Nu blog

いつも考えていること

愚劣な恋愛

久々にDaft Punkの『Discovery』を聴いた。きっかけはザ・ギースの高佐さんがYouTubeでハープでOne more timeを演奏する動画を見たから。このハープ動画、特にキン肉マンのゴー!ゴー!マッソー!とかがおすすめです。最初そんな歌やっけ?ってなるのが楽しい。


【ザ・ギース高佐】Daft PunkさんのOne More Timeをハープで弾いてみた#10 - ザ・ギースYouTubeチャンネル

 


【ザ・ギース高佐】キン肉マン Go Fight! をハープで弾いてみた#4 - ザ・ギースYouTubeチャンネル

 

Discoveryの中で最も好きなのはやはりDigital Loveだ。君と踊る夢を見たよ、すごく楽しかったよ、みんなハッピーで素敵な時間だったよ、この夢が本当になればいいな。という歌詞である。簡単な英語の歌詞が訥々と歌われる。電子的な音はユニークかもしれないが、メロディ的に際立ったものがあるわけではない。なのに、なぜか胸が締め付けられる。特に最後のリフレインである「Why don't you play the game?」ーねえゲームしない? という一節は、実はその意味は明瞭ではないのに、なぜか心動かされる。これは「君」という歌詞中の登場人物ではなく、私たちに呼びかけられたものだからかもしれない。そういう解釈もできる。

 

中原中也も「昔私は思っていたものだった/恋愛詩なぞ愚劣なものだと」と歌ったが、男は恋愛が好きである(「けれどいまでは恋愛を/ゆめみるほかに能がない」!)。

Digital Loveにせよ中原中也にせよ、対幻想の勘違いに没入することで、束の間現実から逃れようとしている。

 

そんなことを思わせたのはキングオブコントにおける空気階段ニッポンの社長が見せた恋愛コントである。このコンビに恨みはないが、率直に言ってくだらなかった。

恋愛の始まりにおける勘違いとディスコミュニケーション状態を、ツッコミを不在にすることで観客に第三者的視点を提供し、笑いを生じせしめようと目論んだ作品である。

コントというのはツッコミ不在の「状況」を生み出すことを一つの手法として持つわけだが、これは聴衆らの常識を試すこととなる。観客が適切な第三者視点に立てなければ、何も面白くない。

その点で前出のコンビらによるコントは、「学校という閉鎖的環境における強制的リアリティーショウ環境における、異性間恋愛への肯定的価値観」を有していなければ楽しめないのではないか。

論文のタイトルみたいなことを言ってしまったが、簡単なことで、男女共学の学校ってのは人間を一つの場所に閉じ込めてしまう環境なわけで、いわばテラスハウス的なんである。「男と女を一つのところに押し込めたら恋愛が発生するのは当然でしょう」と思える人でないとあのコントは笑えない。

ポリコレ的な話がしたいのではなく、その価値観ってそんな一般的なの? というのが単に疑問なのである。すごく青春に偏ってる。

うるとらブギーズジャングルポケットジャルジャル、あるいはザ・ギースらの見せた、期待を外れさせる笑いの方がそのような偏った「常識」を共有せずとも機能していた(というかそもそも特殊状況を発生させるから、常識を問うことがなかった)。

青春は笑いやドラマ、音楽、文学といったものと密接な関係を持ち、時にそうした対幻想を称揚し、獲得することを煽ったりする。

たまたま『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を読んだばかりなのだが、これは対幻想へのアンチテーゼだった。ジェンダー観で悩む男性、というイマドキな主題に切り込んだ誠実な作品で、あまりにナイーブすぎるとも思う。しかし、そういうナイーブな人がいないとも限らない。あるいは、我々は時にナイーブな時があるとも言える。全面的にナイーブでなくとも、ある一点で同じようにナイーブな時があると思えば、理解は難くない。

だから、青春を舞台とし、対幻想を前提とすることが現代において適切な背景設定なのか、と考えると、私にはそうは思われない。

対幻想の発生点を手放しで礼賛することにいささかの恥じらいや戸惑いを覚える。

もちろん、ナイーブすぎます。

しかし、私たちはリアリティーショウの見過ぎで恋愛発生状況に慣れすぎたのではないか。あるいは現実にリアリティーショウ的恋愛発生状況が周囲にたくさん発生していて(もしかしたらマッチングアプリの隆盛もあるかもしれない。男女は「恋愛的出会い」をきっかけとしなければ出会えない、という前提の蔓延)、足立区の議員さんの言う「普通の結婚をして、普通に子供を産んで、普通に子供を育てること」が、多数派の極めて常識的な理解として流通しすぎているのではないか。

セクシャルマイノリティでなくとも、「普通の云々」に当てはまらない人生はたくさんある。足立区のお爺さんはLGBTに言及したから、その発言もセクシャルマイノリティの問題だと捉えられ批判も殺到しているが、LGBTに言及されなければこの発言は見過ごされていたように思うのだ。

 

審査員も演者も男ばかりで、中原中也的自嘲、嘆きの感覚もなく、朗らかに恋愛を肯定してる光景を、今ナイーブな私は好意的に見れなかった。

下半身が馬、頭が馬の男女が出会えば外見的共通点だけで恋に落ちてしまうような、学校の中に押し込められれば恋が発生するような、無邪気さ。

あまりにも無邪気な状況に、私は素直に讃歌を寄せられない。無性に苛立ちを覚えてしまう。