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いつも考えていること

コーポレート・フェミニズム

ユ・インギョン『明日も出勤する娘へ』(サンマーク出版、2020年)を読んだ。

「韓国 フェミニズム」は日本における一つのブームとなっているから、サンマーク出版もいっちょ乗っかってやろうと手を出したものと推察する。「韓国 フェミニズム」がブームじゃない世界線にいる方もいらっしゃるでしょうけど。

そんな前提を持っていたから、本書もフェミニズム本だろうと思って読み始めた。

しかし、読んでいるとどうも違和感がある。

確かに「娘」に向けた先輩・母親からの激励の言葉ではあるのだが、であるからこそか、「わがまま言ってないで我慢しろ」的なメッセージが多い。

初っ端から以下のようなお小言を喰らうのだ。

女性は職場や組織社会の「ルール」をよくわかっていない。職場は競技場だ。(…)競技の目的は点をとって勝つことだ。(…)ところが女性は、サッカーのピッチに立っているのに「サッカーのルールがわからない」と躊躇したり、応援に回ろうとしたりする。(…)あるいはチームワークより個人技をひけらかそうとする。(…)スタジアムに入る前にそのスポーツのルールを頭に叩き込み、試合がはじまればチームメイトにもチャンスを回し、監督のサインを守ってこそチームは勝利し、次回のメンバーにも選んでもらえる

また、女性は、あっさりとその場から退場しようとする。社内政治や職場での駆け引きをすこぶる否定的にとらえて仕事だけに没頭するので、すぐに息切れして、些細なことにも傷ついて逃げてしまう。一方、男たちは、たとえ侮辱されて悔しく思っても、決して自分からは退場しない。自分に利益があると思う限り、耐える

女性たちは真面目に仕事さえしていれば、組織か女王のティアラをかぶせてもらえるものと思い込んでいる。(…)だがティアラをかぶせてくれる人などいないし、社会が必要とするのは、組織をまとめる人材であって、愛を求める女王ではない

そんなだから、たとえばお茶汲みひとつとっても「どうして私がこんなことしないといけないの?」と思うのではなく、コーヒーは上司や会社のイメージそのものと捉えて、ちょっとした心配りと誠意で喜んでもらえるよう創意工夫すべきであると諭すし、給料の70パーセントは才能と情熱の対価ではなく、歯を食いしばって耐える悔しさの埋め合わせだと言う。

怯まずに耐え抜くことで、いずれ年配の人間は会社を去り、自分が上のポジションにつく。それが一番の仕返しなのだと。

だから著者は、上司に対してどんな部下が欲しいかを察して振る舞うよう、我々にアドバイスしてくれる。つまり、上司の利益を最優先し、振られた仕事にノーは言わず(唯一の返事は「はい、わかりました」!)、常に明るい表情で朝は誰よりも早く職場に来よう、と。

そうやって、卑屈に上司のご機嫌をとることで、自分が上司になった時、自分を尊重してくれる部下が現れるのだから、と。

さらに「女たちは会議が苦手だ」と著者は言う。会議で萎縮して全然発言しないかと思えば、堰を切ったように上司批判、会社批判を繰り広げて場を白けさせたりする。男たちは会議において相手の神経に障ることを決して発言しない。会議が終わってからひっそりと「ところで常務…」とはなしを切り出して問題を解決する。それがこの社会のルールであり、試合の進め方なのだ。あれ、これに似た発言、どっかで聞いたことあるぞ?

「重要なのは、あなたが勝利して生き残ること」とは本書をよく現した言葉だ。この理不尽な社会をゲームに見立てて、優秀なプレイヤーとして勝ちを目指す。うーん、実に芳しいネオリベ的な処世術、人生観。

 

著者であるユ・インギョン氏は新聞記者として30年活躍し、朝の情報番組などでコメンテーターも務め、講演も人気な「姉御」だそうだ。自分の受けた勝手な印象では、日本で言うなら、たぶん安藤優子的な人だろうと思うが、違うかもしれない。

そのように「社会で活躍できた」人が、組織の中でうまく立ち振る舞い、被害を最小限に抑え、そして会社に貢献する人材として認められ、価値ある人間になるにはどうすれば良いのかを説く。

本書は、有り体に言って「自己啓発本」なのである。

だから、男性かつ会社員である私にとっても「役立つ」考え方がたくさんある。「どうしてわたしがこんな仕事を」と文句を言うのではなく、その小さな仕事に心配りを込めることが大事なんですよ、うーん、実に良い教えだ。新人研修で使いたい。性別を問わない「教え」である。

もちろん、女性をエンパワメントするような言葉もたくさんある。「ひとまず要求しなければ、何も起こらない」とか「とりあえず手を挙げてみることから始めよう」とか「自分を卑下するべきではない」とか「愛されるのではなく尊重される存在になろう」とか「自分で判断して自分で決めよう」とか。

本書内でも言及されるが、これらの言葉は『リーン・イン』が本家本元だろう。

『リーン・イン』とは、FacebookのCOOであるシェリル・サンドバーグが女性が現在の社会における立場を内面化していることを指摘し、それを乗り越え、リーダーシップを発揮する女性が増えるよう、女性たちに自己を乗り越えよと掛け声をかけた大ベストセラー本である。

社会的な障壁があることは確かだけれども、それらを乗り越えて男女が等しく社会と家庭に参画する社会を目指そう、そのためにはまず女性が今抱えがちな消極的な考え方や姿勢を改めて、指導的な立場に立っていこう、と呼びかけた本である。

2013年、新幹線の中で『リーン・イン』を読んだことを覚えている。すごく良い本だと思った。 

今ある不公平を指摘しつつ、具体的にどう変革していくのかを示した、素晴らしい本だと思った。男側がその不公平に気づくとともに女性もその不公平を是正するために動く、これができたらモノの数年で、政治家も会社役員・管理者も、男女フィフティーフィフティーになるだろうと思えた。

しかし、今『リーン・イン』は「コーポレート・フェミニズム」と呼ばれており、1%のためのフェミニズムなどとも批判され、果ては「男性の上司が女性の部下に渡す本」などとも言われている。

つまり、『リーン・イン』にせよ『明日も出勤する娘へ』にせよ、現在の社会の構成員の多くが「男女不平等を是正しないといけないと思っている」前提でどのように現状の不平等を乗り越えようかと考えているわけで、「たまにいる勘違い野郎のことは気にするな」というライフハックでしかない。

現実には、本当は味方のはずの夫が最大の敵だったり、どれだけ前向きに頑張っても表向きは公平な顔して、無意識に男性だけが優遇されたりしている。

両書の著者は、そんな状況下でも恵まれた立場にいた人で、だから99%の「普通に恵まれてない」人たちからは「生まれ育った家がまともで、その後も人間関係に恵まれ、社会のちょっとした理不尽を感じつつも、全然なんとか出来た人たち」でしかない、と思われて批判されている。本人たちとしては、そうした批判に対して反論があるだろうけれど…。

両書を読んでいると、力づけられる側面もありつつ、「私だって、あなたたちと同じ環境に生まれ育ったなら、何も恐れずに手をあげてるよ!」と言いたくなるのはよくわかる。全てが努力なのか? という不信感。むろん、両人はそんな悲鳴や不信感に対して、困惑しながら「だから、恐れずに手をあげたらいいのに!」と言い返すことだろう。

 

いかんせん、コーポレート・フェミニズムの問題は、社会的な問題の解決策を「個人のアティチュード(姿勢)」に求めることだ。

確かに社会はすぐに変わらないし、個人個人の人生を考えてみたときに、コントロール可能なものだけに集中すべきだというのは「正しい人生訓」ではあるだろう。しかし、

女性がせっせと料理をつくって整えたお膳に、ただ箸を並べただけで「僕が作りました」と主張する男性たちに、いつまで功績を横取りされ続けるのか。

と憤りつつ

「そうじゃなくって」とか「もう、イライラする」といった言葉を減らすだけでも、人生の障害物の多くは消えていく。

と著者は言うのだが、これは両立されうるのか?

著者は男に横取りされそうになったら、涼しい顔で「私に賛同してくれるんですね」と言えばよい、というのだが、多くの人にそんな恐ろしいことができるだろうか?

 

上野千鶴子が語るフェミニズムなら、自分を否定するのではなく、このクソみたいな社会を否定せよ!と強く言ってくれるだろう。田嶋陽子も怒りを放ってくれるに違いない。

ただし、そうしたフェミニズムから平穏を得ることは難しい。

怒っても無視されたり報復されたりする。社会は、ハワイと日本、あるいは地球と月の距離が縮まっている程度のスピードでしか変わらない。

 

資本主義内での競走に参加するか、資本主義と対決する戦争を起こすか。どちらのゲームに参加するにせよ、圧倒的不利な状態に変わりはない。

その場しのぎの鎮痛剤かもしれないが、コーポレート・フェミニズムが慰めになるのなら、それも一つの需要だろうと私は思う。

今は1%にしか有効性がなくとも、その割合が増えていくことを信じて、という意味合いにおいて。

この戦略は、遥か彼方まで五分五分にならない、という諦念を抱えることになるのだが…。

 

さて。最後に。図らずも優遇されている身分である男性はどうするのか?

最近この問いの答えがない。明け透けに言わせてもらうと、この身分の放棄に何の得もないから。

男性が進んで損を取るようになる方策を、誰か知っていますか?