SEALDsの活動、特に野党共闘を促した参院選や東京都知事選について、に対して思うことは、「時代は変わっていた」だった。
それは、よもや肯定的な評価でなく、もちろん否定的な意味合いである。
なぜ岡田民進党は立憲主義がどーのこーのなどというお題目しか唱えなかったのか、疑問だ。
顧客のニーズは明らかに経済政策で、それを何度となく表明してきた顧客の意思を無視して「コンプライアンスの遵守」的なことを訴えても、それは支持されないだろう。
経済政策は、しがらみがないほど大胆なことがしやすいはずだ。共産党は、その筆頭とも言える。現行の体制になんの関与もしていないからこそ、共産主義の看板を下ろさずにいられるのだ。
本来ならもっともしがらみが多く、利権団体間の利害調整に手間取るはずの自民党が、首相の音頭であれやこれやと異論を封じ込めるのに、なぜ民進党にそれができないかといえば、意思なく、しかししがらみがあるからだ。
そして、結果、誰にでも言えて否定する要素もない立憲主義を掲げたわけだが、そのどこにどう共感すればよいのか分からない。
物語もなければ、大義もない。それらがあればいいってもんじゃないけれど、それすらないのは論外だ。そして、さらに論外なのは、自分たちにはそれらがあると勘違いしていることだ。
野党共闘にはなんの物語もなかったし、大義もなかった。
果実は得られず、ダウントレンドをやや緩やかにした程度。これならいっそ、もっと大ダメージを受けて、自民党内に「やりすぎじゃないの…?」みたいな逆振りの不安を抱かせた方が、マシだったんじゃないか。
外山恒一じゃないが、選挙は民主主義じゃなく多数決に過ぎない。多数派が勝つに決まってる。
いろいろな意見をいろいろな形で表明できるのは必要なことだ。時には過激な表現も辞さない覚悟がないと、広く伝えられないこともある。
そうやって社会の中で人々が関わり合い、意見を持ち寄り、考えをミックスして、コミュニティというグルーヴを作る。
社会とDJって同じなのか!!!? という感じである。
デモのような叫びばかりでなく、日常的活動、対話から積み重ね、練り上げられなければ、「民主主義ってこれだ!」そのものとはならないわけだ。
ロンドン市長に選ばれたサディク・カーンは、イスラム教徒ということで注目を集めたが、
私はイスラム教の指導者でも、イスラム教徒の代弁者でもありません。ロンドン市長です。私は、ユダヤ人、キリスト教徒、ムスリム、ヒンドゥー教徒、シーク教徒、無信仰者、黒人、白人、レスビアン、ゲイ……、あらゆるロンドン市民のために仕事をするのです
と述べたことがあるそうだが、そもそもこれが政治のはずではないか?
サディク・カーンが当選した理由はイスラム教徒というアイデンティティ的な問題ではないと言われる。
クーリエ・ジャポンの記事は当選の最大の理由を「カーンが労働党の穏健派に属し、ロンドンの経済発展に積極的で、カリスマ性がある優秀な政治家だから」と言う。
倉本さんという方の「シールズ解散は20世紀型左翼の限界点そのもの」という記事で、こんなことが書かれていて正鵠を射ていると思った。
質問3 なぜSEALDsは解散に至ったのか?
手法やテイストは斬新だが中身は20世紀型の左翼性そのものだったからくるべき限界が来たんじゃないか。
で、解決策として
A 戦略的には「実務家イメージの中道左派政党」を受け皿とすること、
B 本質的にはリオ五輪柔道代表のような「伝統と改革が両立した成功例」を、それぞれ自分が生きている持ち場で実現しようとすること
を挙げられている。
第一に経済政策がしっかりしていて、かつ自民党より貧困や格差といった社会問題の解決に積極的、国際的な協調力を持ちつつ外交的なしたたかさを持つことが民進党に対して求められているんじゃないか、というわけだ。
つまり、違わない部分は違わなくて構わなくて、しかし違う部分は明確に違うんだと打ち出せるだけの背骨がいる。
B案については元記事を参照願いたい。
ところで、能年玲奈改めてのんさんは、これからどんな芸能活動を行うのだろうかと考えた時、そこに広がる無限の可能性にときめかざるをえない。
しかし、SMAPの解散に対しては、これから先の展望がうっすらと予想されるから、どことなくつまらない。
利権団体、組織代表者としての政治家ではなく、かといって既得権へのアンチ、反対者でもなく、ここにいる「全員の代表者」であろうとする人が出てきてほしい。
そのイメージを打ち出せる人なら実務能力もあるかなあ、と薄ら、勝手な希望も持ちつつ。