2015年になりました。
電話口で「おめでとうございます」って言ってる人がいて、なんだなんだと思ったら、年が明けたことをめでたがっているのだと気づいて、面映ゆい気持ちになってしまった。
2015年かあ。
5の倍数ってキリが良さげに見えて、カクカクっとしていて、ちょっととっつきにくいから、2011や2013の割り切れなさそうな感じが好きだったなあ。でも、まあ、このカクカクした感じは嫌いじゃない。2015、ニーマルイチゴー、うん、わりかし口に馴染む。
2015年になりまして。
僕は今年で26歳になります。新卒で働き始めて3年の月日が経ち、4年目を迎えようとします。
早かったとも長かったとも、何かを得たとも失ったとも、言えるし言えない3年でした。
ふと気がつくと3年で辞める若者、にはならなさそうな感じ。
周りもそんな感じで、本当にごく僅かな人だけが転職なりなんなりで辞めた。
自分がそちら側ではないことに、意外さや諦めや覇気のなさを感じるのである。
26歳の今、一つの漠たる不安がある。
それは
「このまま働き続けるのか」
という不安。
「今の会社で60歳、70歳で定年を迎えるまで働き続ける」とは別の話。
根本的に「生きるには働かなあかんの?」という話。
会社に入って、日々満員電車に乗り、資料を作ったりし出すまで、働いてる感覚はなかった(22歳まで学生という職業で、勉強という仕事をしてたじゃないか、と言われても、僕は意識の低い人間なのでそんなもの知らない)。
一人暮らしを始めて、家事をし出すまで生活の実感はなかった(情けない話、本当に家事の一切を親に任せていた)。
そしてその働く感覚、生活の実感、つまり忙しない日々が生きている毎日だと思うようになった。
これからもそうやって生きていく感覚。
そんな感覚を得たこの3年を振り返ると、言い知れぬ不安が募る。
まさかこのまま俺は働き続け、死ぬのだろうか。
答えは「はい、そうです」、なのだけれど。
そりゃそうだ。
死ぬまで働く。
何をするかは変わるかもしれないけれど、何かを作ったり、整理したり、提供したり、あくせく動く。
家では食事を作り、掃除や洗濯をして、子育てをする日も来るかもしれない。
お金がもらえる、もらえない、なんてことを別にして、何かをし続ける。
この「し続ける」感覚が怖い。
し続けられなくなったら、それは病気や怪我といった事態に陥っているわけだから、そうなることは十分に想定されるといえ、望むものではない。
このまま、恵まれた今なら、僕はことを「し続ける」のである。
振り返れば何もしてない日だってある。土日に、アイス食べて寝ただけの日がないなんて言えない。
この年末年始、お餅食べて、お詣り行って後は寝てただけの日もあった。
友だちと、日長おしゃべりした1日がないなんて言えない。
でも、もうその手ざわりが、学生の頃と変わったところがあって、頭の片隅で
「洗濯物取り込まなあかん」
とか
「明日から仕事やからはよ遅くまで起きとったらあかん」
とか
「あのニンジンいつ買ったんやっけ?」
とか
「あのセーター、もう長いこと着てないから捨てよかな」
なんてことを、その時は思ってなくても、一度生活に戻れば考えるからだ。
たとえどれだけ遊びに没頭しようと、仕事で怒られようと、友だちとケンカしようと、頭の片隅で僕は生活を、仕事を考えてしまうようになってしまった。
まあ、不真面目なので仕事のことなんてほとんど考えちゃないけれど、生活のことは考える。
その考えちゃってる毎日が
「働き続ける」
感覚なのです。
そしてそれがとても怖い。
みんながそれを怖がっているかは分からない。
そんなことを怖がっている暇があれば、動いて何か一つでも物事を成せ、と叱咤されればそれもそうだ。
でも、し続けることって、そんな普通のことなのかしらん。
旧約聖書の創世記で、蛇にそそのかされてイブとアダムは知恵の実を食べちゃうわけですけど、めちゃ怒った神はこう言うわけです。
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」
3章17-19節
そうかー。知恵の実食べたから、僕らは食べ物を得るためにあくせく働かなあかんのかー。
そんなわけない。なんで聖書の言うことを真に受けなあかんのか。
反対である。
あくせく働くことに、今の僕と同じように不安を抱いた人間が、「神に怒られたから」という理由をつけて、納得しようとしたに違いない。
頭の良い人だと思う。
不安があれば、まずそれが何かを明確にし、原因を潰しましょう、なんてそこらへんの自己啓発本に腐る程書いてそうなことをこうも自然に解決したのだから、大した手腕である。
しかし、残念ながら僕は納得しないのである。
つまるところ神は額に汗せずともご飯の心配がないことがこのことから分かる。
人は何を律儀に何千年も神に怒られたことに縛られ労働し、ご飯を得ようとするのか。
もっと突き詰めて言えば、労働は罰である。
だって神はそんなことしないのだから。
そこのところを理解せず、「働かないとご飯が食べられない」とか「働くことで自己実現」などと言う人がいるから、みんな巻き添え食って働かないといけないのだ。
せーので働かなくていい社会に合意し、「やりたいことをやる」社会を作れればいいのに。
やりたいことをやる、の中に「飢えた人がいないよう農業をやる」ことや「治安を守るために警察になる」ことや「人を楽しませるために音楽を作る」ことがあれば(あるだろう)、よい。
前提に「働かないと飢える」ことがあるから、職業に対して本来の意義を離れた理由、不純物が混じり、結果歪んだ現状になる、というのが僕の見立て。
個人的に、僕が働きたくない、っていうんじゃない。
生活のあれやこれやは面倒だけど、楽しいものだ。仕事は大して楽しくはないけど、お金がもらえて、趣味や娯楽に投資ができる。
しかし、そのそもそも働かないとあかん、というのがちゃうんちゃう?ということを考えてる。
こんな風な毎日が、本当に普通の毎日なのかな。
全然違う毎日を過ごしてる誰かと、少しの間でもいいから変わってみたい。
あるいは未来、「え、そんなひどい生き方してたの!?」と現代のことを教科書か何かで知って笑われることがあるだろうけど、そんな未来に行ってみたい。
ああ(詠嘆)。こう、のんべんだらりと生きて、死んだ時何を思うのだろうと思うと、果てしない絶望みたいなものを感じる。まあ、これは改めて感じるまでもなく、いつだって薄く引き延ばされて人間の近くにある絶望なわけだけど。
それでも、何を目的に生きているのか、なんてこと、結構考える。
こんな適度な不安を感じるくらいが幸せなのかしらん。
2015年も、働き続ける、みんな。