1.年末の家庭運営について
12月も1週間経って、去年の年末はもうちょっとせわしなかった気がするけれど、今年は存外暇で、先週も今週も掃除をしたり、年賀状を作ったり、なんだか暇である。
どちらもしなくちゃならんことだから暇なのでやったわけではないけれど、暇じゃないとやらなかったわけだから、何とも言えない。
一人暮らしっていうのは基本的に気楽なもので、自分の分を自分の分だけやればいいから、自分が納得しないところは力を入れればいいけれど、どうでもいいことはうっちゃっておけばいい。
家族という単位はそういうなんやかんやを分担して、家族全員がよしとするよう協力して運営を行うわけだけれど、今思えばそんな難しいことは結局誰かに負担をかけると言うか母親に負担がかかっていることが多いのが現在と思う。
それに子どもは高校生や大学生になっても、いやなればなるほどに何も手伝わないケースもあるだろうし、反対に子どもに負担を負わして成り立っている家もあるかもしれない。
職場の既婚者の先輩と話してると、たとえば年賀状のあれやこれやは奥さんがやるそうで、まあ自分でやる気なんてさらさらないようでした。プリンタのインクを買いに行くくらいはするそうです。
忘年会とかで「昔はもっと飲み会があった」とか「昔はみんなもっと遊んでいた」とかいう世迷い言を聞くのはすっかり飽きたし、「会社に住んでいるような人がいた」とか「1週間に1回だけ家に帰って、洗濯物を取り替えてすぐ会社に戻った」とか、それって笑い話になりませんよ、というようなことももう飽きた。会社と一緒に遊びまわっていたことを自慢する感じって何なんだろう。家庭運営に関わってなかったこととの裏返しとも思うけれど、それすらも自慢と言うか、なんだかわけがわからん。
ま、いいや、どうでも。
とにかく、暮らしを成り立たせるのってとても難しい。
一人暮らしと夫婦、子ども、親、複数の存在がかかわるのとでは全然違う。
暮らし方って誰も教えてくれなくて、自分で作っていくしかないし、といって社会も関係してくるし、とっても難しい。
どうやったらいいんだろうかなあ。
2.はっきりすることしないこと
12月5日の朝日新聞を読んでたら、朝刊と夕刊で同じことを別から言っていて面白いなあと思った。
(人生の贈りもの)精神科医・作詞家、きたやまおさむ:5 「どっちつかず」生き方のヒントに:朝日新聞デジタル
フランスでは議会で「ウイ(賛成)」と「ノン(反対)」とは別に「棄権」があるらしい。
そのこととはまったく関係なく、ミュージシャンであり精神科医であるきたやまおさむが「中立」あるいは「どっちつかず」ということを言っていた。
お母さんが子どもと同じものを見つめる。それには、時間的にも心理的にも一貫性が必要だが、今は母親も父親もそのためのゆとりを失っている。そういう意味では、僕が考える「和」は崩壊に向かっているけれど、新しい生き方を模索するしかない。僕は、父と母の役割が重ね合わされた「どっちつかず」、つまり「中立」が、この先の一貫した生き方のヒントになると考えている。さらに、この中立は世界における日本の政治的な立場にも重なるんだ。
どっちつかず、この未決定の中立は、敗戦を経た日本の大きな遺産だと思う。憲法9条や集団的自衛権の議論があるが、自衛隊は戦地に赴くのか、赴かないのか、どっちだと世界に決断を迫られた時、どちらでもない、という立場を堅持するのって大事なんだ。僕の予感だけど、世界でもこの「どっちつかず」が主流になっていくかもしれない。
そういう「決めない」態度ってのが、最近の選挙にはちっともない。
「この道しかない」とか驚くべき発想だよなあ。
短期決戦で各党、キャッチフレーズ浸透がカギに : 政治 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
あの既得権益云々を言っている人らは、とにかく官僚が悪いと言っていて、ああいうのが国家というのを否定していれば僕は面白く思うのだけれど、たぶんそんなことなくて、ただまた新しい利益を生み出そうとしているに過ぎないからつまらない。
白票や投票に行かない人もたくさんいるわけだけれど、こういうのってなんかもう民主主義に対する否定が多数を占めてるんじゃないのって思うけれど、そうはならないから不思議だ。
投票率が一定程度ないと、やっぱその選挙は否定された選挙なんじゃないかしらんと思う。
まあ、そういうのは外山恒一がすでに言っちゃってるか。
3.今年見たもの読んだもの、したこと思ったこと感じたこと
やっぱりシェリル・サンドバーグの「リーン・イン」は自分の意識にものすごく響いたなあと思う。あわせて、エマ・ワトソンの国連演説も。
エマ・ワトソンのスピーチから-自由と男性差別と「隠れたフェミニスト」について - izumishiyou’s diary
あと、映画の「アデル、ブルーは熱い色」もぐっときた。
美術ではブログでも取り上げた「楽園としての芸術展」と「ミレー展」がよかったけれど、他にも「幸福はぼくを見つけてくれるかな」展、国立新美術館の「オルセー美術館展」「チューリヒ美術館展」(来年の「ルーブル美術館展」「マグリット展」がとても楽しみ)、あべのハルカスでやっている「新印象派展」も良かった。世田谷美術館の「ジャポニスム展」も行ったなー。夏だったなあ、まだ。
金沢の21世紀美術館もとても楽しかった。また行きたい。
たぶん受かったと思うのだけれど美術検定3級の勉強は、とてもおもしろかった。来年は2級、がんばろう。
「楽園としての芸術」展を観て―歴史的な価値、自分の芸術、理想の誘惑 - izumishiyou’s diary
ミレー展より-美術館は高いのか - izumishiyou’s diary
そういったものも印象的だけど、登山、白馬に登ったのも今年だった。初登山。ものすごーく疲れたけど、素晴らしい体験だった。帰りに雨がざーっと降って、その中岩場を下りて行った時には、一歩足を滑らせたら死ぬんじゃないかという恐怖もあって、その迫ってくる感覚を今でも思い出せる。
この登山のために二か月くらい、毎週土日の朝、荒川の土手を走った。土手の坂になっているところを山に見立てて上ったり下りたりした。
その後ボルダリングも初めてした。腕で自分を支え、その重みを感じたのが新鮮だった。
体を動かすのは中学卒業以来のことだったから、自分の体が自分を支えていることをとても実感した。
この10年、体のことを軽視してきたことが僕の考えや行いの軽さにつながっていたんじゃないかと思う。
体が自分を支え、そして時には思い通りにならないこと、あるいは思っている以上に動くことを知っていかないといけないと思った。
自分の体が自分だという意識なく、自分や社会のことを考えようとしても宙に浮いて定まらないのだと思う。
さっきスーパー行って、青空や人の服や、果物や野菜、目に入るものの色がなんだかとてもいろいろあると思えた。
去年の冬は、もっと全体にくすんでいて、何も見えていなかった気がする。
少なくとも、こんなに日の光を感じなかった。たぶん同じように昼間は日差しがあっただろうに、穴倉にいるように暗かった。
それなりに前向きな一年でよかった。本当に良かった。2014年なんてないんじゃないかと思っていたくらいだから、あって、それも良い形であって、よかった。
来年は何しよう。っていうか、まだ2014年は残り一か月もあるし、何しようかな。