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いつも考えていること

スケッチ(状況の中の人)

五月一日、ワイシャツの襟がだらしなく垂れる。
他のワイシャツに着替え直してみたが同じだった。おかしい、とミヤモトは思う。去年もクールビズが始まった当初、同じ違和感からセミワイドのシャツを着るようになって、それでどうにかなっていたはずなのに。
襟が外へ張り出してどうにもならない。開けた第一ボタンがそれを助長する。Vネックのインナーが少し透けて見えている気もする。
でも、今日からはネクタイを外さないといけないのに。
ミヤモトは時折襟を押さえながら家を出た。もしかしたらそれなりに襟が立つのではないかと期待しているが、ふと視線を下に向けると襟が寝っ転がっているのが目に入る。ネクタイをしたいと思う。しちゃダメなわけじゃないが、誰もネクタイをしていないのにするのは嫌だ。
クールビズが始まる前、夏場にネクタイをしていたことを、思い出そうとしても思い出せない。クールビズがなければ、ネクタイをしていれば、こうやって自分の服装を変だと思わないし、人からも思われない、と思う。
黒のスーツ、白いシャツ、赤か青のストライプのネクタイ。就職活動時に使っていたものと、入社直前に量販店で買ったもの、計二着を着回していればよかった。
係長を見ても、そんな感じ。係長はネクタイを二本持っていて、一つはクマモン、もう一つはディズニーのプリントがされている。でもネクタイを締めていれば、別にめちゃくちゃ変ではない。
押し出されるように電車を出て、人波に運ばれるように改札を通る。階段を上がり、次に下って、さらに東へ西へ数度、地下を巡る。
値段の書いていない新築マンションの広告が目に入った。「一生をここで暮らす」というコピーと白いワンピースを着た女優の写真。高級ブランドマンションの値段は知らないが、収入のほとんどをローンの返済に当てれば買えるかもしれない。てことは審査で落ちるかもしれない。
ふたたび階段を上り、ようやく地上に出る。なかなか信号の変わらない横断歩道を渡って、会社が入るビルにたどり着いた。
連休の合間でいつもより人が少なかったが、すれ違った人の多くが、ネクタイをしていた。ミヤモトは、そのことに気づくたびに襟を押さえた。まだ肌寒いじゃないかと環境省に言いたかった。
目の端に襟が見えるのが嫌になって、少し首を前に出してパソコンに向かった。そうやると襟が目に入らない。しかも仕事に熱中しているように見えそうな気もする。はす向かいに座る係長もネクタイを外していた。ミヤモトと同じように襟が垂れていた。変だった。ということはやっぱりミヤモトも変なのだ。引いては、この業務監査担当は係長も主任もダサい、ということになる。
業務企画担当のハラの姿が目に入る。一つ年下のハラもネクタイを締めていないが、襟がピシッとしたワイシャツを着ていた。さっと辺りを見回せば、やっぱり誰もネクタイを締めていないが、襟がシャンとしている人としていない人で二分されていた。中には襟元からシャツが見えていたり、なんならそのシャツが普通のTシャツだったり、反対に乳首が透けてたりした。これから暑くなれば、脇汗が目立つおじさんも出てくるだろう。
いつも、こんな感じだったけか。毎年「去年ってこんな感じだったっけか」と思っているようだ。ハラのシャツと自分や係長のシャツの何が違うのかミヤモトにはわからない。なんだかパリッとしている、シャンとしている、キチッとしている、そう思う。
「ミヤモトさん」
「はい」
「総務部からの確認依頼、赤字入れてるから、回答しておいて。付け足すところあったら、入れてくれたらいいから」
「はい」
係長は常にマスクを着けている。電車もオフィスも空気が悪いと言う。同じマスクを数日使うから、毛羽立っているのが可笑しい。イキイキした目だけが浮いて見えて、怖い。係長は仕事が好きだ。独身で、帰ってもやることがないからだ。けれど飲みに行くのも嫌いで、遅くまで仕事をする。十年前なら毎日終電で帰っても誰も文句言わなかったのだけど、と月末になると言う。昨年から残業規制が厳しくなって、年のうち六ヶ月は残業時間を気にせず青天井で働けたが、今は多くても月百時間という上限ができた。その上、月平均を八十時間にしないといけない。係長は先月、四月からさっそく月七十五時間も残業をしていた。四十五時間を超えない月をいつにする気なのだろう。
「あと経理部への月初報告、お願いしますね」
「もちろんです」
「ええと、他の月初の対応も、ほら営業部がうるさいデータとか、そこらへんも」
「オッケーです」
「遅れそうなものあったら言ってね。引き取るので」
「えー、とりあえずは。大丈夫です」
何か押し付けようかと逡巡したがやめた。ミヤモトの残業時間は月二十時間程度。と言っても、激務なわけではなく係長に付き合ってのことも多い。そんな余裕のある状態で、定例業務を渡してしまうと手持ち無沙汰になってしまう。
この部署に配属されて一年が経った。係長はミヤモトを、いまだに先月配属された人のように扱う。責任が軽くてプレッシャーも少なく、楽だ。係長はこの部署に八年いる。部長も課長も二年ごとに取っ替えられる中で、否応なく専門家として振る舞っている。最初は三人いた部下も、いつのまにかミヤモト一人になった。
前にいた部署なら、とミヤモトは思う。二年前まで、真上のフロアを陣取っている経営企画部にミヤモトはいた。経営会議や取締役会、株主総会、官公庁や報道対応、経営計画の策定といった派手なお題目が飛び交う部署で、他部署に対して高圧的な人が多かった。日々バタバタと走り回っていた。そっちの方が、毎日楽しかった。電話も鳴りっぱなしだった。最近は静けさに慣れて、電話の音に気がつかない時がある。どうやら脳が勝手にノイズキャンセリングしてくれるらしい。結果、係長が電話に出てしまうから、申し訳なくなる。
またハラの姿が目に入る。部長のところで何か報告をしている。書類を手にした部長が小刻みに頷いている。快活に説明をしているハラの姿を見ていると、無性に自分の腕や腹を掻きむしりたい気分になった。とはいえ、自身にそんな快活さがないことは承知しているから、何に苛立ちを覚えているのかはミヤモトにもよくわからない。
その日はトイレに行く度に襟を押さえた。首を突き出して作業していると襟のことも忘れられたが、帰りに歩いていると襟がとても視線に入ってイライラした。引きちぎりたいとさえ思った。あるいはこれならいっそ、ボタンを閉めてしまった方がカッコがつくのではないかとも思った。しかし、ノーネクタイでワイシャツのボタンを閉めている人を学生以外で見たことがない。
家に着くとすぐにワイシャツを脱ぎ捨て、首元をこすった。嫌な感じが拭えた気がした。明日も何を着るか悩まなくてはならないと思うと、気が重くなった。

ボタンダウンのシャツを発掘してから、ミヤモトはそればかり着た。ボタンダウンシャツは、ネクタイを結ぶ時にいちいちボタンを外して付ける動作が必要なので、奥底に収納していた。上からの重しで付いた縦線の皺を擦ったり、引っ張ったりした。着ているうちに他にも皺がより始めたので、気にならなくなった。
日曜日、ボタンダウンシャツを仕入れるため、アトレに入っているユニクロへ行った。土曜日は前日に深酒し、昼過ぎまで起き上がれなかったのだ。ここのところ毎週そうだ。休みの前の日はストロング系チューハイのロング缶をチビチビと三本程度飲んで、体が真っ赤になったら気絶するように眠る。翌朝、とにかくだるいのだが、それをしないと休みを迎えられないと思う。
飲んでいる間、YouTubeを見る。昔やっていたゲームの実況や大食いチャレンジ、コンビニや飲食店で一万円を使い切るとか、そういう動画を流す。放っておいたら勝手に次の動画が流れていて、脈略もわからず女性のメイク動画や視聴者からの質問に答えている動画を眺めていたりするが、そのあたりの記憶というのは定かではない。
やることがないな、と思わないように酒を口に運ぶ。みんな何をしているんだろう、と思ってしまうのでまた飲む。番いのカップルを想像、といっても想像力が貧困なので男の顔も女の顔も何も思い浮かばない、してしまう。ミヤモトにとって、番いのカップルが普通とか正常な状態で、男一人のままというのは、何かが欠けているように思える。つまり自分はどうやら何か欠けていて、このままではマズイ感じがする。背筋が凍える。YouTubeを閉じて、「結婚、年齢」「普通、生き方」「三十歳」など、思いつく単語で検索をかけて、一ページ目をさらっと眺める。検索結果の表示を見ていると、答えが書いているように思える。ときおりクリックして、文字がたくさん並んでいるのを見て、戻る。
「はい、これ、どうぞ」と誰かが差し出してくれないだろうか。差し出されるのは、セックスさせてくれて、家事してくれて、自分を楽しませてくれる女だったり、的確な指示を与えて、褒めてくれて、評価してくれて、気の合う上司だったり、ミヤモトのことを大切に思ってくれる友達だったり、なんか知らんけど何をつぶやいても絶賛してくれるツイッターのアカウントだったり。そんなものが与えられれば、ちょっとは満足するのかもしれない。
それを差し出してくる奴は一体何者なんだ。
ユニクロは家族連れや、最新のデザインをゆっくり吟味する女性らでにぎわっていた。UVカットのカーティガンや薄い素材の家着などが置かれており、どれも特別価格と書いてあるが、それが通常より安いのか、どの程度安いのかはいまいちわからなかった。壁にはファッションと人生を楽しんでいそうな若者の写真が貼られていた。グローバルに展開していることを誇るように、いわゆる多様な人種のモデルが配置されていた。バランスを考える人も大変だろうとミヤモトは思った。
男性用の服は入ってすぐのところにあった。カジュアルな服には目をやらず、ワイシャツのコーナーをめがけて棚の間を歩く。感動パンツだの感動ジャケットだのが売られているが、欲しいとは思わない。
さっさとボタンダウンのシャツ、Mサイズを手にとってレジに並ぶ。とんでもない行列のお尻に並ぶが、列の進みは早かった。
ミヤモトくらいの男性は、カップルや家族連れとしてそこにおり、ミヤモトと同じように一人だけというのは、いなかった。ミヤモトのユニクロ滞在時間がものの数分だったように、同類もまた数分で目当てのものを購入し帰ってしまうのかもしれない。一ヶ所にとどまらないから、群として「男性一人」属を認識することができない。彼らがとどまるのは、パチンコ屋だったり、競馬場だったり、野球場だったり、居酒屋だったりする。
ミヤモトはパチンコも競馬も野球も興味がない。そして家で一人で飲むから、居酒屋にもガールズバーにも行かない。ミヤモトは「男性一人」属でありながら、その群として参加できないでいる。要はおじさんらしいおじさんにすらなりきれてない、そんな疎外感。
ミヤモトはレジを済ませ、遅い昼飯を食べようと思った。アトレ内の飲食店は、どうも入りにくく感じられたので、駅前へ移動し、目についたラーメン屋に入った。そこは以前一度行ったことがあるから、勝手がわかる。店の前のメニューを見ると、ランチセットとしてラーメンと餃子又は炒飯のセットが提示されていた。ミヤモトはこれまでランチセット的なものでいい思いをしたことがない。過剰に腹一杯になり、しんどくなってしまう。特に店によってはレディースセットに対抗したメンズセットみたいなものを用意していることがあるが、これは最悪だ。なぜ男性向けのメニューは量を多くしようとするのか。男性はそんなに食べないと動けないのか。甚だ疑問だ。この餃子又は炒飯セットも食べ切れるだろうが、後が怖い。特にラーメンの脂っこさを考えると、腹一杯でしんどいだけでなく、お腹も少し壊すだろう。ミヤモトは特製ラーメンという食券機の左上に配置されたスタンダードなラーメンを選んだ。
ラーメン屋には、「男性一人」属が複数いた。スマートフォンを見ながらラーメンと餃子(ランチセット!)を食べていた。モリモリと元気よく美味しそうに食べるのではなく、大きな一口を、モソモソと楽しくなさそうに動かしていた。視線はずっとスマートフォンにあった。
ミヤモトは小さなテレビの、小さな村や離島を訪れている光景を見ながらラーメンを食べた。タレントたちの騒がしいコメントが店内に響いた。「男性一人」属らは鼻水をかんだりしてから出て行った。新しい客が入ってきて「セット一丁」と店員たちが大声を出しあった。ミヤモトが出て行くときは「ありやした」と声を揃えて言った。
どこに行こうか、何をしようか考えながら、路地の合間をふらふらと歩いたが、やることもなく帰った。
会社借り上げのアパートは、六畳一間、フローリング、ユニットバスというミニマムな家で、ミヤモトはなんでも手が届くから気に入っていた。誰か人を呼ぶこともないし、と家にいる間は万年床を中心にほぼ寝転んで過ごす。
「みんな、どうしてるんだろう」
誰に聞かせるでもない言葉が口をついて出て、もしかすると今日初めて言葉を発したのかもしれない。ユニクロのレジでも、ラーメン屋でも、言葉を発して何か伝えることはなかったから、きっと本当にそうだ。
悲しい、とミヤモトは思った。こんな暇な自分があと何十年も続くのかと思うと、とにかく悲しかった。みんな、どこにいるのだろう。今度は頭の中で思った。どこで、何を、誰と、なぜ、どのように、やっているのだろう?
あまりにも嫌な気持ちになったので、スマートフォンでDMMと打ち込み、AVのサンプル動画を見始めた。一、二分だけの宣伝動画だが、悲しさや嫌な気持ちを追い払い、硬直しだした性器に意識をやることができた。射精してしまうとその時間が終わってしまうので、ミヤモトは性器をこすりすぎないように注意しながら、さまざまなサンプル動画を見回った。
出し終えたのは、一、二分の動画を何十個も見てからだったので、気づけば一時間近くが経っていた。動画を見ながらさすっている間、とにかく何も考えずに済んだ。いつも出す瞬間は気持ちいいと思わず、やってしまった、出てしまったと思う。そして今、この倦怠感だ。過剰に剥奪された気持ち。
たくさんの女が、たくさん気持ちよさそうにセックスをしていた。男性器を手でこすったり、口に含んだり、そして膣に挿入していた。さまざまな格好でそれをしていた。乳房が揺れ、大声をあげていた。男性の姿は一切見なかった。動画の中では男性器だけがニュッと出てきて、女優はそれを取り扱うのだ。
「もう嫌だなあ」
その日の二言目はこれだった。
みんなを探しに行こうと思った。どこに行けばいいのか、ミヤモトは思案した。

みんなはすぐに見つかった。なぜなら、会社にはたくさんのおじさんがいたからだ。おじさんたちは声が大きい。そして大抵は不機嫌な雰囲気で、しかし仕事に関係する何かの場合は媚びた猫なで声みたいなものを出したりする。口に手を当てずにくしゃみをするし、二リットルのペットボトルを机の上に置いて、三日間に分けて飲んだりもする。
おじさん同士、背中をポンポン叩いたりしながら「それ、いいですねえ!」などと意気投合したようなそぶりをすることもあるし、残業終わりには「ちょっと行きますか」などとジェスチャーをして飲みに行くが、休日まで一緒に遊んだりはしない。
係長はその世界から取り残されたように仕事に没頭していたが、これもまたおじさんの一つのあり方だった。もう一人の仕事没頭型おじさんは、隣の部署の課長だった。このおじさんは、大きな音でキーボードを叩き、コピー機から出始めた紙を引きちぎるように取る。これまで何度もエンターキーが取れたことがあるらしいし、紙を引きちぎってしまったこともあるらしい。それで紙を部長に見せて、大声で「役員に了解もらいますんで」と叫び、走るように階段を駆け上がって役員室へ行く。きっと役員にも大声で説明しているんだろうと思うが、さすがにその声は聞こえない。二十三時くらいまで会社にいる。ミヤモトの所属する部の課長が同期らしいのだが、課長同士で話している時に「忙しくて、やばいよ。健康診断行く暇ないもんね」などとこれまた大声で言っているのを聞いた。お腹がぽっこり出ていて、五月の涼しい日も額の汗を拭いていた。
おじさんはこんなところにうじゃうじゃいたのか。ミヤモトは改めてそう思った。
なぜこんなにおじさんの姿が見えてなかったのだろうか。つい最近も、クールビズの日に辺りを見回して、おじさんらの服装をそれとなくチェックしたというのに、ミヤモトの頭におじさんがいたことがすっかり抜けていた。わけがわからない。
さらに、職場には女性も何人かいたが、そのことにもミヤモトはいまさら気がついた。いることを知らなかったわけじゃないし、これまで話したことも何度もある。なんといえばいいのだろうか、「職場に人がいる」ことがそもそもミヤモトに認識できていなかった。ひいては、自分の行為が人に迷惑をかけているかもとか、服装を見られているかもとか、不快に思われているかもとか、そういう意識がまったく欠けていた。
ある日、役員の都合で延期になっていた業務統括部の立ち上がり会が突如開催されることになった。そういう時、幹事に指定されがちなハラは業務時間中だろうがお構いなく会う人会う人に「さきほどメール送った立ち上がり会……、そうそれ、そのメール……、そうなんすよ、いきなり役員が……、いや、まいりましたよ、ほんと……、来週の、はい、水曜っす……、店は今超特急で……、申し訳ないんすけど出席お願いしますよ」と声をかけていた。俺だってあの立場なら、あれくらい馴れ馴れしくいろんな人に声をかけて回るわい、とミヤモトはなぜかイラついた。
当日、会場は三十人程度のおじさんで溢れかえっていた。ハラが連れてきた役員が部屋に入ってくると、おじさんたちは一斉に拍手した。
「本日は皆様、お忙しい中お集まりいただきありがとうございます。業務統括部の立ち上がり会を始めさせていただきます。さっそくですが、役員、ご挨拶と乾杯をお願いします」
「いや、すまんね。ほんとならね、四月にやるべきだったんだけれども、どうも今年は殊の外忙しかった。ほら、新しく来られた副社長がさ、なかなかアレでね(苦虫を噛み潰したような表情をわざとらしく作って笑ってみせ、課長らが笑い声をあげた)。お、なんだい、君たち。副社長のこと知ってる? いや、まあ、あとでゆっくり聞かせてやるよ。ほんと、困ってんだから、こっちは。それはさておき。すでに一ヶ月半、皆様にはいろいろと働いてもらっていて、とても感謝しています。昨日はこうだったのが、今日違うってことがね、経営的にはないようにしたいんだけども、どうしても昨今の社会情勢や環境の変化においては起きてしまうんでね、ご苦労かけているんだろうと思います。特に業務が営業の足を引っ張ってるってなことを、誰がとは言いませんが、言う人もいる。そんなわけはないんですよ。業務を回す人がいなかったら、営業したって意味ないんだから。むしろ業務統括部が営業を、この会社を引っ張ってるんだって、皆様には思っておいていただきたい。四月から着任された方、他部や出向から戻ってきた方もいらっしゃいますが、ぜひね、皆様の力をお借りして、会社を発展させていきましょう。それでは、はい、乾杯!」
ミヤモトは隣に座っているあまり知らない課長の酒と会話の世話をしながら、この場に女性が二人しかいないことに気づいた。一人は庶務担当の新入社員で、もう一人はミヤモトより二つ年上の主任だった。主任はすぐに役員のところへ行ってお酌していた。向かいに座った役員と関係の長い課長が「ほら、お注ぎして」などと主任を扱っているのが奇異に思えたが、当の主任は「はーい」とか「えー、そうなんですかー」とか「やだー」などと甲高い声でその場を盛り上げていて、余計に奇異な印象をミヤモトは持った。
会場の隅で時計を見ていたハラに「おつかれさん」と声をかけると「いやー、疲れましたよ」と余裕げな表情でハラは言った。
「業務企画のタナカさんとかさ、ノノハラさんとか、あと誰だろう、要は女性ってみんな不参加なの?」
ミヤモトの質問にハラは会場を見渡してから
「あー、声かけてないっすね。声かけても来ないですから、彼女たちは」
とこともなげに言った。ミヤモトは、へえ、まあ、そうか、や、別に気にしてないんやけど、と不明瞭なことを言ってその場を離れた。きっとハラは、今の質問を五秒後には忘れるだろうと思った。
役員とその側近による二次会に当然ミヤモトが誘われることはなく。その他のグループによる二次会にも行かず、ミヤモトは帰った。帰り道、飲み屋街にはたくさんのおじさんがふらふらと歩いていた。大声を出したり、抱き合ったり、こづきあったりしていた。
どこにもいない、なんてなんで思ったのだろうとミヤモトは思った。ゴキブリみたいなもので、普段見かけない時はいないと思っているけど、いざ見かけたらたくさんいるってことなのだろうか。しかし、ゴキブリと違って普段からたくさんいる。通勤電車の中にも、職場にも、昼の定食屋やラーメン屋にも、夜の居酒屋にもバーにも。政治家だっておじさんばっかりだし、学校の先生だっておじさんばっかりだった。ミヤモトだってその一員のはずなのに、どうしてその枠に、「男性一人」属に属せてないと思うのだろう。自分がそう思っていないだけで、誰から見てもおじさん、「男性一人」属なのに、自分だけが属せてない、俺はおじさんじゃないと思っているだけかもしれない。だとすれば……、どうなんだ?
アルコールの入った頭で考えても、考えはちょっともまとまらず、霧散してしまった。その日の夜もAVのサンプル動画を眺めた。射精する前に眠気が来て、眠ってしまった。朝、スマートフォンと性器を手にした姿勢で起き、肩がとんでもなく痛かった。

梅雨の時期に入った。連日雨が降る。おじさんたちはスラックスの裾や革靴が濡れていても、さっと手で払うだけで気にしない。ミヤモトはタオルを持参して、ロッカールームでごしごし拭いた。女性らはどうやら、雨用のパンプスを履いているようだった。
それでインターネットを検索したら、革靴にも雨用のものがあるらしく、特にスポーツメーカーが作っているものが優れているらしかったので、ミヤモトはそれを購入した。履いてみると中敷のクッションが心地よく、普段から履くようになった。水も弾くし、蒸れにくかった。地面が濡れていても滑らないのも嬉しかった。
そんな快適な日々を送ってはいたものの、ミヤモトは毎年この時期、必ず体調を崩すのだった。夜中に目が覚めて下痢が続いた。腹痛が波のように押し寄せては引いていき、しばらくするとまた押し寄せた。「下痢の対処にも慣れたな」と脂汗をかきながらミヤモトは思った。あと数回、この波を乗りこなせば、もう出るものがなくなりそうだという確かな手応えがあった。出すものを出せば、一旦終わる。
その手応えを掴んだミヤモトはトイレから脱出した。一安心だと余裕をこいてポカリスウェットをちびちび飲むなどしたら、またお腹が痛くなった。あ、それもだめなの、とミヤモトは自分のお腹に問いかけたが、そうです、だめなんです、と言わんばかりにぐるぐる痛んだ。
朝になると腹痛は去って、体全体が熱っぽかった。十五秒で結果をお知らせしてくれる体温計が、三十七度八分という数字を示してくれた。ヤフーで「三十七度八分」を検索すると体温計の画像がいくつも表示された。しばらく意味がわからなかったが、仮病で休みたい人がメールに添付して送るのだろうと思った。疑い深い上司や、無駄に身の潔白を示したい部下が使うのかもしれない。なんて悲しいやりとりなんだろうか。
出社できないことを伝えるため、じりじりと電話のタイミングをうかがった。八時に電話してもまだ誰も出社していないし、かといって出勤時間より後に電話したら欠勤扱いにされそうで嫌だ。八時四十五分が妥当だろうと判断し、それまで普段見ないテレビ番組を眺めたりした。内容は頭に入ってこなかったが、深刻そうな顔をしたり、怒ったり、手を叩いて笑ったり、楽しそうだなと思った。
電話をかけるとすぐに係長が出た。かくかくしかじかで休みたいと伝えると了解、何かやっておくことはありますかと言われたが、まったくその日のうちにやらないといけないことは一つも思い浮かばなかった。仕方がないので「今日のうちにやっておかないといけないことはないです」と素直に言った。ゆっくり休んでください、明日も無理そうなら連絡くださいと言われた。
午前中に病院に行きたかったが、台所の棚の奥に残っていたレトルトのおかゆをすすったらまた腹が痛くなったので、家を出ることができなかった。昼過ぎになるともう随分気分がマシになって、熱を測ると三十七度三分まで下がっていた。これまで何度か行ったことのある病院は、人も多く、医者も親切でなかったから、最近できたクリニックへ行くことにした。午後の診療時間をネットで調べると、そのホームページには先生の顔写真やプロフィールが掲載されており、最新の機器を導入していることや町医者としては万全の検査体制がとられていることなどがアピールされていた。どうやらネットで予約も取れるようだった。
寝巻きであるスウェットと長袖シャツにカーディガンを羽織ったら、病人らしい感じがした。元気とまではいかないが、山を越えたことが明白だったので、病院で待たされるのが億劫だとさえ思ったから、格好だけでも雰囲気を出したかった。
クリニックはガラガラだった。待合室には体調の悪そうな母親と、元気いっぱいの男の子がいるだけだった。男の子は母親の体調など構わず、絵本をばしばし叩いて、何か不明瞭な言葉を発し、椅子の下に潜り込んだり、座面に手を置いてお尻を振ったりしていた。そんな男の子の奇行を眺めていたら、しばらくして診察室へ通された。ホームページで見た若い院長先生が迎えてくれた。この人が岡山出身で、順天堂大学を出た人なのか、とプロフィールを思い出した。症状を話している間、慈愛に満ちた表情で頷いてくれた。いい人なんだろうなと思った。
「それでまあ、もうそんなにキツイ感じはないんですけど、念のため、何か薬とか出してもらえたらと思って来ました」
症状申し立ての締めくくりにそう言うと、
「そうですよねえ、本当にしんどい時は病院まで来られませんよねえ。来た時にはもう、ある程度元気なんですよね。わかりますよ、私だってそうですもん」
と院長さんは言った。その言葉が無性に腑に落ちたので、ミヤモトはそうなんですよ、そうなんですよと二回も同意してしまった。あの夜中に、たとえば救急車を呼んでいたら、救急車の中で漏らしていたに違いないのだ。
「今日明日は消化しやすいものを食べて、こまめに水分補給してください。下痢が長引くようだったらまた来てください。下痢は止めない方がいいんでね、ま、整腸剤出しておきますから」
院長さんにそう諭されたので、帰り道にコンビニでレトルトのおかゆとポカリスウェットとウイダーinゼリーを購入した。家に帰ってまずウイダーinゼリーを飲むと、無性に美味く感じた。そのあとお腹が痛くなることもなかったので、下痢の時はウイダーinゼリーを飲んでればよかったのか、と驚いたりした。
思えば、毎年六月と十二月、一年に二回は体調を崩す。下痢の時もあれば、鼻水と喉の痛みがダラダラと長引くパターンもある。後者の方が厄介で、そこまでしんどくないから働くのだが、そのせいで長引いているような気もするし、かといって一日休んだくらいで治る気もしない。市販の風邪薬を飲むと、しばらく症状が治まるから、二、三週間に渡りだましだましやっていると、そのうち夏休みとか年末になって長期休暇に入り、気がついたら治っているのだ。
どうやら免疫力が衰えていて、このままでは年に二回が三回、四回に増えてもおかしくない。ほかのおじさんはどうしているのだろうか。忙しいと年がら年中言っているあのおじさんは確かサイクリングが趣味だと言っていた。そのほかにも草野球に参加していたり、毎週夫婦でテニスをしているおじさんもいる。
何か手立てはないか、できれば運動以外で。サッカー部の万年二軍で楽しくやっていた高校生の時、転んだ際にうっかり手をついて骨折して以来、ミヤモトは運動らしい運動をしてこなかった。手を使わない競技で腕の骨を折ったことや、ギプスを外した腕の細さがショックで、そのまま退部したのだ。
今更サッカーを始める気にはならない。フットサルも。
免疫力とか風邪予防などのキーワードでごちゃごちゃ検索し続け、腸内環境の整え方とかふくらはぎの揉み方、肩甲骨のストレッチといった本筋を離れた知識を得つつ、自律神経から体を温めることの重要性へ行き着いた。
温冷交代浴というのがあることを初めて知った。風呂やサウナで体を温めたあと、水風呂に入って体を冷まし、休憩することで体の芯から温まる、という方法らしい。腑に落ちる理屈な気がした。どれだけ暑い夏でも、体が芯から熱くなってしまうことは熱中症とかにならない限りほとんどないが、冬の方が寒い部屋から暖かい部屋や風呂に入った時なんかに、芯から温かくなっていると思える。そもそも子どもの頃から、あの水風呂の意味がわかっていなかった。誰が入るんだろうと思っていた。寒中水泳的な健康法を取り入れている人しか使わないにしては、水風呂の設置率が高すぎる。この温冷交代浴をする人のためのものだったのか。

意を決して訪れた近くの銭湯には水風呂がなかった。風呂に入っただけになったミヤモトはいちいちネットで検索してから少し離れたもう一つの銭湯へ行くことにした。そこは水風呂というよりも、屋外にミニプールを設置していることで有名らしい。
風呂に入り、水風呂というかミニプールに身を浸す。水温十八度は体が凍るようだ。ミニプールを出て、縁側に座って休憩していると、体の芯に火が灯っていることに気づく。それを三回ほど繰り返すと、ミニプールに入っている時点から、体が温もっていることがわかる。
その日はぐっすり眠れた。以来、その銭湯に通うようになり、しばらくするとサウナへ入るようになった。というのも、会社の近くにサウナを見つけたからだ。
サウナの後の水風呂は、銭湯の温冷交代浴よりも手っ取り早く、がつんと体が温まった。水風呂の温度も、十五度くらいじゃないと温いとさえ思った。
皮膚が赤く斑らになり、視界がぐるぐると少し定まらなくなる。外の風を浴びていると、頭が冴えてくる。血圧を上げ下げすることで、体が機能していることを感じる。
その頃からサウナに入れなくなるため、酒を飲まなくなった。家でも眠気が勝つから酒を飲む暇がない。ネットで検索して評判のいいサウナを探し、土日は遠出をするようになった。
上野や駒込、池袋、新宿といった二十三区内では飽き足らず、横浜や鶴見、草加、舞浜といった少し離れたところ、そして静岡にも行った。それでもまだまだ日本各地にいいサウナがあると聞くと、楽しみで仕方がなかった。
サウナには「男性一人」属がたくさんいた。ここにもいたのか、と思った。特にスーパー銭湯やカプセルホテルにはうじゃうじゃいた。俺もここに属している、とスーパー銭湯の休憩室にあるリクライニングチェアでうたた寝しながらミヤモトは思った。数人のおじさんのいびきが響いていた。時々、息が詰まったような止まり方をするのが心配にはなったが、なんだか全然うるさいとは思わなかった。

おじさんというのは傍若無人だ。傍に人なきがごとし、読んでそのまま。おじさんは手を洗ったあと、洗面器に向かって手をスウィングさせる。どうやら手に付着した水を切りたいらしいのだが、その結果鏡や洗面台に水が飛び散り、なんなら横にいるミヤモトの顔にまで飛ぶ。これを通称・湯切りおじさんと呼ぶのだが、彼らはどうやらハンカチを所有していないようであるから、その手をズボンで拭ったりする。
あるいは、水風呂潜水おじさん。もしくは水風呂汗まみれおじさん。おじさんの中には、水風呂に潜ってしばらく浮上してこない人がいる。どれだけ「潜らないでください」と注意書きをしていても、冷たさで童心を取り戻してしまうのか、薄い髪の毛をゆらゆらさせる。あるいはサウナ室から出て、汗まみれのまま水風呂へ飛び込んでくる。その汗は水風呂へインするのだから、さすがにちょっと気色悪いのだが、そのおじさんには何が問題なのかわからない。この二人が共演していると、なかなか壮観だ。
サウナ室で汗を飛ばしまくるおじさんもいる。体に吹き出た汗を、手刀でもって鋭く切る。本人は床へ落としているつもりかもしれないが、どう見ても目の前のおじさんの背中に汗をかけている状態だ。大抵、前の人は後ろの人が何をやっているのかわからないから、そのことに気づかないのは不幸中の幸である。
おじさんらを見ていると、ミヤモトは同じ「男性一人」属であることに安堵すると同時に、不安に襲われる。ミヤモトも彼らと同じように、なにかとんでもないことをしでかしているのではないか、という不安。

笑顔の女性がこちらを見つめてくるから、どうしても気になってしまう。ミヤモトのスマートフォンは、ミヤモトの属性をよく知っているからマッチングアプリや婚活の広告を表示してくる。保育士、看護師、料理が趣味、お酒が好き、海に行きたい、といった言葉とともに、キャミソールや水着など腕や胸元の肌が目立つ服の女性がこちらを向いている。
昨年の今頃、新卒の社員との交流会でマッチングアプリの話をしたことがある。同期で付き合うとかが、二、三組あるんだ、と言っていたら、今時はアプリで出会えるのになぜわざわざ会社の人と付き合うのかというようなことを言われた。ミヤモトの方が知らねえよと思った。ミヤモトの同期には、三人女性がいたが、一人はすぐに辞めて、一人は同期と、もう一人は大学の同級生と結婚した。二人とも産休、育休中だ。
料理が好きな保育士さんが水着を着ている。俺はそれをカモがネギ背負って歩いてきたみたいに思っている。つまり、俺に料理を作ってくれるし、その柔肌を自由にさせてくれるし、子どもの面倒も見てくれる。
俺は料理を作るのが面倒臭いが、女は料理を作るのが好きだから文句を言わないし、俺はセックスしたいし、女も気持ちいいものだし、俺は仕事もあって子どもの面倒を見てばっかりしてられないが、女は子供の面倒を見るのが好きだし、どうせ家にいるだけだからそれをやっていればいい。
本当か?
俺が嫌なことを好き好んでやる上に、俺がしたいことは進んで一緒にやってくれる人がいるのか?
「嫁がうるさいんで」とか「奥さんは料理上手いの?」とか「女の人はそういうとこ気にするよね」とか「男は家では黙って耐えるしかない」とか。これまでのいろんな会話が断片的に思い浮かぶ。そんな「夫が全て」みたいな女がどこかにいる?
いるわけがない。俺はバカみたいな妄想をしている。こんなイカれ妄想男に付き合わされる方が可哀想だ。
ミヤモトはスマートフォンを布団の上に放り投げた。一度跳ねたスマートフォンは、画面を下にして枕の上に落ちた。
渋谷の映画館で『サウナのあるところ』という映画を見た。サウナ大国・フィンランドの公衆サウナを撮った映画だ。男たちはヴィヒタという木の枝で体を叩いて発汗させながら、離婚して親権を取られたとか、昔虐待を受けていたとか、妻に先立たれたとか、泣きながら話していた。普段は寡黙な北欧の男たちも、サウナでだけは感情を発露させるのだと言う。サウナ室を温めている石に水をかけて蒸気を発生させる。ロウリュと呼ばれるこの行為で、サウナ室がぐっと暑くなる。汗とともに涙が流れる。焼けた石が水を蒸してジュワァと音を立てる。
俺は誰にも何も言えないで、まるで一人だけ我慢しているみたいに不機嫌だ。誰も、俺に、不満を抱えて生きろ、なんて言わなかったのに、勝手にそうしている。バカみたいだ。

マッチングアプリに登録できないまま、サウナに通うだけの日々が続いた。たまに飲みに誘われるとサウナに行けないので、どうやって断ろうかと思案したが、面倒になって飲みに行ったりもした。
次長や課長といった偉いおじさんらと飲みに行くと、必ず「君のところの係長は、いったいいつまで独身なんだ」「もしかしたらこっちって噂もありますよ」なんて手の甲を頬に当てる仕草をしたりした。しかし、係長のセクシャリティをミヤモトが知るわけがない。そもそも、ミヤモトは係長の個人的なことをほとんど知らない。知っているのはせいぜい、今の住所(と言っても最寄駅だが)とか、相撲が好きなこと(同郷の志摩ノ海という力士が贔屓らしい)とか、それくらいだ。だから仕方がなく「どうなんでしょうね」と返すよりほかない。まぜっ返したり、揶揄したり、あることないこと言ったりするような、期待されている回答を返せず、それで「そういうミヤモトくんは結婚しているのかい。なに、彼女は。おいおい、まずいじゃないか」などと矛先が変えられたりする。これもまた「ははは」と笑い返すばかりだ。
おじさんらは、他人の結婚にこだわるわりに自分の家庭事情について話したりはしない。そんなもんだよとか、適当だよとか、なんかむにゃむにゃとごまかして、話題を変えるように他人のことを気にしだす。おじさんにとって結婚がいいものなのか悪いものなのか、さっぱりわからない。聞けば「いいものだよ」と答えるだろうけど、どういいのかが伝わってこないのだ。
結婚のメリットは、おじさんらから結婚について説教されなくなることだろう。独身でいると、係長のようになぜかバカにされることになる。そんなクソみたいなメリットのために結婚するなんて。女性もまた親からの結婚プレッシャーを避けるために結婚しているのかもしれないから、つまるところ結婚はどうやら周囲からのプレッシャーによるものということかもしれない。
サウナで見かけるおじさんたちも、大抵は結婚しているのだろう。みんな家に女を囲っておいて、その上で外出している。ミヤモトが係長が「必然的に一人」なのに対して、おじさんらは「あえて一人」なのだ。ズルいとか、羨ましいとか、いいなとか、そんなんでいいのかよなど、不平不満が頭に浮かんだ。

サウナで見かけるおじさんらは、やけにスポーティな格好をしていたり、乳首の透けたTシャツを着たり、すね毛の見える半ズボン姿だったりして、ミヤモトに奇天烈な印象を与えていた。かくいうミヤモトも、大学生の頃からほとんど変わらない服装で、もしかしたら奇天烈な印象を与えているのかもしれない。
そんなことを悩んでいたら、アウトドアブランドの服の広告が目に入った。すっきりとしたシルエットのシャツとパンツだった。色味が軽さを感じる黒で、これが着たい、とミヤモトは強く思った。この服を着たい。この服を着て、どこか出かけたい。この服を着ればどこにでも行けそうだ。アウトドアブランドらしく、防水性や通気性、透湿性を売りにしていた。ミヤモトは週末そのブランドの店へ行って、シャツとパンツを二組買い、パーカーとスニーカーも合わせて買った。思いのほか高額で、ボーナスの三分の一をつぎ込むことになったが、意気揚々と家に帰って、大学生の頃からずっと着ていたチノパンやチェック柄のシャツを捨てた。

ハラがハラの妻の友人を紹介させてもらえないかと言ってきたとき、ハラが自分のことを「知り合いに紹介できる人材」と思っていることに驚いた。話しているうちに「俺の他に独身あるいは彼女がいない人間がいないだけか」と勘付いてしまったものの、残された最後の紹介できる人材として認識されていることがむず痒かった。
「僕も何度か会ったことあるんですけどね、良い子なんですよ。なんで彼氏いないんだろうねってよく妻と話してて、そしたら妻が誰かいないのかって詰めてくるもんで。一回会うだけ、ね。会って違うなと思えば、そりゃしょうがないですし、もしかしたら良い出会いかもしれないし、ね」
踏ん切りがつかないでマッチングアプリに登録できず、焦れた気持ちがくすぶっていたミヤモトはそのオファーを受けることにした。ハラのセールストークを真に受けて「良い出会いかもしれない」を期待し、「違うな」と思えばそっとご遠慮すればいいのだ、と自分に言い聞かせた。
教えてもらったLINEでやりとりし、金曜の夜に食事をすることになった。ミヤモトはそこらへんの居酒屋よりも一・五倍くらいの予算の、駅から近く、静かで清潔な居酒屋を予約した。
サイトウは、ハラとその妻の同級生だが高校生の時に一年留学していたため年齢はミヤモトと同い年だった。二人は「人の紹介で異性と会うなんて初めてだ」というトークを繰り返した。サイトウは大学職員で、毎週土日もどちらかは出勤するらしく、暇そうに思っていたが案外忙しいんですよと笑った。気を使っている人だなとミヤモトは思った。蓮根のはさみ揚げなどを食べながら、サイトウの頼んだレモンサワーが美味そうだったので、真似して頼むなどした。
趣味や休みの日は何をしているのか、と聞かれてミヤモトは困った。
「強いて言うなら、サウナですね……」
「え、サウナ?」
サイトウの反応にミヤモトはまずいことを言ったかとしくじった気になった。サウナが趣味なんて、もしかすると、だいぶん気持ちの悪いことなのかもしれない。
「実は私もサウナハマってるんです……」
ミヤモトとサイトウはサウナに関する話で盛り上がった。
女性のサウナは温度が低かったり、水風呂がぬるかったり、狭かったり、おばさんが陣取っていたり、男性の思うハズレのサウナみたいなのが標準らしく可哀想だと思った。
「そんなことだったら居酒屋じゃなくてスーパー銭湯で、サウナに入ってから飲めばよかったですね」
「ほんとですね。池袋とか新宿とか」
「ああ、いいですねえ。水道橋もいいんじゃないですか」
「水道橋、行ったことないです。良いらしいですね」
草加もありかもしれない。カラオケ歌ってるおじさんを横目に、友人の紹介で会う初対面の男女……」
「それはなかなか、第三者的には見たいです」
今度行きましょう、と言うべきかミヤモトは迷った。社交辞令でも、「良い出会い」でも、それを言えば誘わないといけない。サイトウとまた会いたいかと聞かれたら「どちらでも」と答えるし、二度と会いたくないのかと聞かれたら「そんなことはない」と答えるだろうと思った。サイトウが男だったら。社交辞令でも本気でも、なんの気もなしに「今度行きましょう」と言えるのに。
「もしよければ、今度サウナ行きましょう」
帰り際、ミヤモトは間を埋めるようにその言葉を言った。
「そうですね、行きましょう」
サイトウの快活な返事にミヤモトは「予定が合えば」とか言ってくれれば「予定が合わなかったから行けなかった」ってことにできるのになあと、このあと誘うことを考えて、悩み始めた。

二週間後、サイトウと池袋のサウナへ行った。ラグジュアリーな温浴施設で、風呂上がりにレストランで生姜焼き定食を食べた。食べると眠くて、すぐに解散してしまった。次はどこかへ出かけてからサウナに行きましょうとサイトウから提案された。さらに二週間後、新宿で映画を見て、百貨店を冷やかしてからサウナへ行った。ご飯を食べているときにミヤモトが、サウナの中で考えた映画の感想を話すと、サイトウもサウナの中で映画のことを考えていたそうで、ああでもないこうでもないと話し合った。
楽しかった。
雨の日用の靴の話をしても、気に入って着ているアウトドアブランドの服の話をしても、クールビズの服装がわからないという話をしても、おじさんらの変な行動の話をしても、そして自分がおじさんの一員なんだろうという話をしても、サイトウはそうですよねーとか、私は腕まくりしてる人見るのが好きですねーとか、おばさんも似たようなもんですよ! とか、おじさんの一員にはなっても変な行動をするおじさんにならなければよいのではとか、返事をしてくれた。
楽しいですか? と聞きたくなったが堪えた。それを聞いたら、どういう答えでももう先がない。
ハラに「どうっすか」と聞かれたので、「ちょこちょこ会ってる」と答えたら「え、付き合ってるんですか」と驚かれた。「いや、そういうわけでは」と答えると「なんすか、それ」などと不審がった態度をされ「え、もしかして付き合ってないけどヤっちゃったとかそういうのはないですよね、頼みますよ」などと明け透けなことまで言い出すので、ミヤモトはほとほと参った。

短い梅雨が明けて夏になった。三日間の夏期休暇は実家へ帰った。六十歳の定年まで残り数年と思っていたら、定年年齢を六十五歳まで引き上げられた父と、この地区の婦人会の副会長を生きがいにしている母。築四半世紀になる一軒家は、変わらず雑然としていた。二人暮らしには部屋数が多いようで、ミヤモトの部屋はいつまでも手付かずのまま置いておかれている。
家にいる間、父はBSでゴルフを見続け、母は四半期に一度行く婦人会の旅行の思い出を話していた。両親の会話はほとんどなく、演劇を見ているかのように、あれしたらこれ、これしたらあれ、と生活が進んでいた。
話が途切れると母が、間を埋めるように「お前の結婚はまだなのか」「良い相手はいないのか」「こっちに戻ってくる必要はないって好きな女の子がいたらそれをアピールしろ」「次男だから両親の世話も必要ない」などもう数年前から言っていることを繰り返した。ミヤモトの兄は名古屋に住んでいた。ミヤモトの顔を見に、そして孫の顔を見せに実家へ来た。ミヤモトに対して「ちゃんとしてるのか」「良い相手がいないなら婚活会社に登録するくらいのやる気を見せろ」「いつまでも一人でいたら一人前に見られないぞ」と命令口調で言い続けた。母の不平にも「そんなこと言ってないで、お父さんのこともかまってやんなよ」とか「婦人会なんてそんなに熱心にやっても鬱陶しがられるだけだ」といった言葉をすぐに返すのだった。父はほとんど口を利かなかったが、兄は「お父さんも定年が伸びちゃって大変だね。がんばってくださいよ」と労いの言葉をかけるのだった。兄の妻も子どももこの時間が終わるのをリビングで待っているようだった。
そんな耐えるような二日間を終え、ミヤモトは名古屋のサウナへ寄った。心地よかったし、この二日間に感じたいろいろを忘れられた。俺は、なんにも、困ってないんだ。そう言いたかったな、と思った。どうして俺はいま不足していると思われているのか、それが不満でしょうがなかった。番いになることを、番いでいることを誰かに強いられている。当たり前とか、普通とか、当然とか、みんなそうしてるとか、そういうイメージだけで。そんなイメージだけを頼りにサイトウと付き合ったり、結婚したり、子どもを作り育てるなんて、できるのだろうか。
自分の中の何かの感覚を止めれば、できるだろう。それは案外簡単だ。サイトウとの距離をもう少し縮めて、交際を申し込み、結婚する。それだけだ。交際を受け入れられるか、結婚を承諾してくれるかは相手次第だが、知り合いを通じて出会ったわけで、よほど気に食わないところがない限り大丈夫な気がする。そういう上からの態度でゴリゴリいけば付き合えるのかもしれない。
でもこれはイメージだけだ。サイトウのことを無視して、イメージに対して付き合ったり結婚したり家族を作ることを押し付けて、俺の息苦しさからの解放を叶えようとしている。俺は俺の息苦しさの原因がそこにないって知っている。
サウナ施設から出て、話題となっているトリエンナーレの会場を観に行った。問題とされた展示コーナーは閉鎖され、騒ぎはすっかり収まっているようだった。人っ子一人いない真昼の都会が映し出される映像を、座ってじっくり観た。壮大なRPGのセットみたいだと思ったり、すごく落ち着く気持ちになったり、ちょっと落ち込んだりした。
会場から出ていく時、ハッカの匂いが鼻をついた。陽が長い影を作っていた。暑かった。ひつまぶしを食べて帰った。

係長が蜂窩織炎で入院した。先週の金曜日、いつもと違って定時で帰ったのは記憶に残っているが、体調が悪そうには見えていなかった。実際は木曜の夜から微熱があって、そして足が腫れていたらしい。土曜の昼過ぎに耐えられなくなって、病院を探して行ったら入院となったそうだ。二週間、係長が不在となり、ミヤモトはいつもの余裕がなくなった。あれもそれも、いつもなら係長がさっさと対応してくれていたことを全部、ミヤモトがこなしていかなければならなくなった。
しかし、そうやって集中していると楽しいもので、次々来る依頼や照会、こちらから頼んでいたもののとりまとめなど、騒いでいるうちにもう夕暮れだ。爽やかなほどに時間の進みがはやい。夜の八時や九時になると切り上げ、コンビニでパスタサラダを買って食べて、風呂に入ってすぐ寝る。その繰り返しなのに、一週間が充実して過ぎたようだった。
日曜日、病院へお見舞いに訪れた。事前に下着とか着替えとか、食べたいものとか必要なものあれば教えてくださいとメールしたが、「お見舞いなんて来なくて良いです」という返事が来た。部を代表していくので、そういうわけにはいかないとメールしたら「わかりました。でも何も要らないです」と返ってきた。ネットで調べると食べ物や花が挙げられていたが、果物を持っていっても切るのが厄介だし、花を生けるのも面倒だ。雑誌やら本もチョイスが難しい。悩んだ結果ミヤモトは知恵の輪を買った。自分が入院していて知恵の輪を持ってこられたら、結構嬉しいだろうと思った。
係長は病人のコスプレでもしているかのような、色の薄いパジャマを着ていた。体調の悪い人には見えなかった。マスクをしていない係長の姿を見るのは初めてかもしれなかった。
ミヤモトは開口一番「大丈夫ですか」などとお間抜けなことを聞いてしまったが、係長は「大丈夫ですよ」と答えた。
「なんでも下のコンビニで売ってて、下着もパジャマもタオルも、不自由ないんだよ。ここ二、三日は熱もないし、検査もなくて、すごく暇だった。たぶん、退院までもそんな感じだと思う。会社のPC持ってきてくれたら仕事できたのに」
係長がぽつぽつと話すから、ミヤモトはそうなんっすね、あー、いやいやなどと相槌を打った。仕事で不明なことないかといったことを一通り話し、困り過ぎてはないが係長がいないと大変っすよ、という旨のことを伝えた。困っていないと答えると、悲しむだろうと思ったのだ。それから、部の慶弔費から出された金一封と知恵の輪を渡した。
「皆さんによろしく伝えといてください。まあ、来週には出社するので自分で言うけど。これはミヤモトさんから?」
係長は知恵の輪セットの封を開けた。
「知恵の輪っす」
係長はちょっと苦笑いをしてから「いや、でも、ちょうどいい暇つぶしだな。ありがとう」と言った。
蜂窩織炎ってなってさ、独り身だって言ったら入院しろって言われて、ご家族いないなら大変だから入院しろとかって、まあそこまで露骨に言われたわけじゃないんだけど、そういう感じのこと言われてね。独り身ってそんな言われ方するのかよとか思っちゃったよ。まあ、四十越えて独り身のこっちが悪いんだろうけどさ」
そろそろ帰ろうかと思っていたら、係長が話し始めた。長くなるかと思ったら、すぐに話は途切れてしまった。
「うん、いや、来てくれてありがとう。休日に悪かったね。ほんと、皆さんによろしく伝えてください。あと一週間、頼んだよ。厄介なことがあったら一週間待ってもらってさ、そしたら僕も戻るし対応できるから。申し訳ないです」
係長は気恥ずかしそうな表情でそう言った。よけいなことを話しちゃったとでも言うようだった。ミヤモトはあと一週間ですけど困ったことがあったらメールしてください、退院の時の荷物とかそういうのもあるだろうし、と言ったが係長は、そんなのどうにかなるよ、大丈夫と言った。お待ちしてます、お大事にと言いながら席を立った。係長が知恵の輪を机の上に置き直して、小さく、ジャランという金属の当たる音がした。

サイトウに「昨日は戸越銀座の銭湯に行った」とLINEしたら「もしかしてこのアカウントってミヤモトさんですか」と、ミヤモトのツイッターアカウントが送られてきた。サウナに行ったことをツイートしていたので発見するのはそんなに難しくなかったのだろう。「そうです、特定早すぎ……」と返すと「人に言えない残念な特技です。私のアカウントはこちら。サウナ情報、共有しましょう」と「サ(イト)ウナー」というアカウントが送られてきた。
それからツイッター駒込のサウナに行ったとツイートしたら、どうだったのかとLINEが来たし、「初ルビーパレス」とツイートされたら「どんなもんでしたか」と聞いた。お互い土日にサウナへ行ってはその情報を共有して、会うことはなかった。会わずにいると、恋愛がどうとかハラになんて言おうとかが気にならなくなった。実際ハラに「ところで最近はどうなんすか」と言われた時も「うん、すっかり友達って感じ。紹介してくれてありがとう」という言葉がスッと出てきた。「ふーん。友達ねえ。おもしろくないなあ。ま、よかったっすけど」と耳をかきながらハラは欠伸した。「失礼な奴だなあ」と小突くと「冗談、冗談」と笑って誤魔化してきたからミヤモトも笑った。

係長が戻ってきた。はじめの一週間は、どうやら疲れやすいらしく、定時になると「ごめんね」と言いながら帰った。とはいえ八時間仕事してくれる人がいるとミヤモトのすべき仕事の量もガクッと減った。一時間程度残業して、サウナに入って、ビールとラーメンを飲み食いする生活が続いた。夏の夜のじっとりとした暑さにビールとラーメンは美味かった。家に帰るとすぐに寝入って、朝はバッチリ目が覚めた。五キロ太った。
寝起きが良ければ良いほど、寝起きが良くても今日一日大した仕事しないのに、なんて思うことがあった。仕事で何か成し遂げたいとは思わないが、大した仕事をしないままじりじりと怠い日々を送って死ぬのかと思うと、胃の底がひりつくような気持ちにはなる。
そんなおり、同期数人で飲みに行った。同期は十数人いたが、女性は誰も残っておらず、男ばかりの飲み会だった。ここ数年、自分らと近い年次の社員はどんどん転職しており、こうやって同期で集まると、「忠誠心の強い仕事好き」か「残されたボンクラ」の二極化が激しかった。残されたボンクラのうちの一人が来年の四月、俺らくらいの年代から何人かが現場の管理者で異動させられるらしい、なんて噂話をしていたが、それを聞いてもなんとも思わなかった。そいつは現場に行きたくないとか、もしかしたら単身赴任になるかもしれないとか騒いでいたが、働く場所、あるいは引越しをするだけで、きっと今と同じように自分は大した仕事をしないのだと思った。
九月から隣の部署の「俺は忙しい」おじさんのところに、研修を終えた一年目の新人、タナカが配属された。「忙しいおじさん」にどう脅されたのかわからないが、神妙な面持ちで慎重に過ごしているようだった。初日は定時で飲みに連れて行かれたが、それ以来ミヤモトより先に帰っていることはなかった。
「一人来たって俺の仕事量に変わりないよ」
ハラのところの課長にそう話しかけているのが聞こえてしまった。キモいと思ってしまった。

テントサウナのイベントのペア参加券が当たったので、ミヤモトはサイトウを誘った。「サウナ友達いないのに勢いで応募してしまって……」と書くと「いい瞬発力っすよ、嬉しすぎます」と返事があった。
下北沢には人生で二回目だった。東京に遊びに来た大学の同級生が所望して、散歩した。こんな狭い街にどうしてこんなにたくさんの人がいるのだろうと思ったが、その日も同じことを思った。
高架下に、テントサウナと水風呂が用意されていた。ミヤモトとサイトウは水着に着替えた。更衣室でミヤモトは、肉のついた自分の体をつまんでみた。ぷるんと震えた。大学生の時から比べて、体重が七キロ増加していた。
そのほか数名の参加者とともにテントサウナに入る。熱がこもりにくいので、ひっきりなしにストーブに水をかけて蒸気を発生させた。蒸気を発生させると、体感温度がグッと上がる。熱が肌を覆い、汗が出る。ふうと大きく深呼吸をすると、リラックした気持ちになる。このストーブに水をかけて蒸気を発生させる行為をロウリュと言う。サウナ施設では機器の故障などのリスクもあることから利用者が勝手にロウリュできないことが多い。大抵はイベントとして「ロウリュサービス」が行われる。熱波師と呼ばれる専門家がロウリュをしてから、タオルやうちわを使い蒸気を循環させて、客に熱を当てていく。「ロウリュサービス」をするとなると、たちまちサウナ室が満員になる。ミヤモトも何度もこのサービスを受けてきた。しかし、自分でロウリュしたことはなかったので、サイトウと二人して嬉しがって水をかけまくった。
テントサウナを出ると、汗を流してから、頑丈で大きなビニールプールの水風呂へ入る。温度一桁台の水風呂で、温まった体でも凍りそうに冷たい。足先から慎重に入り、体全体を浸からせる。冷たさは心地よさに変わっていくが、あまりの冷たさに一分もしないうちに脱出してしまう。
貸し出されたバスローブを羽織り、椅子で休憩していると、体が熱を取り戻し、芯から温まって気持ちが良くなる。ミヤモトの恍惚とした表情を見てサイトウが笑うが、そのサイトウの目も普段よりトロンとしている。
サウナ、ロウリュ、水風呂、休憩を三度繰り返した。
最後の休憩時にビールを飲んだ。このイベントがビール会社主催のものなので、乗っかることにした。他の参加者らも飲んでいて、「気持ちいいっすね」「最高ですね」というような、ちょっとした会話が生まれていた。
「お二人はご夫婦ですか」
と年下に見える男性から言われた。
「いや、違いますよ。夫婦。あはは」
とミヤモトが笑って答えたら男性は不思議そうに、
「付き合ってるんですか?」
と質問を重ねてきたので、
「違いますよ」
ともう笑わずに答えた。男性のグループが「付き合ってないのかー」「え、お似合いじゃないすか」「いいよな、彼女とサウナとか」「違うって」などと囃し出したから、
「そういうの、やめてくださいね。すいません」
とミヤモトはやんわり言った。男性らは「すんません」と言ってビールを飲んだ。サイトウは小さな声で「そうだよねえ」とミヤモトに言った。いえ、もう、なんか、すいません、とミヤモトはもごもごと謝った。

新入社員のタナカは目に見えて疲れているようだった。初めは元気な挨拶をしていたが、日に日に声が小さくなっていった。忙しいおじさんはタナカの元気がなくなればなくなるほど、声も態度も大きくなるようで、そんな隣の部署のギスギスした雰囲気が、こちらにも伝わってくるのだった。
そんなことを意に介さず、係長は日に日に元気を取り戻し、残業続きの生活を始めた。
タナカのことも、係長のことも、どうにかしてあげたいような、放っておくしかないような、ミヤモトはそんな諦めた気持ちで二人を見ていた。

その頃、テレビでラグビーの試合を見た。ニュージーランドオールブラックスが試合前にリズムを取り、舌を出して踊っていた。会場内が大いに盛り上がり、相手選手らも充実した表情でそれを見ていた。ハカと呼ばれるその踊りにミヤモトは試合以上に興味を持って、YouTubeで「新古今HAKA集」という番組を見た。
ハカには二種類あるのだが、そのうちの古い方、カマテはこんなことを歌っていた。

私は死ぬ、私は死ぬ
私は生きる、私は生きる
見よ、この勇気ある者を
ここにいる毛深い男が
再び太陽を輝かせる
一歩上へ、さらに一歩上へ
一歩上へ、さらに一歩上へ
太陽は輝く

俺もいつか死ぬし、今は生きている。ミヤモトはそう思った。勇気ある者と言えるような人間ではないけれど、太陽の下、生きて死に一歩ずつ近づいている。嘘じゃないなと思った。
仕事を始める前に朝礼でみんなで踊りたい、とサイトウに送ったら、「気合い入りそう」「でもそんな職場はちょっと嫌」「ブラック企業……!」と返事があった。

お手洗いでタナカに会ったので「無理してないですか、体調大丈夫ですか」と声をかけた。知り合いではない、同じフロアの顔見知りくらいの人間に、いきなり心配されてタナカは驚いたようだった。「全然、大丈夫ですよ。ありがとうございます」とタナカが神妙な面持ちで答えたので、「突然すいません。ちょっと気になったもんで。無理せずがんばってください」と慌てて答えた。それ以来、すれ違うたびに声をかけるようになって、タナカもちょっとした休憩みたいな雰囲気で応えてくれるようになった。

おじさんらの後ろにいれば、その列の最後尾にいれば、生きるのは難しくない。そのうち自分の順位も上がる。男ならこの列に入ることに資格も要らない。ぼーっと突っ立って。前が進めば一緒に進む。前の人がやっていることを真似して自分もやっていれば、列からはじき出されることもない。

カツカツとハイヒールを鳴らして歩く女性の後ろ姿をじろっと男たちが見る。女性の制服姿にも同じように一瞥食らわすが、男子学生には目もくれない。男性でいれば透明でいられる。彼らは列に並んでいる。女性だけが存在しているかのように、おじさんらはそちらを見る。

男は皆おじさんになる。おじさんは集団で生きている。まるで孤独なふりをしているが、実際は透明な、ぶよぶよした塊だ。周囲に当たり散らかし、にもかかわらず迷惑をかけているのは俺ら以外の全てだと思っている。
だから、俺はおじさんの一員にはならないようにしたい、とミヤモトは思う。
不快感を与えないように、でも自分自身も楽しい服を着たい。他人のことをジロジロ無遠慮に見たりしない。すいませんとか、ありがとうとか、電車の中やお店で意識して言うようにする。
自分の存在を朗らかにしたい。再び太陽を輝かせる。