Nu blog

いつも考えていること

スケッチ(次男)

抗がん剤治療や、結果として必要となった手術による入院など、私が乳がんになってから、次男が料理をするようになった。

ついこのあいだまで、甘えん坊だった小さなあの子が包丁を持っていると思うだけで、私は心配になってしまう。けれど、抗がん剤を受けた後は臥せってしまうので、心配することすらできなかったのだが。

次男はすぐに味の素や丸美屋ヤマキ白だしなどを使って適当なものを作れるようになった。メーカーのホームページにレシピが載ってるからね、と一人でスーパーに行ったこともないのに、ヴェテラン選手の口ぶりだ。

そう、次男はスーパーに行ったこともないのだ。高校入学直後から引きこもっており、もう丸二年家から出ていない。

私にはわからないのだが、部屋でずっとクトゥルフ神話というジャンルの本を読んでいて、それの続き(?)を書いてインターネットに載せたりしているらしい。一度「作家さんになれたらいいね」と言ったら「バカなこと言わないで」と不機嫌になったので言わないようにしている。

食材を買いに行ったこともないくせにいっぱしの主婦を気取っているから、手術のため三週間入院することになった時、私は詳細な買い物メモと献立を書き記して夫に渡した。

初めの一週間はこの食材と調味料を使ってこれこれを作り、次の日曜に夫があれとこれをイトーヨーカドーまで買いに行くから、二週目はあれとこれを作ること……、という具合のメモだ。

入院の前日、遺言を渡すような気持ちでそのメモを夫に渡すと、夫は苦笑しながら

「過保護だなあ」

と言った。

「「包丁で手を切らないように気をつけてね。、万が一切ったらティッシュで傷口を10〜15分圧迫して止血、病院へ行くこと」なんて書かなくたって大丈夫だよ」

と夫は、私の心からの心配を詰め込んだ一文を面白おかしいことのように読み上げた。

私は頭の中でコンロのスイッチを入れた時のようにカチッと音がして、カッと血が上るのがわかった。

「あなたが料理も掃除も洗濯もやればいいのに、なんにもしないくせに、あの子にやらせてるくせに、どうして過保護だの言わなくても大丈夫だの言われなきゃいけないの? あなたがやるならそんな注意書きしないよ、するわけないでしょ、いくらでも手でも指でも切ったらいい!」

次男は引きこもりになってから、掃除も洗濯もやっていた。夫のも私のも長男のも、下着も含めて干してくれたし、取り込んでいた。定期的に水回りも掃除するし、風の強かった日の翌日にはベランダを拭いたり掃いたりしてくれていた。

私はなるべく邪魔しないようにパートタイムに出かけたり、保護者会に参加したりしていた。土日は、夫や長男が家にいるので、次男は部屋から一歩も出てこなかった。

それで夫は、次男のことを何もしていない奴と思い込んでいるのだ。

本当に腹立たしくて泣いてしまった。夫が入院前で情緒不安定なんだろ、とか言いながら背中をさすってきたので私はますます怒りが募り「ちーがーう!」と夫をポコポコ殴った。

 

病室に荷物を入れる。看護婦さんや先生らに挨拶をすると、どんどん悲しくなってくる。本当なら(何が本当なのかわからないけど)、この人たちのお世話になんかならずに済んだはずなのに、どうして今皆さんに挨拶しているのだろう、どうして私は愛想良くしようと努めているのだろう。

そんな悲しみも束の間、その日から早速矢継ぎ早に検査をいくつも受けさせられ、あっという間に手術の日になった。前日、夫に「何かあったら、あの子のことをお願いね。優しくしてあげてね。叱ったり、見放したり、しないであげてね。そのうちどうにか自立していくはずだから」と伝えたら、自然と涙が溢れ出て、その日は泣き疲れてよく眠れた。そして手術は「もう目覚めないかもしれないのか」と思った途端意識がなくなり、すぐ目が覚めて、終わっていた。ひとまずは成功したとのことだった…。

 

術後、学生時代の友人や保護者会のみんながお見舞いに来てくれた。

皆口を揃えたように、お家のことは夫でちゃんとできているのかと心配した。私の家なら、今頃廃墟になっているわ、と。

学生時代の友人で気のおけない佐藤美子や鈴木由実は、汚い部屋を見せるのは嫌だろうし、他人に部屋をいじられるのも気が進まないだろうけど、ぜひ掃除させてほしいと申し出てくれた。あるいは作り置きのおかずを持っていくから夫と息子らに食べさせよう、とも言ってくれた。

夫にメールすると、「部屋も綺麗だし、飯もバッチリだ」と写真が添付されていた。

「旦那さん、すごいね」と二人が言ったから「これ、次男がやってくれたんだよ」と私はやんわり否定した。否定するために写真を見せたようなもんだった。

 

私の退院後、しばらくして次男は大検(今は名称が変わったらしい)の勉強を始めた。夫の会社は経営悪化による人員削減が始まった。私は時折手の込んだ料理をして、一人で食べる。余ったら次男に分け与える。

その年はそんな風にして暮れていった。