は6人の新進作家による表現された「東京」をテーマにした展覧会を開催いたします。
しかし、実際に東京について考え始めた発端は、昨年の秋頃、twitterで話題になった以下の記事だ。この記事を見た時から、頭の端っこでずーっと「東京って何だろう」と考えていた。
酒井さん*1の発言は大して気にならないのだけれど、多屋さんの発言はなんだかとげがあるように書かれている。
多屋:うーん、もちろん地方出身の友達もたくさんいますが、話してるとなんとなく(東京出身かそうでないか)わかるし、最終的に仲良くなる子は東京出身の子が多いかな。実家が都内にあるせいか、心に余裕がある。最初の基礎が一緒だと楽ですよね。
(ぼくも仲良くなる人はどこか基礎が一緒の人だから、別に大した発言ではないのだが、その基礎に出身地を重ねると、なんだか変な気がする)
多屋:東京の人は小さい頃からいいものをたくさん見てきているし、色んな種類の大人がモデルとして身近にいるから、選択肢は多いですよね。やりたいことがあったときに情報がすぐに得られるし、いいものに届く可能性が高い。いえばなんとなく手に入るから、そのぶん頑張らなかったりするけど。
(東京にしか「いいもの」はないのだろうか。しかし、確かに「選択肢」の多さは他の地を凌駕しているのかもしれない)
ーでも、頑張らないけどやっぱり東京の人の方がセンスが良いのかな?
多屋: 私は池袋にあったセゾン美術館とか、小さいころから展覧会で絵画を見たり、コンサート行ったり、いわゆる英才教育を受けていた。高校時代にラフォーレミュージアムとかで見たものの影響は今に生かされてますね。
(展覧会やコンサートに行くハードルの低さは、きっと東京の方が低いことには同意する部分があるが、それを「英才教育」と誇るところにとげがある)
多屋:一度東京離れて京都に4年程住んでいたんですけど、やっぱ東京がいいなって実感しました。京都は不便ではないけど、その日その日で生活している人が多くて、発展性がなく、物足りなく感じてしまう。クリエイティブなものも少ない。お寺が大好きとかならよかったんだけど(笑)。
(この発言ばかりは実際に土地名を挙げてdisってるから、擁護のしようがない)
インタビューなので、編集者の発言の切り取り方にとげがあった、とも言える。
つまり、このtokyowiseというサイトが「東京=特別」というコンセプトでやっているので、とげがある。
下に引用したが、とにかく「東京」を日本だけでなく世界においても特別だと位置づけたいようなサイトらしい(最後の一行の意味はカタカナが多くて意味が分からない)。
TOKYOWISE=東京的と名付けたWEBメディアをたちあげました。
これは、東京という世界でも類を見ない混沌と静謐の街で、本当に必要とされている事象とは何かを探って見つけ出す。
そのための基礎教養=Liberal Artsのためのメディアです。
新しいだけではない。プラグマティックな意味でのライフテクノロジーを見つける作業。
そう言えば、ドラマ化された「東京女子図鑑」においても、秋田出身の主人公により、東京は特別なものとして取り扱われている。
元ネタの東京カレンダーでの連載は、ツイッターで話題になれば読んでいたが、内容も語り口も自分に合わなくて、ちゃんと読みとおせたことがない…。
「人から羨ましがられるような人になりたい」と、東京への幻想を抱く秋田の女の子、綾。高校最後の夏休み、綾は東京・原宿の地に降り立ち、田舎で可愛いと言われていた自分が見向きもされない現実に直面し、井の中の蛙だったことを思い知る。再び東京に向かう日を夢見て地方大学での日々に耐え、就職活動に勤しみ5年後。新たな気持ちで綾の上京生活が幕を開ける。一人暮らしの最初は三軒茶屋。就職先は恵比寿のアパレル会社。そこで働く女性たちはアフター5を謳歌するための自分磨きに余念がなかったり、一見して地味だがやりがいのある仕事をこなしたりと様々。そんな職場の中で自分はどんな東京の女性になろう、と考える綾。
さて、本題。
はたして「東京」はそんなに特別なところなのか?
ぼくは「地方出身者」にあたるが*2、大してやる気なく生活を進めているだけで、tokyowise言うところの、東京出身者の皆様に刺激を与える存在ではないし、東京女子図鑑の主人公のように「田舎に住んでいて漠然と東京に憧れを抱」いたわけでもない。
ただ国技館で相撲を観たかったし、たくさんの美術館に行ってみたかった。あ、これを憧れと言うのか。
叶った今は、ここ東京は相撲に行きやすいし、美術館にも簡単に行ける。とてもコンビニエントな街だ。
それがぼくにとっての東京の特別さかもしれない。
「きらきらした街」とか「何者かになれる街」ではなく、「ただひたすらに便利なところ」が東京。
仕事で一旗あげたいわけでもないし、揚げる気もないぼくにとって、自分の趣味が遂行しやすいこと。ここにしか東京の価値はない。
確かに、そのまま兵庫県にいたら、わざわざ休みの日に上京して国技館に行っただろうか? あるいは美術館に行っただろうか? あの作品、あの展覧会、あの美術館に、あんなふらっと行けたのは、こうして東京にいるからではないか? と考えると、ふっと寂しくなる。
あり得たもう一つの今。中之島の国立国際美術館、岩屋の兵庫県立美術館、神戸市立博物館、伊丹市立美術館や芦屋市立美術館、姫路市立美術館。東京の半分くらいしか行きたいと思う美術館はないのだ…。
そしてたとえば、東京、六本木の鈴木其一展なら観られた「朝顔図屏風」が、姫路市立美術館では観られなかっただろうことも思う。
あるいは、相撲なら、東京は年3回あるが、関西では大阪場所の年1回である…(年1回あれば嬉しいか)。
東京には、暇を埋めるものがたくさんある。そういう引力=特別さを持っている。これは、否定できない。
しかし、あるいはニューヨークに住んでいたら? パリなら? ロンドンなら? あるいはUAEなら? 相撲は観られないが、美術はもっとたくさんあるし、あるいはまったく別だが、演劇やオーケストラももっともっとあるだろう…。
じゃあぼくは、どこならどう満足できると言うのだろうか?
東京都写真美術館の展覧会に話を戻せば、東京の「非・特別性」にも言及している。
「どこでもない風景」と題され、楢橋朝子、鷹野隆大、花代、清野賀子、須田一政らの作品を「東京は特別な意味をもたない、ただそこにある場所となっている」「地名がどこであるかにかかわらず大切なたった一つの場所」と捉え、まとめられている。
鷹野隆大 《〈040824k〉(東京・杉並区)》〈カスババ〉より 2004年 発色現像方式印画
©Ryudai Takano Courtesy of Yumiko Chiba Associates, Zeit-Foto Salon
これらの景色は東京の土地名がキャプションされていなければ、この展覧会に出されることはなかっただろう景色だ。あるいは、ぼくが生まれ育ったところの風景と言われても、それほどの違和感はない。
きっと、ニューヨークにもパリにもロンドンにも、あるいはUAEにも、探せば同じような光景はあるんじゃないだろうか。
東京は、確かに地方よりもヒトもモノも溢れかえっている街だ。しかし、それが世界で一番かというとそうではないだろう。
しかし、だからと言って、東京を地方やあるいはまた別の都市と比較することに意味はあるのだろうか。
ましてや、どこが「クリエイティブ」とか「センスがいい」とか「特別」とか、上やら下やら、あるはずもない対立だ。
どこにいようと今、ここにいることを大切にすることで、自分が確かに存在することを感じられる。
そして、かつて自分のいた場所、また、今そこにいる人たちに想いを寄せ、大切に思うことで、世界が確かにあること感じられる。
まさか、いつまでも「私がいるべき場所はここじゃない」なんて思い続けたくはないのだ。
本城直季《 東京タワー 東京 日本 2005》 〈Small Planet〉より 2005年 発色現像方式印画