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いつも考えていること

フィールド・ノート(第9話)

 改札前にはもう、ダイキとフトーがいた。
「おーす。寒ない?」
 フカミはよれよれの長袖シャツ一枚のダイキに声をかけた。
「今は寒ない。着るもんなくてなんか羽織ろうとしたら、冬物しかなかったから」
 フトーを見やると、こっちも黒いVネックの長袖シャツだけだった。
「今日はいける」
 とフトーが言う。
「寒さ知らずの二人やな」
 フカミはシャツの上に薄手のセーターを着ていて、なんなら鞄の中に厚手のパーカーを入れていたから、二人の温度感覚が信じられない。
 遅れてやって来たしのは、スタジャンを羽織っていた。
「ほれ、こんくらいが普通やで」
 としのに挨拶する前にフカミが言うと、ダイキとフトーは「いや、まあ」「それはそうかもしれんけど」とにやにや笑った。
「なになに?」
 しのに二人の薄着について話すと、まじまじと二人を見たしのは「ほんまに寒いやろ、そのかっこ」と真面目にコメントした。
 行き交う人が多いような気がするのは、ダイキとフトーが言うように今日が暖かいからだろう。自分たちと同じように、連れ立って出かける人たちが目につくような気がするのは、自分たちが連れ立って出かけているからだろう。交差点の人波を避けつ当たりつ歩く。
 大阪にあるスーパー銭湯へ行きたいと言い出したのは、フカミだった。岩盤浴に入ってみたかったのだ。
「十年ぶりちゃう?」
 しのがフカミに向かって言う。
「大学二年か三年か四年やから、十年ぶりやろうなあ」
「記憶のブレが広いな」
 フカミのあやふやな記憶にダイキがツッコむ。このスーパー銭湯の横に、プールがあって、大学二年か三年か四年の時、しのと来たことがあったのだ。ダイキもいた。ダイキが大学で知り合った女の子らを誘ったら、ノリよく一緒に来てくれて、フカミにとって人生で初めて、そして最後の合コンみたいな会だった。
「ダイキが女の子連れて来てくれたよなあ」
 フカミがそのまま口に出したら、
「そうそう。もうどんな子らやったか全然覚えてへんけど」
 としのが相槌を打ってくれた。
「初対面やし、水着着てるし、まったく直視できてへん。まだ付き合いあんの?」
 とフカミがダイキに聞くと、
「もう、全然ないなあ。ちゃんと就職してるとは思うけど、今どうしてるんやろ。分からん」
 とダイキが気のない返事をする。
「ぼくはほんまに初めて来る」
 フトーが建物を見上げて言うが、そんな見上げるほど高くもないし、キレイでもない。足元を見れば、薄汚れていて年季を感じる。建物の中に進んでも、確かその十年前に行った頃の、ちょっと前にリニューアルしたことが話題というか、CMでやたら喧伝されていて、今でもその時のCMソングなんかが頭に浮かんでしまうくらいで、だからその十年前はイメージよりはキレイだというようなことを話した気もするが、それでもすでにどこか薄汚れている印象だった。
 今こうして見ていても、当時よりもますますキレイでもなく汚くもない。ただの古びた建物となりにけり。
「『初めて来る』なんてほど感慨深いところちゃうやろ。でかいスーパー銭湯やん」
 とフカミが言うと、フトーは素直に「うん」と肯いた。
 茶色いパイル地の館内着に着替え、岩盤浴のコーナーに行く。真ん中に休憩スペースがあり、その周りを取り囲むように、温度や湿度、照明や香りの異なる六つの部屋に分かれている。
 最初は四人でぞろぞろと部屋に入っては部屋の中が満員で出る、というようなことを繰り返したが、そのうち諦めてめいめい過ごすこととなった。
 
 フカミは露天風呂の脇のベンチに座り、岩盤浴でほぐれた身体を休ませていたら、
「あ、こんなところにいたんや」
 とフトーが横に座った。
ロウリュウ、ヤバいなあ。めっちゃ気持ち良かった」
「あれ、ええね。サウナは前から好きやったけど。上に溜まってる熱い空気を下ろすって、誰が思いついたんやろ」
 塀の向こうに見える高架線を電車が通って、会話が途切れた。子どもが走り回っていて、案の定どんくさそうな子がこけて泣いていた。フカミらと同い年くらいの人が駆け寄って抱き上げた。いや、同い年くらいのようには見えなかった。上のようにも下のようにも見えたし、どちらであってもおかしくない。しかし、自分らと同じように連れ立った男というのは明らかに年下か、もうずいぶん年上のどちらかのように思えた。
「ええね。死にそうやわ」
「なにそれ」
「天国にいるみたい、って言うやつと同じ」
「あー」
 フトーが大きな声を漏らすと、近くを歩いていた子どもが「あー」と真似して言った。フトーが張り合って「あー」と声を出して、子どもはわーっと叫ぶように笑いながら駆けてった。
 
 サイゼリヤに移動するとデキャンタを頼んで、乾杯した。
 フカミとフトーが露天風呂に入っている間、しのとダイキはふかふかの仮眠用チェアに寝転びでしばらく寝ていたらしい。しのは椅子から足がはみ出て、通ろうとする人が当たるから鬱陶しかったとぼやいた。
「や、ていうか、今日はフトーが何してたん、ていう会やった」
 とぼやくのを止めてしのが言って、三人ともがフトーに視線をやった。
「北海道で一か月チョイ暮らしてた。ゲストハウスっていう簡易の宿泊施設みたいなとこで住み込みで働きながら」
「北海道?」
 しのが理由を問うと、
「大した理由はないねんけど、モエレ沼公園っていうところと自分の祖父母の墓に行こかな、と思って」
 とフトーは答えた。
モエレ沼公園ってどんなとこよ」
「そういう、おっきな公園が札幌にあって、イサム・ノグチって彫刻家が大地を彫刻するってコンセプトで作ったものやねん。こんな感じ」
 しのの再びの問いにフトーはスマホで写真を見せてくれた。一面雪に埋もれた三角錐の山が写っていた。見たことのない景色だった。
「なんか、すごいな」
 フカミが感想を漏らすと
「なんか、すごいねん」
 とフトーが応えた。ダイキはほっぺを人差し指でかいていた。ゲストハウスであったことを聞こうとしたが、大した話はないと言って、終わってしまった。また、居酒屋に戻るよ、とフトーは北海道にいたことも居酒屋で働くこともどちらも他人事のような、どうでもいいことのように言った。
 それから、最近亡くなった芸能人の話とか新しく始まったドラマおもろいとか、そんなことを話してから、フカミが強引に相撲の話を始めたけれど、ちょっとずつ話はずらされて、最近の流行が分からない、という話が始まった。
「ほら、もともと何が流行っているかとかそんなに気にしてなかったけど、ティーンの頃は気づいたら流行りを知ってたわけやん。それが今、知った時には終わった流行やったりするから……」
 フカミは感じていることを述べてみたが、話しながらそんなこと考えていたんだなあと自分でもおかしかった。少しばかり大袈裟におじさんぶっている気がしないでもなかった。
「年末の流行語大賞で初めて流行語を知る、みたいな感じやな」
 しのがそう言うと、ダイキが
「それはヤバいな」
 と若者代表のような口調で言った。
「そういう意味では海外行ってたから、ぼくなんか何も知らんよ。最近、ブルゾンちえみとかアキラ100%を知ったもん」
「それはしょうがないやろ。新しいことを知らんよりもむしろ、『忍びねえな』が伝わらんかったりすることがショックかもしれん」
 フカミが懐かしい言葉を言って、
「『構わんよ』って、えーと、トータルテンボス!」
 お笑い好きのダイキが少しはしゃぐ。
「会社の後輩、『奈良県立民族博物館』とか『チリンチリン』とか『皮膚科の先生に相談するわ』とか『落合の頭が出たら親の総取り』とか、そういうM1のネタ、まったく通じへんよ」
 とフカミが言うと、
「会社の後輩にどういう話してんねん」
 としのが笑った。
「さすがに『鳥人』は分かるんちゃう?」
 とフトーがやけに真面目な口調で言うから、三人そろって
「ぜったい分からんって」「分からんやろ」「それ知ってたら全部知ってるわ」
 と否定した。
 そうかな、とかいやいや、とか言い合って、
「自分たちが普通に知ってることを、年齢が上の人に通じないのは知ってたけど、年齢が下の人らもちゃんと知らん、って言うのはおっそろしいなあ」
 としのが誰かの顔を頭に浮かべている様子で言ったら、
「や、今この四人はコモン・センスとしてM1のネタを大抵把握してるけど、それは同じ年齢層でもそうなのか、ってのはある」
 と真面目ぶったままフトーが返した。
「あー」
 とフカミが感嘆していると、フトーが続けて、
「なんていうか、この四人に多様性がないっていうか……」
 とおずおずと言ったので、フカミは答えた。
「まあ、M1のネタをどれだけ把握しているかが多様性、ダイバーシティかどうかというとまったくそうではない気がするけど。
 でもティーンの頃は、自分は普通じゃないって思いたかったし思えてたのに、今は自分を普通やって認識できちゃうというか、普通であることをちゃんと望んでるし、時々人に向かって『普通そうやろ』とか言っちゃえるねんよな」
 しのが「『ダイバーシティ』の言い方よ」と笑うが、フカミはそれには応じず続けた。
「普通じゃないしんどさとか不安とかを分かってたつもりやのに、今は自分だけでも普通であろうとするというか、しんどさとか不安とかはもう勘弁、みたいな気持ちがそこはかとなくあるねんよなあ。
 よくよく考えたら、いやよくよく考えんでも、もうほんまただのおっさんになってんのよ。会社にはもっと年上のおっさんがおるから、この年齢はまだおっさんって言われへんだけで。
 絶対あの頃の自分らからしたら、めっちゃおっさんやねん」
「なんとなく分かる」
 しのが同調したが、ダイキは懐疑的な表情だった。フトーは同意して
「バイト先でちょっとおっさん扱いされるのは、確かに違和感ある。自分のイメージしている自分はそこまでおっさんじゃないぞ、って。『世代感じるわー』みたいな話題って、自分としてはちょっとわざとやってるのに、割と真に受けられてる感じとか」
「そうそう、年下相手とかにたまに『おっちゃんはそう思うで』的な、要は『おっさんを演じてる』だけやのに、マジでおっさん扱いされた時のショック」
 とフカミはフトーに同意した。
「年を取ることが受け入れられてない、とか?」
 とダイキが三人を胡散臭げに見ながら言った。それで、フカミは思いつくままに
「や、おっさんの楽さを謳歌してるねん。おっさんってこの世界の中であまりにも普通過ぎて、あんまり咎められないというか、堂々としていられるというか、得してるというか、割がいいというか。
 だから、たとえばこの先四十後半でリストラされたら、大して手に職もないただのおっさんとしてしんどいとは思うねんけど、でもたぶんそうなったらそうなったで、何かして働こう、生きようって切り替えられる自信がある。図々しさみたいな。
 ティーンの頃みたいに、最悪死んだらええやん、っていうチョイスができなくなっちゃってる自分がいる。まずは必至に生き延びようとするようになっちゃったな、って。結婚したとか、そういうのとは関係ないとは思うねんけど」
 と言ったら
「おお、まあ、分かる」
 とずいぶん姿勢の悪くなっていたしのが座り直し、テーブルに腕を置いて言った。
「もしかするとおれはまだ子どもでまだ『死んだらええやん』って気持ちがあるかもしれん」
 ダイキが呟くように言ったのには、フカミも誰も返事できなかった。しのがこれまでのこととは関係ないことのように
「こないだ本で読んだんやけど、人間ってのは無限に比べたら無で、無に比べたら結構あるよね、みたいなところがあるらしいから、しゃあないんちゃうか」
 と言った。しばらく誰も返事しなかったので、フカミは今のしのの発言を頭の中で反芻してから
「中途半端さに白黒つけずにやり過ごせるかどうか、みたいなこと?」
 と適当に言うと、
「まあまあ、そんな感じ」
 としのはワインを飲んだ。
「結局ウィーアーエイプ、やな」
「なんそれ」
「サチモス、知らんの?」
 最近流行ってるんちゃうんけ、とフトーが言ったので、また最近の流行が分からない、という話に戻ったり、最近見たテレビのことを話したりした。
 
「え、からあげクン食べたことないん?」
 店を出て、コンビニの前を通った時のダイキの発言に、フカミは素っ頓狂に驚いた。すると
「おれも食べたことない」
 とフトーも言うから、フカミはあまり大声で言うのも失礼かと思い、小さな声で
「へー、そんな人おるんや」
 と言った。しのが挙手しながら
「おれ、うまい棒食べたことないねん」
 と小声で恥ずかしげに言うと、ダイキが
「嘘やん、それは難しすぎるやろ。からあげクンはありえるけど、それは難しいやろ」
 と強めに否定した。フカミはどっちもどっちやろ、と思ったが
「あ、おれも食べたことない」
 とフトーがまたしても同調したから、フカミは
「何やったら食べたことあんねん!」
 とツッコんで、ダイキが少し笑った。
「いや、からあげクンうまい棒以外に食べ物いっぱいあるやろ」
 とフトーからやけに冷静な反発を受けて、フカミはせやけども、と口の中でもごもご言った。
 
 帰りの電車でしのと二人きりになった時、もしかしたら子どもできたかもしらん、まだ安定期とかちゃうから人に言うタイミングちゃうらしいんやけど、と漏らされた。うん、まあ、ええ感じになったらまた教えてな、と軽く言った。
 ええ感じってなんやねん、と一人になってから思った。
 
 四月に入ると上司が変わって、何にも分かっちゃいない上に、昨年度からの残務処理も相まって、面倒なことこの上なかった。フカミは適当にやっつけて帰れるようにがんばったが、係長と二人夜遅く残ってばかりだった。新しく来た課長は久々に本社に戻ったからか、連日飲み会続きで、やれ誰と飲んだあれと話したと得意げに言うが、フカミには興味のないことだった。部長はわけわかっていないくせになかなか判子を押さず、枝葉末節を根掘り葉掘り聞いてくるから鬱陶しい。
 夜九時の電車に乗って、きっともっと大変な人、毎日終電みたいな人もいるんだろうけど、自分にはこれが限界だよ、と心の中で呟く。無限に働けることを前提に設計されても困ってしまう。
 聡子の会社も少し組織が変わったらしくばたばたしているものの、聡子にまでは影響なかったそうだ。二月末くらいの頃、何かの拍子に派遣社員を減らすようなことがあるのでは、と聡子は危惧していたらしいが、何も変わらなかった。
 家に帰ってご飯を食べて、お風呂に入って、ちょっとテレビを観て眠る。洗濯物を取り入れたり、食器を洗ったり、友達からの連絡に応えたり、細々したことがあって、とはいえ大したことはひとつもないが、晩酌すると翌朝に響くし、セックスする体力は残ってなくて、ただ一日を終えるのに精一杯だ。
 しのに子どもができたこと、会社の人達の生活、新聞やテレビで取り上げられる大変な暮らしを送っている人たち(漠然としたイメージ)のこと、そして自分の親のことを考えて、しかしもしかすると、忙しぶっているが自分はめっちゃ暇なんじゃないかと、フカミはうろたえた。
 父親は今、五十七歳だから、自分が二十六歳の時の子どもだから、今の自分と同じ年齢の頃、父親も仕事でいろいろ任されつつあっただろうし、現代よりも手作業の多かった時代だから何につけても時間がかかっただろうし、休日はほんとにしょっちゅう接待ゴルフに行っていたし、帰ったら動き回り始めた子どもが家にいたのだから、家事育児を大抵母親に任せていたとはいえ、暇なんてなかったことだろう。むろん、家事も子どもの面倒もせんければならなかった母親をや。
 今の自分のこの暇さ、ゆとり、怠慢、退屈さ。
 お金はないけどなさすぎることはない。とはいえ、あるって言えるほどでもない。子どもを生んだら何百万円、私学に行かせたら何千万円かかると言われたら、きっとどうにか捻出するんだろうなとは思う。
 ドキュメンタリー番組である分野を極めた人を見たら、胸がきゅっとする。自分がこうしてだらけている間も彼らは熱中しているんだろうか。自分は極めた人にはなれない。凡百のひとり、この社会にいてもいなくても差し支えない人、この豊かな社会の余剰。
 大した仕事をしているわけでもなく、自分のことで手一杯ってわけではないのに、何かを始める勇気のないまま、子どもを作ったり、仕事を極めたりする元気が欠けたまま、痛くなければいい、死ななければいい程度で生きていく。
 十代の頃、嫌だと強く思っていた状態に、今そのとおりなっている。でも、どこか手品を見せられたような、傍観者的な驚きしかなく、会社辞めてミュージシャンになってやるとか、そういうようなことはちっとも思わない。
 恐れていることは、いつか痛みを感じる日が来て、いつか死ぬ日が来ること。痛みは誰にも共有できない。自分だけが不快なのだ。死ぬ時に思い残すことなんてないだろうけど、死んだ後どうなるか分からないのが、死んだ後のことを誰も知らないのが、怖い。
 小学生の頃の眠れない夜、天井が動き出す夜、地球の自転を感じて酔ってしまう夜に感じた怖さを、やり過ごす理屈を得ないままこの年になってしまった。そのバカさ加減には、さすがにイラついてしまう。
 相手の寝返りで目が覚めることがないように、シングルベッドを二つつなげている。布団の中でスマホを見ている聡子を見つめると、聡子が視線に気づいてくれた。
 身体をずらし、掛布団ごと聡子を抱きしめた。聡子がフカミの腕や胸に顔を埋める。あたたかい。
 フカミはとりあえず安心することができた気がした。紛らわしただけかもしれないけれど、紛れたのなら上等だ。