Nu blog

いつも考えていること

NOとNOの間

披露宴が怖すぎた。
混乱してる。
以下怖かった点。

  • ファーストバイト
ケーキをものすごく大きな一口を食べさせるやつだ。
シャッターチャンスとして煽られる。
新郎→新婦は「一生食べるものに困らせない」、新婦→新郎は「一生美味しいものを食べさせる」という意味が説明された。
ライオンか。ライオンの場合メスが狩りをするんだけども。
ケーキを食べさせること自体は余興的には面白いけど、この説明を習慣としてることを思うと、ぞっとした。
説明部分のないただの余興にすればいいのに。なんで、そんな説明が入るんだろう。

  • 上司の挨拶
新婦上司の挨拶で新婦に対し、「旦那の足をよく見ろ。靴下に穴が空いていたり、靴が汚かったりしたら妻の責任。それがあなたの仕事だから」と訓示されて、思わず「靴下の穴は履く時に気づけよ、靴も磨けよ」とつぶやいてしまった(周りの人には無視された)。
それだけでなく「新婦は仕事熱心で、意見もよく言う」と褒めているようで、その言葉の端々に「女のくせに」というようなニュアンスがあった。「意見を言う」を「食ってかか…、失礼」みたいに言って笑いをとっていた。
スピーチをやめてくれと僕が新婦の父なら怒りに震えていただろう。
これが男の部下なら、「しっかりしてる」「自分を持っている」と褒めていたんじゃないだろうか。
女は意見しちゃダメなのか。なんなんだ。
新郎の上司も「これからは生活の指導は我々から奥さんにお譲りいたします」と言っていて、二人合わせて女を家に押し込もうとする。
なぜ、妻は夫の世話をするという前提なのだろう。
どうして新郎には「妻の靴下を見ろ」とは言わないんだろう。
分からん。

  • 司会者、謎のコメント
新婦のプロフィールの最後に、司会者が「これからは主婦業もがんばり、美味しい料理を毎日作ります」的なことを言った。
あれは新婦本人が言ったのか、流れ上そう言うしかない聞き出され方だったのか。分からんが怖い。

これから妻を守る、と夫は言う。これから夫を支える、と妻は言う。
なぜ夫は妻を「守る」だけでよいのか。
そもそも何をどう守るのかイマイチわからんし、守られるために愛される、なんてペットみたいだ。かわいくなければ、保健所に連れて行かれる。
愛されなくちゃ守ってもらえない、なんてそんな関係性で夫婦を捉えていいのか?
おっさんらはどう妻を守ってきたのか、妻らは夫にどう守られてきたのか、そこのところを聞きたい。
強盗でも入ったら、戦うのかしらん。戦争が始まったら特攻隊に志願するって意味かしらん。
お金を稼ぐことが家族を守ることなんだろうなとは思う、普通に考えれば。頼もしい限りだなあ…。
同じ口が、「結婚したら男はATM」と嘯くことがあったら、僕は戸惑ってしまうだろう。

  • 結婚式のキャンドル
結婚式で謎の儀式があった。あれは一般的なのだろうか。
三本のキャンドルがあって、向かって右のキャンドルに新郎の両親が、左のキャンドルに新婦の両親が火をつけ、新郎と新婦がそれぞれ両親の点火したキャンドルを持ち、真ん中のキャンドルに火を灯す。
正式なキリスト教なんてどうでもよくて、その儀式の意味が重要だ。
つまり、各々の家が、この婚姻を経て結びついたことを象徴しているわけだ。
家制度かあ…。そうかあ…。

  • お酒を飲むこと
これは飲み会全般に言えることだけど、お酒を粗末にしすぎじゃないかと思う。
わーっと飲む。
話しても盛り上がらないから、わーっと飲む。
そっちの方が盛り上がってる感じがある。
お祝いっぽい気がする、というのはわかる。でも、気がするだけ、じゃないだろうか。
次の日気持ち悪くなるだけだ。

以上の5点が怖かった。
キリスト教徒じゃないのに、讃美歌歌ったりするのが変だ、というのは特に思わない。
むしろ、個人と個人の結びつきに際して、それを拘束するように家が出てきたり、性別役割を押し出したり、お酒を強要したり、そういうのを変だと思うのだ。

じゃあどうしたらいいの、と言われたら、まずはこの、そこはかとなく漂う結婚したら男は仕事をがんばれる、女は愛する夫の世話をする、みたいな雰囲気をやめることが第一だと思う。
たとえ当人らがそれを願ってようと、その役割分担は当人らで決めることだ。
だから「俺の靴下にはお前が気づけ」というような亭主関白(笑)を是とすることがあったっていい。
あったっていいが、スピーチをする人らがそれを推奨することに根拠はない。
事前にそうすると夫婦に聞いているなら別だけど。
こういうのって、無邪気なのが怖い。「え、当たり前でしょ?」みたいな。当たり前が当たり前であるためには多大なコストがどこかにかかってるんですよ!

なんで男はいつまでも「世話」や「指導」や「面倒」をしてもらう立場ということになっているのだろう?
男らがお酒を飲んでわーっとなっている光景も、親戚のおばさま達は「あらあら、しょうがないわね」と、許さなくちゃならないこととして見守っていた。
バカなことはやめなさい、なんておじさんらは当然言わないし、おばさんらも言えない。
祝いだ、乾杯だと一気飲みをすることを、なぜ誰も止めないのだろう。
「危険な飲み方はやめなさい」とこれまで「指導」してきたあの上司らはなぜ言わないのだろう。

おばさんたちは、新郎新婦の作ったプロフィールムービーの最後に「これからは二人で力を合わせてがんばります」と書いてあるのを見て、「地獄の世界へようこそ、やな」と顔を見合わせて笑っていた。既婚者のよく言う「結婚は人生の墓場」ってやつだと思う。
男には結婚のメリットがない、なんてネット上でよく見かける言説があるけど、そんなことはない。男にとって、結婚ほどメリットのあるものはない。
これまで自らが行なってきた低クオリティな家事ライフを、女に押し付け、質を求めることができる。
あるいは母親の代わりに自分のためだけの家事要員を確保できたとも言える。母親の寿命を考えれば、若い次の家事の担い手を確保しなければならないのである。
収入は二人分に増えたにもかかわらず(妻も働いているにもかかわらず)、男は家に帰ればご飯がある、とされる。
これはすごい特典じゃないだろうか。あり得ない。
それまでの自分の生活は変えなくていいのだ。
むしろ自分の生活を変えなきゃいけない要素が出てきてもその負担をすべて女に押し付けられる。
たとえば育児。妊娠、出産から女の仕事であり、育てるのも女がやること、男は休日の趣味に「子どもと遊ぶ」が加わるだけ。
さらに介護。男の両親は妻が世話するもの、俺は仕事で手が放せないからお前代わりに面倒見てやってくれ、俺の仕事がなくなったら、介護どころかお前の飯もないんやぞ、って具合である。見事なコンボ。
だって、先輩や上司、取引先に誘われたら、仕事の付き合いなんだから、飲みに行かなくちゃならないんだよ。女の子のいる店だって、付き合いだから、ごめんね。いやー、全然楽しくないよ、だって仕事だもん。あー、大変だ。土日も朝早くからゴルフ行かなきゃなんないし。ってな言い訳が窓から明かりの漏れる11時過ぎの家々から聞こえてくる。
子どもができようが、親が倒れようが、仕事を中心にした生活を変わらず続ける。
男社会からはみ出ないことが「妻を守る」ことだからだ。
既婚者であること、子供を持つこと(父親であること)は男社会において、必要なものを所有している一人前であることを示すから、年齢を重ねて独身で居続けると「性格に難がある」「扱いにくいやつ」、あるいは「遊んでばかりいる」「ふらふら、ちゃらちゃらしている」ということになる。
結婚した上で、家庭をかえりみずに仕事をすることが男社会における忠誠そのものを表しているのだ。
男にとって結婚ほどメリットのあるものはない。

はっきり言って、損しかしない女の人の気持ちはどのようなものなのか、考えるほどにわからなくなってきた。
こういう時参考になるのは西野カナだ。

テレビ付けっ放しで寝るわ、靴下は裏返しだわ、忘れ物したと言ったらため息つくわ、聞く限りそれが日常的に行われているようで、この男はクズである。ほとんどDVではないだろうか。
特に後半の歌詞は怪しい。
いつか聞いたあなたの好きな女優さんとは似ても似つかないのに私
この自己評価の低さ、彼氏に「お前はブスだから、俺くらいしか付き合ってもらえない」とか言われている可能性が高い。
あるいは、幼少期から親などに「あんたはブスだから、愛想良くしなさい」とか言われてきた可能性がある。
どちらのケースにせよ、彼女はDVを受けている、モラルハラスメントの被害者ではないかと心配である。
彼女を縛る言葉があり、彼女はクズな男と分かっていながら、自己評価の低さゆえにそこにすがるしかなく、もはやそのクズさを可愛らしいと認識することで今を乗り切っているのだ。
その自己評価につけこんで男は彼女を便利に扱い、自分の足を引っ張ればため息をつく。
全く思いやりのかけらも感じられない。
危険である。
家事要員としてこき使われること、というかすでにこき使われており、彼女はこいつと結婚するメリット、いや付き合うメリットがないのである。
病気や怪我で家事をできなくなったら、迷いなく捨てられるだろうし、何か手に職をつけようと自立を目指しても、自分が「守る」側でいたい男(世話してもらいたい男)にとって自立は許されないので、「お前にそんなことはできない」と貶められたりすることが想像できる。
自己評価の低い彼女はそれに洗脳されて、ますます彼の世話をせざるを得なくなる。最悪だ。
その上、私って変わり者なのかしら、などと自分を納得させており、このクソみたいな状況は自分が招いたことだとしており、手遅れかもしれん。
実際の西野カナはぐいぐい稼いでて、全国ツアーでめちゃくちゃ忙しいのだけども。
つまり、この歌の本当に悪いとこは、男が聴いた時に「ここまで俺は悪くない」と思うようなほどにひどいことで、現実にはそれに近いひどさをしている可能性をうやむやにしてしまうところだと思う。

父親、母親世代で続いている夫婦というのは、たまたま両人ともに健康で、たまたま両人ともに不都合なく(そこには片方の我慢や諦めによって支えられたものもある)30年、40年過ごせただけなのである。たまたまの連続なのだ。奇跡である。
もしどこかで病気や怪我、リストラといった家庭内不和の要因があれば、どう瓦解していたか、分からないのである。
特に父親、母親世代においては、父親の給料は右肩上がり、女が仕事をすることが難しかったこともあって、病気や怪我がないのであれば、専業主婦に収まっておく方が、何よりも無難だったと思われる。
夫に災難が起きないように願う毎日、と思うと、辛すぎる。あるいは自分が家事ができなくなるような大怪我や病気にかからないことを願う毎日。
ひとたびどちらかに災難が起きてしまえば、もう対処できない、家庭を支えられないのである。
ただ願う。こんな不安な日々を僕は知らない。

あれ、何の話だっけ。
そうそう、披露宴が怖かった、じゃあどうしたいのかって話だ。
結婚とか披露宴とかの意味を問い直したくてこんなにごちゃごちゃ書いてしまった。
いろんなものを読んだり、こうやって書いたり、そうしているうちに「なりたくないもの」ははっきり見えるけれど、「なりたいもの」がどんなものかは誰も示してくれない。
なぜなら、なりたいものは自分の中にしかないからだ。
なりたいものを提示してくれるような文章や考え方は、はっきり言って嘘やごまかし、現実逃避でしかない。
「NO」と「NO」の間にかろうじてあるスペースに理想がある。
たくさんの「NO」を知ること、そして残されたスペースは何なのか、考えること。

(追記)

この内容を書いてから、また別の披露宴に出席した(25〜6歳は第一次結婚ラッシュである)。
大変和やかな会で、お酒を煽るようなことはなかった。前の会より始まる時間が早かったからかもしれない。あるいは会社関係の結構偉い人が多かったのがブレーキになっててよかったのかもしれない。
ちょっと心の平衡が保たれた。「〜の家にお嫁に行く」的な発言とか看過できないものはあったけど、それもまたその人の価値観の表れで、僕は違うがその人やその人の周りはそうなのであろうと思う。それは否定できることじゃない。
いろんな事情、やり方、価値観、表現がある。それが最適、最善と思って人は選ぶ。
結果がどうなるかはいつも賭けなのかもしれない。
幸せがありますように。