「営業」と聞くと、怖がってしまう自分がいる。
10代の自分は、服を見ていると寄ってきて「サイズありますので〜」みたいなことを言ってくる店員は避けていたし、
マクドナルドの「ご一緒にポテトはいかがですか」すらも嫌いだった。
家にいて、運悪く営業の電話をとってしまったら「両親が不在にしていて…」とわざとらしいほど子どもっぽい声で答えた。
訪問販売や街を歩いていて声をかけられるような経験はしなかったけれど、そんなのがあると聞けば慄き、梅田も三宮も生きた心地がしないのである。
売りつけられる、買わされる、という恐怖があった。
そもそも10代の自分は「自分のお金を持っていない」という認識だったため、自発的に何かを買ったことがなかった。
お昼ご飯代として500円玉をもらえば、それ以内に収めて済ます
*1。
服は母親が買ってきたものを着ていたし、ゲーム機もCDコンポも
ウォークマンも自分からねだるなんて思いもよらなかったし、お年玉を貯めて買うことも考えたことがなかった。
兄が「CDコンポが欲しい」「
ウォークマンが欲しい」「パソコンが欲しい」「
ターンテーブルが欲しい」とあらゆる欲望を発露させていたのとは対照的に、僕が自発的に買ったものは本くらいのものだろう。
それだって高校生向けの小論文の懸賞で入選した賞金や、上記お昼ご飯代から余った端数を貯めて、図書館にあまり置かれていない本、自分の手元に置いておきたい本
*2を月に1冊ないし2冊程度買ったもので、基本的には図書館で借りればよいのだから、万事事足りていた。
だからアルバイトをしたいと思ったこともなかったし、高校時代、あまりにも暇にしすぎて、親に何かしろと怒られしぶしぶアルバイトをしたけれど、その給料はそっくり手付かずのまま机の引き出しの中に置いておかれたりした。
もらったお年玉をそこらへんに放っていて怒られたこともある。
ぼくからすれば、これはぼくのお金でなく「親に帰属するもの」であるから管理もまた親にしてもらいたかったのだ。
それが17、18歳、高校生の時のぼくである。
今思えば、かなりヤバいくらい主体性のない子どもである。
とはいえ叱りにくかったのだろう。声を荒げられたことはほとんどない。
成績は悪くないし、問題らしい問題も起こさない。
欠点らしい欠点はない。
反抗期らしい反抗期もない。
割と周りもそんなもんで、そりゃあ大なり小なり反抗してたのかもしれないが、大抵はありきたりに収まって、無軌道な反抗というのはなかったと思う。
今はほとんどの人がサラリーマンやって、普段は仕事を真面目にやって、たまに飲み会ではしゃいで、土日は接待でゴルフに行って、盆か暮れかには懐かしき同級生に会いしこたま飲んで…。
どことなく父親のやっていたことと同じことを繰り返しているのだろう。
反抗期と言っても、自己の存在理由、レーゾン・デートルや自己の自己たる理由、
アイデンティティーを賭けた闘争などではなく、ただ親に承認して欲しかっただけ、という程度のかわいいもの、甘えた反抗に過ぎなかったのだと思う。
根がボンボンの上に商売人の息子たちなので、親元離れたら「損する」ことをよく分かっているわけである。
当時通っていた学校の先生が、「6年生の娘が口をきいてくれない」「娘の好きなCDを買ってあげる時しか接点が持てない」と言っていたのを、心底羨ましく思った。反抗心を表明できるということは、子供が過剰に抑圧されておらず、親を信頼しているということだ。
ま、それはさておき。
そんなぼくも大人になって、10代の頃からすでに芽生えていたであろう自我がようやく輪郭を表し、人生が自己に帰属していることを肌で感じられるようになった。
それは親が悪かったわけではなく、ただ時が経った、というそれだけのことであり、それまでに水と肥料が与えられていたからこそ、運よく春となり、日が照り、芽生えることができただけである。
親への感謝もあるが、それよりも神様への感謝のようなものを強く感じるのである。本当にぼくは運がいい。
それで冒頭に戻れば、営業への恐怖である。
物を買うことの自己帰属感がなかったからこそ恐れていたことは明白だ。
携帯代が高くなったら、親から何か言われてしまうかもしれないから電話はしない。iモードの通信もパケット代が怖いのでしない。
と恐れていた10代から、携帯代は自分で払っているのだから、契約プランは自分で決めるし、お金がかかろうと必要に応じて電話をする、といった自己に帰属した判断ができるようになった。
1万なり2万なり、時にはそれよりも高いお金を出して服を買って、もし一回も着なくとも、それは自分のお金、自分の責任であり、それ以上でも以下でもない。
古着屋に持って行って、500円で買い叩かれようと自分の問題。
親が買った服であれば、気に入ってなくとも気兼ねしてたまに着る。一回も着ないなんて、可哀想だ。
責任が自分に帰属しているからこそ、服屋の店員と話せるようになった。
最近やっと「Mサイズだと思うが、Sサイズも着てみたい。この色がないなら他店から取り寄せて欲しいので、ひとまず色違いのSサイズを着させてほしい」とか言って、2着も3着も試着した上で買わないとか、結局最初に戻ってMサイズを買うとか、そういうド厚かましいことができるようになった(お手数おかけしました、と何度も謝りながら)。
かなりの進歩である。
「買う」責任を自己に帰属させることで、「消費」の楽しみをようやく知り始めたのである。
子どもだった自分は、自分が「免責」された存在であるがゆえに、何をしようにも何も決められない、と思っていた。
ぼくが今それに気づいているから良かったとは言え、「親フィルター」を備えたまま26歳になっていても不思議じゃない。
そうすると、働いて給料をもらっているにもかかわらず、消費はおろか働くことすら自己に帰属していないような、ふわふわした人間になりかけていたわけで、まじでヤバい。
「毒親」の文脈で、「親」がどう思うかが気になって自分で決められない、という話があるが、そういう感じになりかけてたわけだ。
「毒親」とまではいかなくとも、恵まれていたからこそナチュラルに「親フィルター」がかかってしまうこともあるのかもしれない。あるいは、ぼくの親にもどこかしら「毒親」要素があったのかもしれない。
こういった親子関係は、他人から見ると、何の問題も無い、仲の良い親子に見えるだろう。ともすると、親が子供に与えすぎて甘やかしているように見えることすらあるかもしれない。だが、当の子供からすると、自分にとって欲しくないものばかりを与えられ、それを喜ぶことを強要される一方で、自分が本当に欲しいものはほとんど与えられていない。親から甘やかされるどころか、甘えてくる親を子供があやす関係になっているのだ。
子供が折り紙で作った指輪やブローチを母親にプレゼントする。母親は、プレゼント自体は別に欲しく無いけれど、子供の気持ちに答えて「ありがとう。嬉しいわ」と喜ぶ。これはとても自然で良い親子関係だ。しかし、この関係が逆転して、プレゼントをするのが親で、喜んであげるのが子供という関係は歪んでいる。子供から感謝の気持ちを搾取している。
部下に酒を注いであげる上司と、その酒を笑顔で受け取る部下。傍からは仲良く談笑しているように見えるこの二人の関係が、「俺の酒が飲めないのか」と言う上司に、胃が痛くなりながら、冷や汗をかきながら、途中でこっそりトイレで吐きながらも、笑顔で酒を受ける部下によって成り立っているものだとしたら…(前述「
yuhka-unoの日記」より引用)
営業の話がしたいだけなのに、どうしてこうも人生を振り返る必要があるのか、いまいち自分にもわからないが、必要なのだと信じて話を進める。
さて、冒頭から一変して、営業を受けることは楽しいことである。
営業とはつまり、消費意欲の喚起に他ならない。
欲しくもないものを買わせるのは営業ではなく、押し売りであり、犯罪だ。
心地よく「ああ、これ良いなあ。欲しいなあ。」といつの間にやら初めから自分はそれが欲しかったかのように思わせてくれること、そんな営業はとても楽しい。
たとえば。
たとえば某料理教室の営業はとても心地よかった。
格安の体験レッスンに行く。
大抵講師は女性で、ぼくの時も女性だった。
営業する時間が取れるよう料理の合間に煮込む時間があるのが憎い。
待っている間、料理ができる利点をこれでもか、これでもか、と大量に繰り出し、しかし大変なことではないのだよ、習えば簡単だよ、というのは体験レッスンで実証済み。
1人だけでなく、周囲のスタッフも巻き込んでお客さんを徹底的に持ち上げて、気持ちよくさせる。
「男性で料理するなんてほんっとすてきですよ!」
「結婚する相手の方がほんっと羨ましい!!」
「家庭の味を作っていける関係ってほんっと憧れですよ!!!」
「ねー!(周囲のスタッフに同意を求める。めちゃくちゃノリ良く「私もそう思いますー!」と返すあたりはホストとかホステスみたい、というと失礼か…)
その上で月々払う金額もお手頃(分割しまくればそりゃあお手頃になる)。
ほいほいほい、と乗せられて契約しちゃうんである(しちゃった) 。
ま、実際習いたくて習いに行ったわけだからいいんだけれども、今思えば女性におだてあげられたアホなおっさんでしかないような気もする。
ちなみに女性に対しては
「いつか結婚した時に料理ができたらばっちりですよ!」
「胃袋ゲットしちゃいましょうよ!」
「自分でおいしいご飯食べるのってそれだけでも幸せですよ!」
みたいなことを言いまくっていた。持ち上げる、というより「できなきゃやばいよ」というのと「美味しいご飯っていいよね」みたいなところを突いている印象。
エプロン似合ってますよ!から始まるんだから、まあ一種の劇場だ。
料理教室劇場。
それがずーっと続くのだから、お客さんは楽しいが、働いてる人は大変だろうな…。
優れた営業とは、何が欲しいのかわかっていない消費者に「あなたが欲しいものはこれですよ」と示唆し、まるで初めからそれが欲しかったかのように思わせてくれる。
欲望に形を与え、正当な理由と釣り合った金額を提示することで、どんな消費者もそれを買わないことは「損」だと思ってしまうようにしなくちゃならない。
現代はモノであふれかえっている。というと月並みだが、まさに字のごとく溢れかえっているのだ。
100円均一でさまざまなものが買えて、
無印良品やロフトにはないものはないのではないかというくらい幅広いラインナップの商品が置かれて、ファッションは移り変わり、去年と今年でボタンが一つ増えたとか増えていないとかそんな程度の違いのものがまるで全く別物のようにして売られ、コンビニ弁当は時間になれば廃棄され、高級ホテルの給仕さんたちはビュッフェで余ったご飯を無表情で捨てていき、
東京湾はごみで埋め尽くされている。
モノばかりでなく、ここ日本、ここ東京は少し多くお金を払えば上質なサービスが受けられる。
有限なものは時間だけだ。欲望は際限なく広がっても、人の寿命はそんなに伸ばせやしない。
本当に必要なものが何か、誰も知らないのだから営業パーソンはそれを教えてくれるのだ。
何も知らないあなたのために、私が業界の常識を教えてあげましょう、という具合である。
ここらへんは小説『狭小邸宅』というのがめちゃくちゃおもしろいので、ぜひ読んでいただきたい。
不動産屋の営業マンの話である。
都内に理想的な一軒家を買うなんて、一般的なサラリーマンのできることではない。土地と土地の隙間に無理やり建てたような「ペンシルハウス」がせいぜいだけれど、お客は「もっといいところがあるはず」「もっと条件の良い家を見せて欲しい」と要求する。
「都内の相場はこんなものですよ」なんて口で言っても分からない。
実際に何件も外れを見せて周り、そして最後の最後、ほんの少しだけ条件の良い家をまるで奇跡的にそれが残っているかのように演出し、そこを買わなきゃ「損をする」状況に持って行く。
中盤にダイナミックに描かれるこの「売り方」の描写はわくわくどきどきすると同時に、自分の消費態度の
カリカチュアのようにも思えて、不快ささえ感じる、名シーンである。
そうした営業と「恋愛工学」の根っこが同じではないか、と考えたこともある。。
恋愛工学というものの目的がセックスなことに違和感を覚えることは大前提として、そのメソッドは単純な「人とのコミュニケーション方法」みたいなもんじゃないかと思う。
なぜなら、営業の人向けの「絶対に売れる話法」みたいな本に書いてあることと構造はあまり変わらないからだ。
ああいう本も、そういう心理学とかを用いた話法が書いてあって、買わないと損をするように思わせたり、買わない選択肢を与えない質問、ダブルバインドを用いたり、ラポールの形成なんかもよく書かれてることだし、中身は同じ、目的が商品を売ることかセックスか、という違いしかない。
そういう営業の本には「お客さんはこの商品を買わないと損するのだと強く思うこと」が大抵まず書いてある。
その商品を全世界に広めることが社会の進歩に役立つ、くらいの気持ち。
そうでないと途中「お金がないから」とかいう断り文句に対応できない。一人残さず、金持ち貧乏人、老若男女関係なく、この商品を買うべきと思わなきゃならない。
そう強く思うことが営業の鉄則なのだ。
ほとんど宗教的な気がするが、実際そうでなきゃ売れないし、お客からしても買わないんだと思う。
izumishiyou.hatenablog.com
さて、反対に不快な営業というものもある。
思っているよりも高かったり、自分の欲望に見当違いな理由を与えられたりした時がそれである。
一度体験で脱毛エステに行ったため、時折DMが届けられる。
初回は1000円で体験ができた。二回目以降は3000円くらいで新しいプランの体験ができたりする。
実際に契約するとうん十万かかるので、全くやる気にならない。
その上営業がひどい。
カウンセリングと称して女性と話をするのだが、
「あー、これはヒゲ濃いですねー」
「女性はそういうところよく見てますよー」
「夕方くらいに髭が伸び始めてるのって、女性目線からしたら、けっこう気になっちゃいますよー」
というようなことを言いまくる。
要は「髭が濃いとモテないぞ」ってなことを言うわけだ。
下記北条かやさんのブログではそうした話法が効果的である、と述べられている。
例えば、あごの下までヒゲが広がっている男性の場合。「電車で立っているとき、あなたの顎下のヒゲは、座っている女性から丸見えです。それを見た女性は何と感じると思いますか?」
他にも色んなバリエーションがあります。要はその男性が悩んでいる部位について、「女性はそこを気にしているんですよ」という言い方をしていくんですね。
若い男子が「女は外見をチェックしてますよ」という勧誘に弱いのは、彼らこそ「女を見た目で判断している」からではないでしょうか。「女は外見だ」と思っている男子は、エステで「女も同じことを考えていますよ」と言われ、ハッと我が身を省みるのです。そして「モテるために」、脱毛の契約書にサインするのです。
男は「男って〜」と自分たちを集合体のように語る。
例外を認めず、「男はセックスがしたいもんである」と断言する。
その性質を逆手にとって、脱毛エステの営業は「私はあなたのヒゲが濃いと思いました」「私は髭が濃いところは気になります」と伝えるだけで、男は「女性はみんなそう思うのか」「髭を薄くすればモテるのか」と女を集合体にしたうえで勘違いして五s舞うわけだ。
しかし、ぼくは「モテたい」という「欲望」ではなく、ただ髭を剃るのが面倒だから脱毛したら楽かなあ、という程度の気持ちだったわけであり、「モテたいでしょ?」と言われるとむしろちょっと腹が立った。
十把一絡げに「男はモテたい」という観点から営業を変えて、それにぼくが難色を示しても方針を変えないどころか、「男のくせにモテたくないのか!」というような雰囲気になって、うんざりした。
まあ、そのあたりは接客してくれた人の力量もあるのだとは思う。
マニュアルとおりの営業で、たぶん10人いれば半分くらい落とせるのであれば、それでよくて、あとの半分は、興味本位で体験しに来ただけだったりするわけだから、気にしなくてよいのだ。
最も確率の高い方法で当たっていく、というのはなんだか恋愛工学みたい、と思ったけどそうじゃなくて、営業って数うちゃ当たるもんだからなのだ。
いろんなものがオートメーションされている現代において、営業ばかりはさすがに機械化されないかと思っていたら、実は機械化されたような営業というものがまかり通っているのである。
件の料理教室だって、マニュアル化された営業でしかなく、たまたまぼくは気持ち良かったけれど、他の人からすれば不快かもしれない。特に女性からすれば「料理できないとダメだよね」と煽られるのはじとーっと嫌な気持ちになる営業ではないだろうか。
それを鏡に映すかのように、脱毛エステにおいては男性の「モテたい」という欲望(あるいは「モテない」というコンプレックス)を刺激し、「モテ」を意識していない人の欲望を捨象してしまっているのだ。
捨象してしまっているし、それでいい、多数に対する欲望が刺激できれば、経営的には問題ではない、という判断は
営利企業であるからこそ許されるものである。
その方針に機械的に従うだけの営業パーソンは、将来的には機械が「あなたの髭の濃さは平均より濃いです」「女性の70%はその髭の濃さを不快に感じると回答しています」「当エステの脱毛コースに半年通っていただくと、髭が薄くなり、その場合女性の80%が不快でないと感じます」とか言う機械に取って代わられるんではないだろうか。
そればかりでなく、普段から人を十把一絡げに捉える癖がついてしまうと、いざ目の前の生身の人間に対しても、どこか決めつけた物言いをしてしまったりしないだろうか。
営業によって、人間性が喪失されるのではないか。
やっぱり、営業って怖い。