Nu blog

いつも考えていること

スケッチ(酒)

学校の漢文の授業の最中に同級生のSが手を挙げて質問した。

「先生は沙上に臥すほどワインを飲んだことはありますか?」

授業を撹乱してやろうという意図見え見えの質問だったが、先生はうーんと唸り、しばらく考え込んだ。その顔からは、答えは「ある」だが、どう答えようか思案している様子だった。

O先生は関羽のような髭面で、酒豪ともっぱらの評判だった。気怠げながらもこだわりのある授業がみんなのお気に入りだったが、教科書的なことはろくに教えないくせに、試験が難しいのだった。

教室に春の風が吹き込んで僕らの前髪を揺らした後、ようやく、

「ある。これから先どうなるのだろうと不安な時ほど、道端に倒れ込むほど飲んでしまうものだ、ということを知っておくと、鑑賞の一助になるだろうから、言っておく」

と答えた。なかなか気合のこもった答えだったからSも授業撹乱の意図を削がれ、「ありがとうございます」と言って着席するより他なかった。

それでも先生は言い足りなかったようで

「君らもどうせ酒を飲む。今飲まなくてもいづれ飲む。体質的に飲めない人もいる。若い頃の方が将来を不安がって飲んでしまうだろうが、やめておきなさい。生きて帰ってこられないほどのことはあまりないんだから。楽しく飲むコツをゆっくり覚えなさい」

と付け加え黒板に向き直った。

それからしばらくして、僕らは、新聞部の部室なんかで酒の飲み方を練習し始めた。口をつけただけでひっくり返り、2時間も眠りこけた奴もいれば、どれだけ飲んでも顔色ひとつ変わらない奴もいた。

恐る恐る飲みながら、強がったり、虚勢を張ったり、落語の真似事をしたり、くだらない駄洒落や時事ネタを言い合ったことが楽しかった。

裏門からこっそりと学校を抜け出し、温い空気の町を歩いた。気づかないうちに声のボリュームが上がっていたのだろう。近隣からの通報を受けて先生らの見回りが始まった。僕らはアルコールの回って上手く動かない体を引きずって町中を走り回った。途中ゲロを吐いて捕まる奴もいた。そいつは停学になった。僕らは部室で飲むのをやめた。

僕は自室にワンカップ大関を持ち込み、「楽しく飲むコツ」を覚えようと練習を始めた。酒を飲むといつも視界がぐるぐる回り始める。それが心地よかった。自室の窓から見える家々の明かりが、乱視のようにゆらゆら揺れる。布団に倒れ込み、寝る。

僕の成績はみるみる落ちていった。

 

(1行目は中島らも『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』「O先生のこと」より)