Nu blog

いつも考えていること

10年ぶりに東浩紀を読む

2008年に大学に入ってすぐ、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生動物化するポストモダン2』が流行ったのを覚えている。宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』も発刊されて、「批評」ブームが来ていた。

どこの大学でも、頭でっかちな連中の間はだいたいそうだったんじゃないだろうか(同じ大学で同じように大学生だった妻は「まったく馴染みがない」とのこと。この落差こそ「タコツボ化」を象徴している?)。

動物化がどうだとか、セカイ系があれだとか、データベース消費だなんだとか、決断主義があれやこれやとか、批評好きが集まるとそういうような言葉が飛び交っていたが、私は批評に馴染めなかった。

まずはたくさんの作品に触れなければならない、という強迫観念があって、そういった言葉遊びに共感できなかった。

もっと言えば、なぜライトノベルや漫画のような「軽薄な」作品から、さらに「軽薄な」世界観を、あたかも真理を語るかのように語れるのか理解できなかった。そしてなによりも「おもしろい」「おもしろくない」という主観的判断を「あえて」しないところが腹が立った。

そして「ゼロアカ道場」などといって、ニコニコ動画を使った批評家養成企画が大変な反響を呼んでいた。

私はどうもニコニコ動画が好きではなく、あくまでもYouTube世代だと自負していたから、当時まったく見なかった。そんな個人的な事情はどうでも良くて、とにかくその企画は「終わらない日常」を打破するための「祭り」として機能していて、要は「批評によって世界を変える/世界が変わる」という信仰というか、妄信というか、素朴な期待みたいなものがパンパンに詰まっていた。

ロックやパンクの黎明期がこんな感じだったなら、たとえその時代に居合わせたとしても俺はそれに乗らないだろうとおもった。

もちろん私自身、東や宇野を読んで「そういう考え方があるのか!」と驚いたのは確かである。もしかしたらありえたかもしれない可能世界を想像・創造するためのフィクションという捉え方は強烈だった。

それまで中原中也ランボーばかり読んでいたので、そうした自分のクラシカルな趣味がアップデート前の世界に浸ろうとする懐古主義者のように思われたし、実際批評好きの連中と飲んでいるとそうした批判を食らった。まだ最果タヒ現代詩手帖の投稿欄に現れたくらいの時だったので、現代詩好きというのも売れない・意味ない・面白くないという扱いだった。

そればかりか、大学の専攻として、社会学の中でも統計や数理的手法に関心を持って取り組んでいた私は、「数字的な裏付けを重視する非理論派」的な扱いを受けるなど、散々だったのである。

要は、アニメとライトノベルで小難しい理論を語らなければ言えないとダメだ、ということで、それらに全く乗れなかったし、乗る気にならなかった。

私の周りにいた東浩紀フォロワーだけかもしれないが、彼らは小難しいことを言うためだけに哲学書に手を出すくせに、統計とかジェンダー論、あるいは自然科学など、特定の分野を「あえて」無視し、あくまでもポップカルチャーに耽溺しようとする逃避的姿勢があって、そのため私の趣味を冷笑するので、大変気に食わなかった。

まあ、「大学の知」が地に堕ちていたのは確かだったから、「批評」という在野的なものに惹かれる理由はなんとなく理解できる。しかし、その批評が「好き嫌い」を超えない範囲でしか機能していない(くせに「好き嫌い」をあえて隠す)のは不思議でならなかった。

大学を卒業して上京し、五反田を訪れるたび、東浩紀のゲンロンの広告が目に入った。グーグルマップを見ると「カオスラウンジ」が表示された。まだポストモダンとか、ゲーム化とか、そんな言葉遊びで若者(バカ者)を眩惑してんだろーなと勝手に思ってた。

『一般意志2.0』や『福島第一原発観光地化計画』みたいなのが出版されるたび、新聞やツイッターでそうした書名と名前を目にした。適当に書評を読んで、「SNS礼賛かよ」とか「ダークツーリズムか、興味ないなあ」とかザクッとした感想を持った。上述のように学生時代の雰囲気から、東浩紀を信頼ならない発言者扱いしていたから、読む気も起きなかった。会社で東浩紀の話など出てこないし、ポストモダンなど関係ないので、私は市井の人として、それらの著作を読むことなく日々を過ごしてきた。

 

以上、ここまではただの思い出話。長い。

このたび、ふと『テーマパーク化する地球』を読んだ。なんでかわからない。ふと読む気になった。

良い本だった。

とても素直な、率直で真摯な文章を読んだように感じた。

かつて抱いていた東浩紀フォロワーに対する、そうした「不思議」とか「嫌悪感」みたいなものの正体もうっすらとわかり、その上で現在の東浩紀自身の真っ当な姿勢が見えてきた。同時代の作家の現在進行形的なこういう文章を読めるのかと思うと、今の時代に生きてて良かった、とさえ思える。

 

この著作は2011年以降の八年間における「批評と社会の関係を考察したものを中心に集めた評論集」である。

前述のような感想を抱いたのは3部に置かれた「批評とはなにか Ⅰ」からで、そこで東浩紀は「俺のやりたいことって、流行に合わせて次々意見することだっけ?」という、素朴なところを語り始める。

そもそも書くという仕事で経済的に成功することだけが目標なら、必要なのは「いっぱい連載をもって書評もどんどん書いて、どんな依頼も断らずに世のなかを貪欲にウォッチ」みたいなことに尽きます。けれども、そうやってトレンドをつねに追いつつそれに合わせて文章を書くというのは、資本主義のなかで商品開発をし続けているのと同じです。(略)そんなすがたを目にするたびに「そうやって資本主義のリズムに巻き込まれるのがいやだから、本を読んだり書いたりしていたんじゃないの?」と疑問に思ってしまいます。(p251)

書くことが好きな私たちは、その夢想の中で、例えば雑誌や何かで時事問題をバッサバッサと斬っていくことを考える。しかし、それはただ来た球を打ち続けるだけのチンドン屋に過ぎない。

チンドン屋は客の金払いを常に気にしてなきゃならない。客というのは、読者ではなく、金を払ってくれるパトロンのことだから、本来読者に向けて面白いことをしたかったはずの書き手は、いつのまにか払ってくれる人の立場を気にしなくちゃならなくなる。

「払う立場」という2017年の評論では、批評家は考えたことを話したり書いたりして金を受け取る、つまり「トッパライの日雇い労働者」に近く、プロレタリアートであることを書く。

しかし、その批評家の条件こそが「知的優位性を証明するものと考えられたこともあった」し、柄谷行人も批評家は「売る立場」「教える立場」に立つべきと主張したそうだ。

だが、払われる立場というのは払われるに至る過程で生じる負担をだれかに押し付けている。

来た球を打ち返すチンドン屋として芸を売ることの裏には、多くのサラリーマンらの負担があることを忘れてはならない。また、経営者側がどのような意図で、その外に金を払っているのかも見極めなければならない。

実際、払う立場は雇い、仕入れし、そこに生じるリスクを取って、すべてに金を出していかないといけない。払う立場になった東浩紀はそう思うようになったそうだ。

売文業と自嘲して、やりたいことができるのか?

そもそも批評は売文なのか?

 

その疑問に対し、「職業としての批評」において、批評を病院や保険会社になぞらえる。

人は人生において一度は「精神的にも、文化的にも、知的にも、危機に陥るとき」が存在し、そんなときのために哲学や批評は存在する、という。

誰もが一度はそこに立ち寄るという意味で「哲学や批評はメジャーである」という視点に切り替わらなければならず、その視点からマネタイズできなければならないと言う。

たとえば文系学問不要論がよく話題になりますけど、あれは要するに、「いま大多数のひとは健康なんだから病院なんて不要だ」といっているようなものです。(p248)

「テレビや新聞で仕事をしていると有用性を証明しないといけない」あるいは「大学の知はいまや急速に有用性に向かっていますね。「講義のたびにこの知識をあなたに提供します」みたいな。」と内田樹以来語られる大学の消費社会化を取り巻く、役に立つ/立たないという議論は先の一言で解決するだろう。

そしてゲンロンの活動を「市場というのはじつにいい加減なところで、有用性がないけれどなんとなくやって生きているひとたちもたくさんいる。むろん、市場で勝ち続けようと思ったらちがいますよ。けれど、市場はすごく大きいから、有用性がないものにもお金を払うひとが一定数いるんですよ。」というから、他のオルタナティブなあり方が鋭く問われるところにも関心を持った。(p223-225)。

また

若手知識人によるオンラインサロン作りは最近のトレンドですけど、ゲンロンが病院だとするなら、あれらは美容外科だと思います。(略)ぼくの仕事は健康な人々のためにはありません。しかし他方で、病気がいいといっているのでもない。知識人のなかには、病気こそを高く評価し、健康なひとを貶めて「もっと病め、もっと病め」というひともいます。」(p248-249)

と書くあたりにも真摯さを感じる。先にも書いた「ゼロアカ道場」のことを「いまから振り返ればすべてが悪い冗談だったように見える。(略)批評はなんでもできる、なぜならばすべては批評だからと信じていた。(略)けれども、当時の書き手は、ぼくを含め、その可能性に直面することができなかった。新しいアニメやゲームについてさえ語っていれば新しさを主張できるのだと、安易な自己肯定に閉じこもってしまっていた。そこにゼロ年代の失敗があった」(p263)と反省し、

「哲学がゲームにすぎないとして、だとすればそのゲームはどのような観客をどのようにして生み出してきたのか、と問うべきだった(略)おそらく西洋においては、その哲学というゲームが生み出す観客こそが、「公共」と呼ばれ「市民」と呼ばれている。そして彼らこそが近代社会や民主主義の理念を支えている。日本にはそれに相当するゲームは存在しない。したがって市民も存在しない。(略)哲学はゲームである。だからそこに真理はない。意味もない。野球やサッカーに真理も意味もないように。けれども、哲学はゲームだから観客を作り出す。そしてその観客こそが、歴史的にも社会的にも政治的にも大きな役割を果たしている。野球の観客やサッカーの観客が、ゲームのルールを守るうえで大きな役割を果たしているように。」(272)

とこの衰退する言論界隈に、新たなゲームのあり方を提示する。これまでスポーツは、知的な観客を生み出してきた。哲学や政治など学問も、もっと知的な観客を生み出していかなければならない。

であるならば、個々に好きなものを追う私たちこそ観客である。私たちはどのような観客になろうか?

 

そのほかおもしろかったものを備忘的にもまとめておきたい。

表題ともなる「テーマパーク化する地球」では、七泊八日のクルーズに参加したことやインドのホテルのプールサイドでのんびりしただけであったことから、旅の新たな価値「検索語を探すために、新たな欲望を探すために、旅をする」ということを思いつく。

アメリカ資本のその客船は、船内にも船外にもテーマパークが作られ、船がハイチやジャマイカに寄港したことすら感じさせない。しかし、そのテーマパークを老若男女が(親子連れも、英語を話せない人も、障害者も)等しく楽しんでいるという。そのフラットさに公共的機能を見出す。これに関連して読んだ『テーマパークから考える』も面白かった。

あるいは「埋没費用と公共性」という2015年の論考では、「民主主義を守れ」と叫ぶ若者たちから「みんなで決める」が絶対善のように扱われているが、それは無敵の原理ではないことを喝破する。「みんな」には今生きている人しか入らず、死者もこれから生まれてくる未来の人も含まれない。ということは「いまここ」にいる「みんな」の利益を最大化することだけが優先され、原発も基地も大地や海を汚染することが「みんな」の利益になるのならば、正当化されてしまう。

世俗と功利を超える。「いまここ」に回収されないものを考える民主主義と資本主義では届かないものを考える。けれども「英霊」や「美しい国」にはいかない。その困難な道は「心の中で言っていること」に耳を澄ませることから始まるのだと、最近は考えている。(p.137)

「『一般意志2.0』再考」では、

本書はけっして、政治が大衆の欲望にもとづいて運営されるべきだと主張する本ではない。むしろ、政治は大衆の欲望にもとづくべきではないと主張している本である。本書が大衆の欲望をできるだけ細かく可視化すべきだと主張しているのは、それが政治の基礎になるからではなく、その限界を縁取るからだ。(略)大衆の欲望をそのまま実現するだけならば政治家は必要ない。(略)「一般意志2・0」または「民主主義2・0」は、、けっして大衆の欲望脳透明な反映を意味するのではなく、むしろ、欲望(一般意志)と政治(統治)のあいだの闘争のアリーナを意味する言葉なのである。大衆の「民意」がそのまま政治を動かし始めたら、世界はヘイトと暴力ばかりになるに決まっている。(略)二〇一五年の夏、ブラウザを立ちあげると、毎日のように、民主主義はこれだ、おれたちが民主主義だ、と叫ぶ新しい運動家たちのすがたが映った。けれども、素朴な民主主義はかならず暴力を呼び寄せる。情報技術によって大衆が結びつけば結びつくほど、動員が楽になればなるほど、そしてビッグデータの分析が進めば進むほど、政治はポピュリズムに呑み込まれ、身動きが取れなくなる。(289から290)

と現在にも続く問題が語られる。いま、大衆の欲望と政治は絡みながらイヤな感じの方向へ転がっている。

半沢直樹を観てたら、社員説明会の場でとある役員の不正を暴くシーンに遭遇した。「お前がコストだ!」などと絶叫し、人民裁判的にその役員を追い出す。証拠となる動画があったとはいえ、その場で人を裁くことの正当性はあったのかと疑問に思う。

あるテレビ番組のスタッフから新型コロナウイルス感染症に感染者が出た際、視聴者の反応に「対策を報じるテレビ局から感染者が出るとは何事か。きちんと説明してほしい」などというコメントが紹介されていた。

限りない大衆の欲望として「人間は無謬である」という無邪気な信仰が現れた。素朴な感想を述べる前に、落ち着けよ、と言いたい。