これまで「なかったこと」、「蓋をして見えないようにしていたこと」に対して、「あっても良いこと」にすること、と思う。
「ある」だけでなく、それを「良し」とする。
認める、という行為には二段階のアクションがある、という気がするのだ。
アメリカにおける同性婚の容認、がニュースになっている。
容認、とか合法化、とか表現は色々あるが、同性婚という「なかったこと」を「国家」が「あって良い」とした。
新聞記事を読むと、不思議な気持ちになるのは、なぜ国家の目線からそれを書くのだろうか、ということである。
細かい話と言われるかもしれないが、立場を変えれば
「アメリカにおいて法律上、同性婚を不可とするとする法律が是正された」
というような言い方になるのではないか。
つまり、同性婚を許された側からの書き方。
許された、なんて表現がちゃんちゃらおかしいけど。当たり前のことが当たり前とされただけなはずなのに。
同性婚、というか同性愛は犯罪ではない。
法律上、同性婚ができなかったのは、それはただ単に、法律の不備でしかない。
国家が法律の誤りを認め、改めた、という視点が欠けているのではないか。
これまでの法律も間違ってなかったけど、それに同性婚も加えてあげるね、というような書き方は間違いだ、と言い切りたい。
客観的な視点は、ともすれば現状を主語とした、主観的な視点になり、表現の微妙な差に気づけなくなる、なんて思う。
喜び、賛同、祝福の表明、といったところか。
同性婚という主張が法的に通ったことだけでなく、社会が受け入れの姿勢を見せていることは、これまでの差別、偏見の歴史からして、とても喜ばしいことだと思う。
しかし一方で、
お上が容認したからめでたい、
という発想が根元にあるように、ひねくれた僕は思う。
お上が容認したぞ、ばんざーい!よかったねー、という発想は、
禁酒令が出されれば禁酒するし、
それが解禁されれば飲んだくれるし、
ヘアヌードが摘発されればそれはわいせつ図画だ、やらしいと糾弾し、
解禁されれば毎週のように週刊誌でヘアヌードを見て、もう見過ぎでエロく感じないもんね、なんて言ったりする。
この先集団的自衛権なんかが容認されれば、ホムルズ海峡へ行こうが月へ行こうが、合法なんだからダメじゃない、なんて言い出す。
派兵だか派遣だか、最初はあり得ないとされていたことがどんどんできるようになる。
お上がありっつったらあり、って発想が、ある。
お上があり、と言おうがなし、と言おうが、同性愛はあり、同性婚もあったことだろう。
異性婚だってお上に認められなきゃ夫婦になれないわけじゃないはずだ。紙切れ一枚も重要だが、なくたって大切なものを作り、守れる人はいる。あった方がいい人もいる。
お上に認められなきゃわいせつかどうかも判断がつかない。
アルコールはセーフか、大麻はアウトか、タバコはセーフか、その判断だってお上任せだ。
許可を得なけりゃ夜通しお酒を飲みながら音楽を聴いて踊ることすらできないのか。あまつさえ逮捕されるのか。
お上がやるっつったら戦争やるし、侵略じゃない、虐殺はない、慰安婦はいない、と言えばその通りだ。
少子化は女が産まないせい、給料が下がっているのは女が働くせい、医療費、介護費が膨張するのは女が外で働くせい、とお上が示して、おお、その通りだ。
僕らが生きていることすら、首の皮一枚、認められているに過ぎない。
- 作者: J.M.クッツェー,くぼたのぞみ
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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