Nu blog

いつも考えていること

スケッチ(冬の訪れ)

妙に感傷的なナレーションのニュース番組が、乳児遺棄の事件を報道しているのを、サウナ室で汗をダラダラ流しながら見ていた。画面には「就活中の女子学生」「空港で出産後殺害?」「乳児を公園に埋める」といった扇情的なテロップが、赤や黄などの警戒色で散りばめられていた。事件現場となった公園の近隣住民が、捜査員の聞込みの内容を話し、容疑者の同級生が容疑者の人となりを評し、容疑者が一度だけ受診した産科医がその時の様子を証言したりしていた。

僕は、胸の内に、濃い紫色のもやもやが沸き上がるのを感じた。

画面には容疑者の過去の写真が映し出され、それは水着だったり、いわゆる「派手な」格好だったり、茶髪だったり、目元などが「盛られて」いたりした。

友人同士らしいおっさん二人のうちの一人が「教育がなっとらんね」とつぶやいた。

VTR終わりにキャスターが、取ってつけたように「もちろん容疑者の罪も問われるべきだが、その子供の父親にも責任があるのではないか」というようなことをコメントしていた。

インターネットを検索したら、容疑者の大学や就職先、実家など個人情報を推察するサイトがたくさん出てきて、僕は検索をやめた。そんなサイトのアクセス数のひとつに数えられたくはない。

僕が知りたかったのは、同じように胸の内に濃い紫色のもやもやが沸き上がっている人の存在だった。

それから数週間、僕はときおり、容疑者の名前や事件の名前などで検索をしたが、続報はなかった。続報があってもどうしようもないし、父親の存在やあるいは彼女の周囲の人間のことを知ろうとするのは野次馬的関心の域を超えないから、そのうち検索するのをやめた。

彼女がどのような経緯で赤ん坊を埋めることになったのか、赤ん坊を埋めることとなるような状況に追い詰められる女性が現れる可能性を持つこの社会は何かを誤っているんじゃないのか。誤ったこの社会でマトモな僕は、誤ってない世界では狂った人間なのではないか。あるいは誤ったこの社会で赤ん坊を埋めることとなった彼女は正しい判断をしたのではないか。

濃紺の夜空に星がひとつ輝いていた。

冬が始まった。