Nu blog

いつも考えていること

言葉と意識

ヤフーニュースのコメント欄をみると、Facebookのコメントが見られる。

基本的に実名顔出しのFacebookだけど、時折どうした!?と言いたくなるようなくらい罵詈雑言を書き連ねている人がいて、この人ら友達にどう思われてるんだろう、と不思議でしょうがない。
自分のFacebookのタイムラインでそのような恐ろしいコメントを見たことがないので、果たして「彼ら」が何者なのか、捨てアカウントなのか、あるいは日本のマジョリティか、混乱する。
 
たとえば、この記事。

news.yahoo.co.jp

言葉狩り、差別を感じる人の方が差別主義者、左翼の戯言、といったコメントが並ぶ。
実名、顔を出した写真、たぶん、たぶん本物?
「こんなこと言うのはバカだ」とか「在日朝鮮人が言いだしたに違いない」などと書いている。
この人らの知り合いのタイムラインにはその言葉が並ぶのか。
この記事は元ネタが朝日新聞の声欄だ。つまり、投稿者がいて、その人の意見に対して「バカ」「左翼」「在日朝鮮人」と罵ってるのである。
すごい、と思った。
 
ヤフーニュースの匿名、顔写真のないコメント欄はもっとすごかったりする。
そういえば高校野球のおにぎりマネージャーの時も乱暴で、恐ろしいコメントが少なくなかった。

bylines.news.yahoo.co.jp

わざわざ意見を書き込むくらいの人らだからこその意見かもしれない。それは偏った一部の人らの意見かもしれない。
でも、とにかく、すごいなって思う。
 
思えば、人は案外、他人を批判する、というか罵ることがある。
父親は、家族でテレビを見ていると「まだこいつテレビ出れてたんか」とか「大物タレントに擦り寄って食わしてもらってる」とか「歌出したらある程度売れるからってついこの間も出して、儲けに走ってる」とかほいほい批判していた。
母親も割といろいろ言ってて「昔ひとつ当たっただけで偉そうな顔してる」とか「バックに宗教団体がついてる」とか言ってた。
ある特定の地域での凶悪犯罪、通り魔に「こういう人がおるから○○は怖いなあ」とか学校に刃物を持って襲撃したニュースに「こんなん担任の先生が真っ先に刺されなおかしい」とか企業のトップの謝罪会見に「謝って辞めて、言うてめちゃたくさんの退職金もらえるからええやんな。その後どっかに何年かおったらまた復帰できるんやろ」とか。
その影響か、ぼくもテレビ見ながらごちゃごちゃ言うことがあったし、今でも出てる人をこき下ろしてることがあると思う。反省だ。
 
今に始まったことではなく、人は人の文句、特にテレビに出てる人に文句たらたら、垂れ流すのだ。家族に言うか、ネットに書くかの違いかもしれない。
「ねたみの時代」というやつだ。
画面の向こうへの憧憬、日常というつまらなさ、退屈さはの苛立ち、夢見た未来と違う現在へのやるせなさ、すべてが画面の向こうに行けば、それを得ている人がいるような錯覚。
テレ、とは遠くを指す接頭語だったと思う。
テレビジョン、テレフォン、テレグラフ、テレポート。
遠いのは映っている人なのか。それともねたむ自分自身が最も遠くにいるのだろうか。
 
ところでニュースとなった朝日新聞の投稿、嫁、主人という言い方について少し書いておきたい。
嫁や主人という言葉は、確かに意識し出すと座り心地の悪い言葉だ。
 
この間、「視点・論点」で「命名と漢字文化」というのがやっていたので見てみたら、キラキラネームに関する論考等だった。
今の親では名づけに使いたい漢字を聞くと「腥」「胱」が上がるらしい。どちらも見た瞬間、あまり良い意味を持たない漢字だと僕は思うが、違うらしい。月に星、月に光、できれいな漢字に見えるらしい。まじか。

www.nhk.or.jp

この視点・論点の結論は
キラキラネームのせいで日本語が壊れるのではなく、日本語の漢字の体系が壊れかけているから、キラキラネームが増殖しやすくなっているのです。
だそうだ。そうだろうなあと思う。
因果が反対、ということだ。
 
嫁、主人に話を戻したい。
嫁、主人が今一般的なのは、伝統的な日本語であるとかそういうことではなく、ただ人々の意識の中にまだ婚姻関係における固定観念が残っているからだと思う。
そこを正す気なく、「これまでそうだったから」というようにこの言い方を是とするのは怠慢だし、その怠慢が現代なのだ。
 
だから、私の嫁、私の主人、自分が言う時にまず気をつけることから始めたい、と思う。
夫、妻、パートナーあたりがいいのではないだろうか。パートナーがもっともニュートラルかと思う。つれあいも日本語であり、使いにくいかもしれないが、よさそうだ。
 
いつかは他人から「お客様の奥様は」とか「ご主人は」なんて言われることもなくなる。言葉狩りでもなんでもなく、ただ人々の意識がそう変わる。
日本語が壊れるのではなく、人々の現状の意識が変わり、言葉も変わる。
お連れ合い、パートナーといったニュートラルな言い方が模索され、それは人々の意識のどこかを境に、そんなニュートラルな言い方が当然、主流となる。
 
まずは自分の思いに合った言葉を見つけることから、そこから社会的な言葉が形成されるに違いない。
乱暴な言葉の使い方は止めて、そこから。