Nu blog

いつも考えていること

欲望の正体が知りたい

※ 性的な内容を含むため、不快に思われる方は読まないようにお願いします。内容は「ポルノについて」「性欲について」です。真面目に考えていますが、嫌なものは嫌だと思うので、判断して読んでください。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここのところアダルトビデオ的なものを、楽しみとして見なくなった。
的なもの、というのは、レンタルビデオ屋でレンタルしたことはそもそもなくて、ネットで見られるものしか見たことがないからだ。ましてや、買ったものが家にある、なんてことはない。
なにせ、つい近頃までは見ていた。これはまあ疑いようなく見ていた。人よりよく見てたかどうかは分からないけど、見てたことは見てた。それは事実なのでしょうがない。
しかし楽しくなくなった。
それを楽しむ自分が怖くなったのだ。
 
ポルノについて書こうと思う。
そもそも、ポルノと一口に言うと、各人、様々なイメージが喚起されることと思う。
僕はプレイボーイ的なものを連想して、ブロンドの外国人が髪の毛かきあげたポーズで、威嚇するかのように口を半開きにしている雑誌の表紙を思い浮かべる。
日本、海外を問わずヌードが載っている雑誌や漫画、あるいは冒頭に述べたようなビデオ、DVD、ネットで視聴する動画が頭に浮かぶ人もいれば、そういった画面の向こう側ではないもの、いわゆる風俗、主に男性を顧客とした異性による性的なサービスを提供する店を想像する人もいるかもしれない。売買春、援助交際といったものもそこに含まれるだろうか。うーん、キャバクラやガールズバーもポルノに入るだろうか。
その線引きを議論したいわけじゃないので、ひとまずポルノ、ここでは性産業と言い換えることができる、主に男性をターゲットとした性的なサービスがこの社会に多くあることを念頭に置くとしておきたい。
男性を狙いにしたそのような商品の多さには驚く。
駅やコンビニで売られている週刊誌の多くが、水着やヌード、性的な内容の記事を目玉にし、毎週毎号途切れることなく連載している。
日本中にあるコンビニでは、雑誌コーナーの隅に区切りを設けた上で、男性用のポルノ雑誌が数冊から数十冊置かれていることは珍しいことではない。いや、それどころか当たり前の光景である。(それを購入している人の姿を見かけたことはほとんどないかもしれないが、僕の住む共同住宅ではそれと思われる雑誌が、新聞や資源ごみのところに捨てられていることがある。また、コンビニ本と言われる分厚く、怪しげな本、漫画の総集編や芸能人のゴシップを書き連ねたであろうものもよく捨てられており、書籍を売るチャネルとしてのコンビニは実によく稼働していることをうかがわせる)
 
男性にとってこの社会は、ポルノ、「性的な=女性を鑑賞することを目的とした」商品やサービスが溢れている。
「エロ 動画」というような単語で検索すれば、そこには無料で視聴可能なアダルト動画がありまくる。
違法なものもあるだろうけど、ネット上で購入できるものもあるし、その購入前に試しに見ることもできる。
僕は買ったことがないけれど、AmazoniTunesに慣れた今、実に気軽な買い物だと思う。
 
とはいえ、かなり前から、女性のためのポルノがあることも書いておくべきだとは思う。
北原みのり氏によるラブピースクラブは、女性のためのセックスグッズを販売しているし、またアンアンのセックス特集で知ったことになるが、女性が見ることを目的としたアダルト動画も作られている。
また、その女性のためのアダルト動画に出演し、人気を博す男優もいる、らしい。
しかしながら、そこに男性ほどの「アクセスのしやすさ」はまだ、ないと思う。
(男女を問わずポルノにアクセスしやすくあるべきかは今回とは別の問題。少なくとも、男女において、ポルノへの距離が異なることを確認したい)
 
2014年は「キャバ嬢の社会学」や「AV女優の社会学」という2冊の本が上梓された。どちらも作者は女性だった。
どちらにおいても、ポルノ、性産業において「女性が与えられた役割にそって演技すること」が論じられていた、と僕は総括している。
感情労働としてのポルノ産業」とカッコでくくれば、性産業とマクドナルドにおけるスマイル0円とを等しく語る事ができるのである。
この発見が、女性による告発(前記二冊がそのような重い印象を与えないことは注釈しておきたい)によってなされたのである。
特に女性においては、「当然のことでしょ」と思った人もいるかもしれないが、少なくとも僕は、僕の認識の甘さを痛感したのである。
 
どのように認識が甘かったのか。
それを正直に言えば、つまり僕は、ネットで視聴できるようなポルノ動画に映し出されている女性のことを人間と認識していなかった、のである。
 
この部分をちゃんと伝えたいと思うので、説明を加えたい。
たとえば、テレビドラマに出てくる俳優、モデルを見て、憧れると同時に「あのようにはなれない」と思った経験があれば、その「あのように」の部分において、俳優やモデルを「人間でない」と感じているような感覚、である。
つまり、アイドルとしてその対象を扱えば、藤井フミヤが「僕はアイドルなのでうんこしません」と言ったようなことも(中島らもが何処かで書いてた記憶)、ギャグにならず、一つの逸話になるような感覚。
芸能人が歩いているのを見かけて、何の許可もなく写真を撮るような感覚。
つまり「芸能人だから」勝手に撮っていい、というのは人権をないものとしているからこそ思える理屈だ。
そういうような感じで、僕はポルノ動画に出ている女性を人間と認識していなかったのである。
彼女たちが何をされてても、何をしていても、「AV女優だから」問題のない存在として扱っていたのである。
 
何歳からか、人間が成長の過程で性的な関心を持つことは当然である。
しかしその関心を満たす方法、手段、内容がポルノであるならば、ポルノというメディアはその人の性的な関心に対してメッセージを発し、強い影響を与える。
そのメッセージの一つが「性欲は支配欲である」というものと思う。
芽生えたばかりの性的な関心に対し、ポルノはそうやって形を与えてしまう。
 
と言うと、欲望が先か、ポルノが先かを問われると思う。
そもそも性的な関心が芽生えたその時から、男性には「支配したい」という欲望があるから、そのようなポルノが出回るのではないか。
しかし、「欲しいと思うから、それがある」というのは、この消費社会においてまったくの間違いである。
たとえば、雑誌を読んでこの服が素敵だな、欲しいなと思うことがあると思う。その時、欲望が先か雑誌、服が先か、と問うと、雑誌が先だ。
そもそも雑誌を読む前のあなたは明確に「プラダの靴が欲しい」とは考えていない。
「かっこいい服を着たいな、可愛い服ないかな、生活を彩る服が見たいな」という漠然とした欲望を持っていたに過ぎないはずだ。
その漠然とした欲望に「プラダの靴」という形を与えたのは雑誌なのである。
雑誌でかっこいい、かわいい、素敵な服を見かけたことで「これが欲しい!」と思うようになる。それまではそんなブランド、そんな商品があることを知りもしなかったというのに。まさに雑誌によって欲望が形作られるのだ。
 
ポルノも同様に、漠然とした性的な関心が先にあり、それに対して性産業が形を与えている。
ポルノを見て性的な関心を満たした子らは、その性的な関心をポルノと同一化させてしまう。
自分の性的な関心とは女性の支配だったのだと思い込む。それ以外の性的な関心の満たす方法もない。
ポルノを見るまではそんなことを考えたこともなかったはずのに。
そして、ポルノがなければ性的な関心を満たすことができず、よりポルノを求めることになる。
 
しかし僕が問題にしたいのは、ポルノは悪であるというような二元論ではない。
それよりも、そもそも自分はどんな性欲を持っているのか、ということを考えたいのだ。
性的な関心を持ち始めたその頃から、女性を支配したいと欲していたかといえばそんなわけはない、というのはさっき考えた。
性的な関心、ポルノによって形作られる前の漠然とした欲望はどんなものだったのか。
好きな子のことを考えた時に感じるこのモヤモヤはなんなのかとか、キスをしてみたいとか、裸で抱き合ってみたいとか、そんなことであったと思う。
 
ポルノが形作った欲望、メッセージの内容は「欲望=支配」というものだと述べた。
ポルノは、僕がそう思っていたように出演する女性の実在性、明瞭に言えば人権を考慮しない。
どのようなポルノもすべて「女性の支配」を基調に作られている。
街行く女性をナンパし、ホテルに連れ込むもの、いわゆるAV女優がコスプレをしたり、あるシチュエーションのもと演技をするもの、どういった形であれ、男性器によって女性を支配する構図に変わりはない。
ポルノに出てくる女性は男性(男性器)による支配を受け入れることしかしない。
こう捉え始めた時、冒頭に戻って、僕はポルノを楽しめなくなったのである。
いわば、雑誌を見て服が欲しくなって買い物依存症になってしまって、その買い物の意味のなさにハッと気づいたような感じ。そんな時、家の中にあふれる服や靴をどう眺めたら良いのだろう。
 
ポルノは男性器による女性の支配を描き出す、と書いた。
男性による、ではなく男性器なのだ。
ポルノは男性をほとんど映さない。
映すのは接続されたその部分ばかりだ。
そして、必ず最後には射精する。それが行為の終わりであることを示している。
結合と射精という「様式」はきっと、世界中のセックスを支配しているに違いない。この世の中にそれ以外のセックスはないとポルノは言う。
しかし、たとえば山崎ナオコーラは「長い終わりが始まる」という名著においてその違和感を書いている。
 
男の生理感覚に偏って成立しているセックス文化は、おかしい。射精でなんか、セックスは終わらない。
 
欲望の終着点に射精を据え置くなんてバカらしい。それはポルノが決めた気持ちよさでしかない。
しかし、ポルノしが見たことのない僕にとって、射精以外の性的な欲望の終着点が見当たらないことも確かなわけだ。

ここで僕の問題意識である「ポルノによって形作られる前の漠然とした欲望はどんなものだったのか」に戻れば、自分の身体が、精神が何を欲望しているのかをポルノに任せてはいけない。
ポルノは支配や射精という形式しか与えてくれないのだ。
スポーツで発散すべきとか、知的な快感があるに違いないとか、そんな話ではない。
ポルノに触れる前の性欲を見つけなければならない。
それは支配ではなく、射精ではないはずだ。
 
国分功一郎氏の「暇と退屈の倫理学」というこれまた名著がある。
そこで「食べ物の情報」というような箇所がある。
ファストフードはなぜ早く食べられるか、というとファストフードは情報量が少ないからだ、と国分氏は書く。
ファストフードをたとえどれだけゆっくり食べても、内包される情報量は変わらないので、味わうことができない。
反対に、吟味された食材、磨かれた技術で調理された料理には情報量が多く、味わわなければ食べられない。
しかしたとえそういった情報量の多い料理であっても、受け手の知識が未熟であればそれは味わえないこともある。
楽しむためには訓練が必要だと国分氏は書いているのである。
 
ポルノにおいても、いや性欲においても同様のことが言えると思う。
ポルノはファストフードだ。性的な関心を単純化し、簡単な欲望へと形作った。
射精による虚脱感は、体内からタンパク質を放出したことによる疲労ではなく、形式化された欲望を簡単に消費したことによる「強調された退屈」のようにも思える。
そして、誤解を恐れずに言えば、生身の人間にこそたくさんの情報量が詰まっている。
にもかかわらず、ポルノによって鋳型にはめられた性欲は、その情報を受け取ることができないのだ。
ファストフードしか食べていない人にとって、手間暇かけた料理であってもファストフードのようにしか消費できないのである。
ポルノに飼い慣らされてしまうと、性欲を楽しむための訓練がなされていないから、豊かな、あまりある情報量の生身の人間を前にしても、それを支配や射精によってしか咀嚼することができないのだ。
 
そして僕も、これまでポルノでしか性的な知識を得ておらず(学校の性教育は男子校ということもあり、かなり杜撰だったし、学校で必要最低限の食事の勉強しかしないように性的な勉強も必要最低限でしかないものだと思う)、実際の女性が持つ情報量を、受けるだけの訓練が全く足りていないのだ。
それは性的な関心ばかりでなく、また女性と限定するものでなく、広く人間に対する、身体的かつ心理的な知識が不足していて、人間を理解するための訓練が欠けているのだと思う。
 
僕はここのところ、自分が10代で何を学んだのか、ということにとても嫌気が差している。
それは二次方程式の解の公式に意味がないと言いたいのではなくて、むしろ、そうやって提示された知識だけを知っていればいいというスタンスしか得られなかった自分への反省を思ってのことだ。
知識を深めようとしたり、根本に返って見つめ直そうとしたりする努力に欠けていた。その結果が、他者への無関心、自らへの無反省さ、そしてこの知識不足なんだと思う。
人間という、とてつもない情報量の塊を前に思考停止してしまうのだ。そして、単純化し(男だ、女だ、味方だ、敵だ、優秀だ、バカだ、使える、使えない…)、ファストフードのようにしか人間を味わえていなかった。
人間は豊穣で、理解できないほどの情報量を持つ存在だというのに、その多過ぎる情報量を前に理解することそのものを諦めていた。
 
ポルノがその全ての元凶だと言いたいわけではなくて、その象徴にポルノがある。
性産業の背後には貧困や差別の問題が根深く横たわっている。そんな話を聞くと男性は「勃たない」「興奮できない」「射精できない」と文句を言うだろう。そういうことはなかったことにして、「エッチが好きなのでAVに出てみました」とか「若くて綺麗な体のうちに撮られたかった」というような演技を求める。
勃たなくていいし、興奮できなくていい。射精なんかできなくていい。そんなものは、作られた欲望でしかない。
僕は僕の性欲をきちんと知りたいと思うのだ。
 
僕は何を感じているのだろう。
どんな性欲を、欲望を持った人間なのだろう。
そうやって自分の欲望を知ろうと試みる先に、豊穣で、あまりある情報量の塊である人間を味わおうとする生き方そのものがあるように思える。
幻想の欲望を脱いで、僕はそれを知りたい。
 
 
参考
 
 
追記
 
ここまで書いといてあれだけれど、暗黙の前提にしていること、つまり男性は本当にそんなにポルノに触れているのか、自慰をしているのかという疑問はある。
しかしながら、たとえば休日に何をしてたか尋ねられた人が「オナニーして寝て、起きてもう一回オナニーしてたら一日終わりました」と答えても、男性間ではそれに対してドン引きすることはなく「中学生か」とか「暇すぎやろ」という反応をする。AV女優の話もごく自然にする。このことから、まあ男性の間では自慰をすること、その補助にポルノを用いることはやはり一般的なのだと、あまり友達のいない僕ですが、推察している。