Nu blog

いつも考えていること

二つとない現在という私

Twitterで恋愛工学、っていうワードが頻出していて、調べたら、どうやってナンパを成功させるかってののいろんな手法をまとめてるようで、いろんな用語があって、面白いと話題になっていて、それについてはこのブログを見てもらいたい。

用語の詳細はわかるようなわからないようなものばかりで、そのメルマガを読む仲間内だけで伝わるように秘密にしているみたいで、調べても具体的なところはあんまりわからない。
別に詳しく知らなくても支障ないので構わないのだけど、小学生の頃に「Aパターンな」とかって、集合場所を暗号みたいにして話してたことを思い出した。
それを聞いた仲間じゃない子が「何それ?」とかって興味を持って、「教えませーん」で喧嘩になって、尾行されたりして「巻こうぜ」とかって走ったり逃げたりして、みたいな。
何に必死になってたのだろう。暇だったんだなあ。
たぶんこの恋愛工学の人らも暇すぎるのだと思う。そりゃ僕も暇ですが、今は相撲観戦で忙しい。人生という暇つぶしで何をやるかは自由です。

で、その用語の一つに「セックストリガー理論」てのがあるみたいで、ううむどういう意味なんじゃと他の用語よりも気になったのでわざわざ調べたら、「女性は、好きだからセックスするパターンよりもセックスしたから好きになるパターンの方が多い」という理論みたいだ。
セックスしちゃったことを「勢いでやっちゃったこと」としないためにも、「好きな人とセックスをした」記憶にすることで、自我を保とうとしてるんじゃないかと思う。

セックスから恋が始まる、というようなことなら「恋は底ぢから」という中島らもの素敵な本がある。
ずばり「セックスから始まる恋」と題したエッセイで、お見合いしてから「お人柄にひかれて」結婚して、いきなりセックスするよりも、その対極の、セックスをしている時の無防備な男を見てそれを可愛いと思う、そこから恋が始まる方が真っ当な気がする、とらもさんは言う。
あるいは関西弁に「どれ合い」と言って、「なるようになっちゃった男と女が、別れるのもナンなので一緒になってる」ことを示す言葉らしいのだが、そんなこんなで飲んだ勢いで女の子とそうなって、朝目を覚ました時に女の子がコーンポタージュを作っていたら、恋の始まる予感がする、ばったりと恋にであってしまったことに気づく(セックスが恋という缶詰のフタをあける…、なんて可愛い表現!)とも書いている。
中島らもが書くと、一瞬を永遠に引き延ばすような、いや、永遠を一瞬に詰め込むような、そんな力に、恋愛の崇高さに思いを馳せてしまう。
不思議なもんだ。

それにひきかえ、恋愛工学というのでは、そんな永遠や一瞬など微塵も感じさせない、ただ性欲をどう女にぶつけるか、という技術、つまり恋愛ではなくて、セックスしちゃった後も定期的にセックスできる関係に持ち込めるかの技術として考えているのだ。
中島らもは恋愛を点、生活を線として捉え、生活を恋愛の成れの果てと嘆いたが、この恋愛工学にはそんな「世界」すらもないようだ。
性欲=射精至上主義、男根主義の極致、自らの妄想する箱庭の中で精液のプールに溺れているようにしか見えない。本人はどうやら気持ち良いみたい。
でもこの技術、女性の罪悪感とか自己正当化、はっきり言えば傷つけることを利用してるだけなのだ。
えげつない。

それで思い出したのが、「問題のあるレストラン」の新田結実、二階堂ふみの役のことだ。
彼女は東大出で頭がいいけれど、仕事や恋愛ができないでいる。
そこに星野大智、菅田将暉の役がふわふわっと誘惑して、だらだらっと流れてセックスしちゃう。
はっきり言ってこの押し倒すシーンはレイプじゃないかと思った。
車の中でいい感じっちゃあいい感じで、でも菅田将暉がキスしようとしたら二階堂ふみが避ける。
そこから強引に車の椅子を倒してのしかかる菅田将暉。ええー!と思った。
でもCM明け、朝のシーンで二階堂ふみが「私も三代目のライブ行きたいな」と菅田将暉が好きな、これまで二階堂ふみがまったく好んでこなかったであろうアーティストについて興味を示すのである。んで、めっちゃ付き合ってる感じになってるのである。
しかし菅田将暉には彼女がいて…、ってなって、まあそれからごちゃっとした話になっている。
なんせこの朝チュンのシーン、怖かった。ああああー、怖い!怖いよ!ってなった。
で今、ああ、セックストリガー理論かーと思った。
セックスしたからそれをきっかけに二階堂ふみ菅田将暉を好きになった、のかしらん…。

恋愛工学というものの目的がセックスなことに違和感を覚えることは大前提として、そのメソッドは単純な「人とのコミュニケーション方法」みたいなもんじゃないかと思う。
なぜなら、営業の人向けの「絶対に売れる話法」みたいな本に書いてあることと構造はあまり変わらないからだ。
ああいう本も、そういう心理学とかを用いた話法が書いてあって、買わないと損をするように思わせたり、買わない選択肢を与えない質問、ダブルバインドを用いたり、ラポールの形成なんかもよく書かれてることだし、中身は同じ、目的が商品を売ることかセックスか、という違いしかない。

そういう営業の本には「お客さんはこの商品を買わないと損するのだと強く思うこと」が大抵まず書いてある。
その商品を全世界に広めることが社会の進歩に役立つ、くらいの気持ち。
そうでないと途中「お金がないから」とかいう断り文句に対応できない。一人残さず、金持ち貧乏人、老若男女関係なく、この商品を買うべきと思わなきゃならない。
そう強く思うことが営業の鉄則なのだ。
ほとんど宗教的な気がするが、実際そうでなきゃ売れないし、お客からしても買わないんだと思う。

恋愛工学も同じだ。セックス、いや射精への欲望を肯定的に書く。生物学的にどうとかこうとか、もったいつけて書いている。
僕はこの生物学の援用が大嫌いである。自分の理性をわざと失う行為に何の共感もできない。
恋愛工学にせよ営業にせよ、ものを売りつける、不特定多数の女性とセックスする、「罪悪感」を取り除くことから始まっている。
どうしてそんなことをするのか考えたくない人のためのメソッドなのだ。

人間は、セックスに持ち込めるかどうか、物を売りつけられるかどうか、というような観点だけから見ればとても単純で、心理学のやり方を使えばいろんな騙し方ができると思うが、しかし、そんな一面的な見方だけで測れるほど単純な存在ではない。
人間には過去から連綿と続く「二つとない」現在をそれぞれに持つ。
そのことにこそ、モノや本能で動く人形とは違う「生身の人間」があると僕は思う。
暇をつぶすなら、自分の精液に溺れる箱庭ゲームをやるより、自分という生身の人間を感じ、それから他人という偉大なる変数、世界という無限の場について考える方がいい、と僕は思う。