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いつも考えていること

「今の次」の話

1.「今の次」について

今更ながら水野和夫の「資本主義の終焉と歴史の危機」を読んだ。

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

 

水野氏は資本主義は無限の増殖を前提としており、地理的空間(地球全土)はおろか電子・金融空間(インターネット)をも征服した資本主義はもはやフロンティアを失ったため、終わりを迎えざるを得ないと論じている。無限の増殖=成長をやめ、「脱成長という成長」を目指すべきと説いている。

金利であるということ、つまりゼロ金利に近づくということは、次のように解釈できるはずです。もともと利子は、神に帰属していた「時間」を人間が所有することを意味していました。その結果、たどり着くゼロ金利というのは、先進国一二億人が神になることを意味します。これは、時間に縛られる必要から解放されたということ、「タイム・イズ・マネー」の時代が終焉を迎えるということです。

同様に「知」についても、中世までは神の独占物でした。(略)

資本主義とは、神の所有物を人間のものにしていくプロセスであり、それが今ようやく完成しつつあるというふうに解釈できるわけです。(p.129-130)

ちょっと跳ねた部分を引用してしまったかもしれない。

「より速く、より遠く、より合理的に」から「より遅く、より近く、より曖昧に」という転換による新しい世界の模索、という指摘は、いつだってみんなが感じてきたことだと思う。

 

この本を読んだきっかけは年始に放送されたNHKの「ニッポンのジレンマ」で取り上げられていたからで、その前から気になってはいつつもどーでもいいかと思っていたのだけど、まあ読んでみるかと思ったのだ。


NHK 新世代が解く!ニッポンのジレンマ

 

同時に取り上げられていたピケティの「21世紀の資本」を読む元気はない。読もうと思ったけど、そもそも高いし、分厚すぎる。6000円もするの、無理。ううむ。

21世紀の資本

21世紀の資本

 

ピケティ氏の本は要約すれば「資本主義には格差を拡大するメカニズムが組み込まれているため、世界的な課税を考えるべきである」ということかと思う(Wikipediaや書評やこの間Eテレでやっていた「パリ白熱教室」からの知識。こういう要約の仕方は良くないけど、まあ、いいや)。

 

21世紀の資本 - Wikipedia

 


NHK パリ白熱教室

 

で、まあ「ニッポンのジレンマ」という番組ではこれらをとっかかりに議論がされていた。 

番組内においては様々な議論がなされ、特に国際政治学者の三浦瑠麗氏の「切り離し」「後追い」戦略、あるいは保守がのむロジックといった提言は目からうろこだった。


「ニッポンの大転換2015」番組収録後インタビュー:三浦瑠麗 | 語った | ジレンマ+

 

全体には、コミュニケーションって大事だよねーみたいな結論になっているように見えたけれど、たくさんの論点が見られて楽しいものだった。

 

途中、話題として本田由紀氏の「教育」「仕事」「家庭」の戦後日本型循環モデルが取り上げられていた(なぜかBGMがクラフトワークの「Pocket Calculator」で気になった)。

・家庭→教育(教育費、教育意欲)

・教育→仕事(新規労働力)

・仕事→家庭(賃金)

というトライアングルのことを指していて、これが崩れていることを指摘していると言う話。

ここでいう「家庭」は「母」のことであり、「教育」は「子ども」、「仕事」は「父」を示す、硬直的な関係性のことを示している。

で、対応として双方向的なモデルを作ることを提言している。

・家庭→教育(開かれた学校)

・教育→仕事(教育の職業的意義、リカレント教育

・仕事→家庭(ワークライフバランス男女共同参画

こうなると、家庭も仕事も教育が、母や父、子といった関係に縛られることがなく、また相互に影響、自立しあうことで新たなバランスを取ることができる、というわけだろうと僕は理解した。

(↓検索したら出てきた分かりやすいpdf)

http://www.p.u-tokyo.ac.jp/~c-kodoka/symp100911/symp20100911%20s3%20honda.pdf

 

Amazon.co.jp: もじれる社会: 戦後日本型循環モデルを超えて (ちくま新書): 本田 由紀: 本

 

水野氏の「資本主義の終焉」とピケティ氏の「21世紀の資本」、それからNHKの「ニッポンのジレンマ」が示していることは、(これまでもずっと言われてきたことかもしれないけれど)「今の次」に行きたい、という議論なのだと思う。

僕が大学にいた2008年頃だって、そういう話はされていたから、激動の1980~1990年代を越し、2000年代に入ってからずっとそういう「今の次」の話がされているとも思う。

結果として何も変わらないでもう15年。あるいは変わりかけては失望した15年間か、総括は人によると思うが、15年が経った。

様々な「変化の芽」が提示されては、結局流行りものが好きな人たちに消費されて消えていったと思う(あるいは細々と残っているのだろうか)。

本当にいろんな「変化の芽」があったんだと思う。僕がぱっと思いつく「芽」は以下だ。

・2005年以降、松本哉の「素人の乱」の活動


素人の乱-ネットラジオ&高円寺のリサイクルショップ・古着屋・飲み屋

・2007年 外山恒一の都知事選、政見放送


東京都知事候補 外山恒一 政権放送 - YouTube

・地方移住の表面化(これまでもあったのだろうからいつからとかがなんともいえないけれど、実際は2007年以降ひこにゃんを火付け役とするゆるキャラブームみたいなのがそうした「地方」に焦点を当てだした時期のような気がする)

ex.以下の書籍

ヒップな生活革命 ideaink 〈アイデアインク〉

ヒップな生活革命 ideaink 〈アイデアインク〉

 

 

いま、地方で生きるということ

いま、地方で生きるということ

 

 

他にもノマドクラウドファンディングみたいなのも、「芽」だったかもしれない(あんまり興味がない)。

 

それらがどういうもので、どうだったのか、評価を下す気はなくて、そういうおもしろいものがあったという記憶を書いただけです。

なににせよ「次」とはなにかが様々に表れては立ち消えた、あるいは限定的なものにとどまったことは疑いのないことで、結局「景気回復」みたいなぼやっとした、なんとなく良さげなことに人は惹かれるのである。

 

大学生の時、大学の先生に「素人の乱」という活動について教えてもらって、僕がその意義について測りかねていると「あるべきユートピアを先取りして社会を変える」ということだと説明されて、「かっこいいなあ」と腑に落ちたことがある。

そういえば坂口恭平さんとかもそういう人だ。今の国家に不満があるなら、自分で理想の国家を作ればいい、という発想。

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

 

 

こういった「芽」の本質的な意義はそこ=「理想の先取り」にあると思う。

言葉でなんやかんや言っても伝わらないので、実践して納得してもらおうというスタンス。小さな場で実験して成功すれば徐々に規模を拡大すればいいじゃないかというやり方は合理的だし、分かりやすい。

 

で、まあ僕もそういうことがしてみたいけど、なんともできないまま、サラリーマンをぼんやり続けているわけで、大多数の人がそうなんだろうという状態にそうあるのである。

 

でもまあ、僕が考えるユートピア=アナルコ・キャピタリズム(自由な社会)について整理して、長々としたこの話を終えたいと思う。

 2.僕の考えるユートピア

掲げる旗は「自由」だ。自由をもっとも重要とした世界を以下の点に因数分解した社会を僕はユートピアとして考えている。

① 「万人の万人に対する尊重」という自然状態

自由を他の言葉に置き換えると「個人の意志が阻害されないこと」となると思う(意志が達成されるかどうかは別である)。

「私(個人)」が「~~をしたい」と考え、行動することを別の「私(個人)」が阻害することは許されない、ということだ。

こういうことを言うと「人を傷つけたい」というような(殺人や強盗、暴力といった現在における犯罪行為)を正当化するのか、みたいなことを言われるけど、そういうことを言い出す人はそういうことをしたい人なのかと困惑してしまう。

そういった行為は結果として他の「私(個人)」の意志を阻害する行為なわけだから、ありえない。そういった阻害する行為をも良しとするところに自分の意志が尊重されることはあり得ない。

不思議なことなんだけれど、僕らはすぐにホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」という自然状態を想起してしまう。

僕からすれば、近代を越した「今」の人間がいまだそうした自然状態を想起することに恐怖を感じる。

もはや「今の次」においては「万人の万人に対する尊重」こそが「自然状態」であると規定するべきである。放っておいたら治安が悪くなる、という考え方を止めるべきだ。

そもそも放っておいたら治安が悪くなるので、警察や軍隊に暴力行為を許可する、という発想は野蛮すぎやしないか。

さらに加えて言えば、警察や軍隊に属し暴力行為を許可される人間は最も自由に参加できていない、「意志を阻害」されている状態にいると言える。

暴力行為は最も他の「私(個人)」の意志を阻害する行為であり、それをせよと命令されることはたとえどのような大義名分があってもおかしな行為であり、それをする必要のある警察や軍隊といった組織及び属する人は、それをさせられる(本来暴力が必要なければそんなことをせず、平和に生きることができたはずなのに戦いに組み込まれる)状態にいるのであるから、おかしい。

 

② 平等

これはピケティ氏の議論なんかにも通ずるのかもしれないが、資本が資本を産みやすく、資本は相続することができることから、金持ちの子どもは金持ちになりやすい。

また、本田由紀氏の戦後日本型循環モデルの崩壊は、非正規雇用(この言葉、僕は好きではなくて他の言い方はないのだろうか)の増加等により、家庭に還元される「賃金」が減り、教育にかけられるお金が減り家庭間の教育格差、ひいてはそれが新たな賃金格差へつながっていることから起きている。

お金の問題だけでなく、性別や国籍といった本人が選べないことによる不平等も多くある。

つまり、スタートラインが平等でないことを言いたい。

スタートラインが真に平等であれば、結果もまた平等にその通りになる。つまり、どのような切り口から見ても結果は実力によってその通りになる。

具体的には相続の廃止や子どもを社会的に育てることが考えられる。

この「社会的に育てる」とは決して国家による学校運営ではない。個人が個人を尊重するためのコンセンサスを得た上で、各人あるいは各企業が相応の負担による教育機関だ。たとえ教科書一冊だって親に買わせてはならない。生まれてきた人間が自分たち同様に「自由」を重要とする「人間」であることは教えないとそれこそ不平等なのだから、これはそれが重要だと認識されれば当然そうなるものと思う。

 

③ 自由を広める、つなぐ

アナルコ・キャピタリズムは日本語にすると「無政府資本主義」というわけで、国家を否定しつつ、資本主義でやっていこう、ということになる。

上述二点から分かる通り、国家は個人の意志を阻害するものであるからあってはならないものなのだ(暴力装置の独占が国家というものの存在意義だ)。

また、資本主義を是とすると、再分配政策とかいうような修正資本主義はまったく必要ない。

無政府資本主義においては、前提として上述二点のような合意を得ているわけだから、再分配政策云々を議論しなければならない今と違って、それぞれが必要な状態としてそうなるのだ。

この自由を前提に置くことはなにかの宗教を阻害することもないと思う。その結果の争いなどもあり得ない。

自由を達成することで自由を広げ、自由をつなぐことが当然となる、なんて理想。

 

終わり。