河合隼雄の「中空構造日本の深層」を読んだ。
日本は、真ん中に「空」を抱く構造があり、キリスト教のような一神教における中心を持たず、つかめるようでつかめないバランスによって成り立っている、というような論考だった。
本書は都市の地図を自分で描く方法を教えてくれる奇書である。
手元にないのでうろ覚えでの紹介となるが、たとえばパリはセーヌ川をズバッと配置し、エッフェル塔とルーブル美術館を置いて、それを結ぶ道を描き、他のシンボル、たとえば凱旋門や6つの駅を配置すれば、おおよその地図となるのである。
欧米諸国においては、都市はシンボルの塊だ。たいていは中心に教会が据えられ、放射状、あるいは格子状に道が拡がった街となっている。
アジアの国々においても、その中心にシンボリックな建造物があったように記憶している。
そして東京という都市は、中心に皇居を抱く。
しかし、皇居を中心に道が広がるわけではない。ただ真ん中にそれがあるのであって、次に描くべきは山手線であり、中央線なのである。それらの駅、東京、上野、池袋、新宿、渋谷、品川を描き、東京タワーを描く。
隅田川と荒川を描いて、今ならスカイツリーは外せないだろうが、それらを書き込めば東京のだいたいは把握できたと言えるのである。
他の都市に比べ、どこか間の抜けた地図だったように記憶している。
真ん中にシンボルがあるのだけれど、それは出発点でも終着点でも、ランドマークでも目印でもない。
不思議な都市のようだが、それは必然だったというわけだ。
ところでここ最近、映画「仁義なき戦い」にハマっている。
広島ヤクザの抗争を描く作品で、バイオレンス描写の乾き切った感覚には痺れる。
どかどか人が死ぬので、お好きな人だけにオススメする。
この「仁義なき戦い」、山守義雄を組長とする山守組を中心としたお話になるのだが、その組長・山守義雄がエグいのである。
まったく人望がなく、魅力もない!と言い切れる*2。
地位を守る、勢力を拡大するために子分同士争わせるし、警察に情報流すし、嘘はつくし、嘘泣きもするし、自分は手を下さず子分に「ケンカしてこい!」と命令するだけ、とにかく酷いのである。
しかし、どれだけムカついても子分らは親分に弓を引けない。そんなことをしてしまうと、自分が他の子分らから狙われる。もし他の子分を丸め込むなり戦争して勝ったとしても、仁義を欠いた奴としてヤクザの社会での信用を失うことは必定。
また、よその組も彼の命を取れば、やり手の子分らが決起することを思うと迂闊に手を出せない。
あまりにもクソなので一作目に松方弘樹扮する坂井の鉄ちゃんにガチ切れされる。この松方弘樹、めちゃかっこいい。
音声だけだがご紹介する。
仁義なき戦い 名セリフ 「神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみいや、おう」 - YouTube
「オヤジさん。言うといたるがの。あんたはわしらが担いどる神輿じゃないの。組がここまでになるのに誰が血流しとるの。
神輿が勝手に歩けるいうなら、歩いてみいや。おお。わしの言うとおりにしとりゃ、わしらも黙って担ぐわ。のお、おやっさん。喧嘩はなんぼ銭があっても勝てんので。」
諸悪の根源ながら、断つことのできない存在。
この存在が天皇を暗示していることは言を俟たない。
日本の象徴、中心でありながら空、その存在に人々は振り回され、多くの人が彼のために血を流したのである。
日本型のリーダーとは、欧米におけるリーダー=「決定権者」ではなく、「調整者」であるとは河合隼雄の先の本でも述べられていることだが、天皇はまさにそれである。
最終決定を行うのはいつも天皇ではない。しかるべき機関において決定されることは決定される。
機関、つまり組織によって決まるのであり、誰か一人のリーダーによって決まるのではないことも重要だ。
みんなで、天皇はこう思うと思うと推測しあって決めるのである。
そうしてその「存在=在ること」を慮って、周囲は動き、一度転げ出した石が止まることはない。
会社組織におけるいわゆる「偉い人」らもそうである。
具体的なこと、実際的なことは中位の人間のやることであり、「偉い人」らは社内間における軋轢のないよううまくガス抜きしたり、諭したりするだけである。
仁義なき戦いにおいても、上の人間が「殺してこい」などとわざわざ指示することはほとんどない。
居場所を教えたり、道具を渡したり、する程度だ。
「上」「中心」の具体性にかける「希望」を察し、具現化していくこと。これが日本における物事の進め方なのである*3。
だから反対に中心の存在が強まることには抵抗する。
いつも通り相撲の話をすれば、横綱という存在は空でなければならない。
横綱という存在は必要だが、その横綱は、空、つまり何か問題を起こしたり、邪魔な要素のない空でなければならないのである。
そのため、朝青龍はもとより、白鵬でさえもそのちょっとした所作から、批判や態度、果ては勝ち方まで問題とされる有様である。これの起因するところは結句「日本人でない」ことに尽きるのだから、日本人の「空」への執念を感じる。
今、日本は右傾化していると国内外から指摘されている。
これまではお金を回すことで「中空」に触れずに済ましてきたが、お金の回らなくなった今、中空に目を向けざるを得なくなった、というのが本当のところではないだろうか。
だから、現在の安倍政権は、経済政策を第一に掲げ、回らなくなった円を回すとともに、視界に入ってしまった中空へ手を伸ばす、つまり右傾化せざるを得ないという図式に思える。
うまく行かなくなった時、中空に目をやり、これまで代入をしてきたものはさんがんな結果をもたらしてきた。
空は空として、何も入れないでいられる強さがほしい。
戦争に対して何らかの立場を表明すると、「戦争賛美」「反戦」という両極端に落とし込まれて、多くの人に届かなくなる。だから売るためには政治性を排除する。「艦これ」も「永遠の0」も、最終的には恋愛や家族の絆のような情緒的な話に行き着く仕掛けになっています。
「『艦これ』は右傾化だ」というのは簡単ですが、それはネトウヨがすぐ「売国」とレッテルを貼るのと同じ。問題はレッテル貼りが事なかれ主義を招いていることです。そして政治性をはぎ取られ、漂白されたものばかり与えられていると、その真空状態にかえって排外主義的な思想が入り込む危険性があります。
(余談)
高校野球の応援に「仁義なき戦い」のテーマソングが使われているらしく、笑ってしまった。