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いつも考えていること

フィールド・ノート(第5話)

 そろそろ春になってもらっても構わんぞ、というような晴れの日があったかと思えば、恐縮ですがまだまだ冬ですよ、というような寒い日に戻ったり、それを春へと向かう足取りだと前向きにとらえられるほどポジティブではないので、フカミは一回あったかい日になってしまったんやったら、もうずっとあったかいままでいてくれよ、とむやみに苛立ったりする。
 そろそろ花粉症の時期でもあって、フカミは花粉症じゃないからそのつらみが分からないでいるが、聡子は毎年この時期になると鼻の頭を真っ赤にしてティッシュの山を築く。
 久々の冬季オリンピックで連日夜更かしていた頃でもあった。モーグルハーフパイプリュージュといった競技を四年ぶりに懐かしく観た。白い雪を見ながら、暖かい部屋で冷たいコーラを飲む。それまでまったく興味のなかったカーリングがやけにおもしろかった。日本代表でないと試合中に話している言葉が分からないから、日本代表を応援していたら、最終的に銅メダルを取ったので、自分事のように嬉しかった。決まった時は、聡子と二人立ち上がってハイタッチをしたくらいだ。
 そんな二月にしのから「フトーからメールの返信がないけど、どうしたんだろうか」とメールがあった。それを受けてフカミは、フトーにLINEを使ってメッセージを送ったが、返事はなかった。
 二週間かそこら経ってから、ようやく既読となっていたが、既読となっただけで返事はなかった。
 そろそろ梅の見ごろだ、と思ったりしたが、なかなか観に行く機会が作れなかった。
 
 突発で休んだ日以来、しのは社会人になって初めて、自分の仕事の仕方を考えた。上から言われるままにお付き合いして、実は楽だった。来いと言われれば行き、やれと言われればやっつける。自分で考える必要が少なくて、楽だった。でも、体への負担が大きいから、もう無理だ。
 お昼ご飯を自席で食べていると、ラーメンをすする音、キーボードを叩く音、隣の人とごにょごにょ話し笑う声がそこここで聞こえる。高校生の頃、いつも同級生のN村やM田とご飯を食べていたけど、あいつら今頃どうしているのだろう。
 学生の頃、サラリーマンになったら人生が落ち着くのだと思っていた。毎日仕事をして、自分って何なんだとか、そういうくだらない疑問を考える間もなく、いつの間にか死ぬ、と。
 大学のなんかの講義で、フランシス・フクヤマという人が、民主主義と資本主義の勝利を「歴史の終焉」と断言した話を聞いた時、それは自分が就職・仕事に抱いているイメージそのものだと思った。民主主義と資本主義を超える・覆す体制が現れないという予言と同様に、就職してから先の人生に劇的な、新しい価値観が現れることはないだろうと予感していた。人生の落ち着き。ちょっとした喜びやちょっとしたトラブルがあって、死ぬまでの余った時間が過ぎる。
 それは、大学生・しのにとって、理想的なことだった。早く働いて、気がついたら死んでたいと思った。もやもやした毎日、形のない自分に決着をつけてしまいたかった。
 振り返って高校生の頃は、働きたいなんて一度も思ったことがなかったのだ。芸術家とかになって、波乱万丈な、物語のある人生を過ごしたい。人生を終わらせたくない、人生を始めたいと願っていた。願うだけだったけど。
 大学生になって、有り余る膨大な時間を抱え、暇つぶしの一つも思いつかない自分に嫌気がさした。願っていた人生を作る才能=自分で波乱を起こし、乗り切る才能なんてないと直感・痛感した。そう思えば、さっさと人生を終わらせたくてしょうがなくなった。就職が決まった時の嬉しさを忘れられない。ようやく、ようやく終わる、と。
 なのに、働き始めてから、いや働き始めてからこそ、人生は続いてしまうなんて。アホみたいだが知らなかった!
 もう死ぬだけだと思って、怠惰な働き方をしてきた。仕事だ、仕事だとバタバタすることで、生きるのではなく死ぬ方向へ進んでいると実感できた。なんと言えばいいのだろう。慢性的な自殺? 体を壊してぶっ倒れたかった。
 けれど、これは間違っていたわけだ。人生は続いていて、誰も終わらせてくれない。いまだに自分は大学生、高校生のメンタリティから何も変わらず、人生を人任せにしたがっていた。上司に、取引先に殺してくれと頼んでも殺してくれない。誰も他人の人生に関心がない。死ぬも生きるも当然、オウン・リスクだとは。
 なら、生きる方向へとシフトしていこう。死ぬのは、もうしんどい。呆れられても、笑われても、生きる方がとりあえずは楽だ。それに、今死んだら、カナが悲しむ。悲しんでくれる。悲しんでいるカナを想像すると、つらくなった。もうちょっと、死ぬ時っぽい時に死のう。そうすれば少しは悲しみも軽くなるだろうから。
 で、怠惰な働き方の筆頭たる接待の回数を減らせるよう努力し、少なくとも上司に誘われる三次会には行かないことにした。それだけで飲み代、タクシー代が浮き、睡眠時間も二時間伸びた。平日にちゃんと残業ができるので休日出勤の数も減った。
 嫌味な部長や取引先に「ちょっと前と変わったんちゃう。何や、奥さん怖いんか」とか「お、ようやく子作りで遊んでられんくなったんか」などと言われたりもしたが、つまりは気にしなければいい。人事査定はもともとどうでもよかったし、こんな程度で取引がなくなるようなこともないから、すべて影響ないことだった。
 自分のやってきたことは、誰にとっても、大した影響じゃないことだった。そりゃ、そうだ。
 休憩が終わる十分前、どさっと人がオフィスに戻る。しのは、椅子にもたれて、全体を、どこに焦点を当てるでもなく見ていた。あーあ、あーあ、と頭の中で訳の分からない音を発しながら。
 
 昼間が春のように暖かかったその日、七時半にしのは家に帰れた。家までの道中、電車内の整然さが、夢の中みたいに妙に感じられた。
 空の黒さが薄く、高校の入学試験の帰り道みたいだと思った。空がオレンジ色で、空を見たのがいつぶりだったのか思い出せないくらいずっと下を向いていた時のこと。がやがやと校門を潜り抜ける他の受験生らは誰も空を見ていなかったから、今、それに感動しているのは自分だけなんだと思うと、まずは恥ずかしくなって、でもすぐに嬉しさや、誇らしさみたいな気持ちと「受かったな、これは」と、自信とが満ちてきた時のこと。
 メールをしていたから、玄関のドアを開けるとすぐにカナが迎えてくれた。ここ二年くらい、さっぱりしていなかったことだった。
 晩ご飯の肉じゃがを頬張り、
「美味しいわ」
 としのが言うと、カナは
「それはそれは」
 と笑顔で言った。しのは、なぜだか恥ずかしくなって、お米に箸を伸ばし、目をそらした。
「仕事、なんか変わったん?」
 とカナが聞く。
「仕事は変わってないけど……。もうええやと思って、付き合うの止めてん。
 なんか、アホらしくなって。アホらしいやんな。ほんま。何してたんやろ」
 としのは思っていたことを言ってみた。
「よかった。なんかもうずっと、忙しそうで。
 でも、なんにもしてあげられんかったから、ごめんと思っててん」
 カナは怒られている小学生のように、机の角を触りながら言った。
「え、いや。忙しそうにしてたんはぼくで、もうぼくが勝手に忙しくて。
 なんにもしてなくてほんま、ぼくの方がごめん」
 しのは慌てて謝ったが、カナは首を振った。
「何してるんか、なんで結婚して一緒に暮らしてるんかとか全然分からんくなってきてたから、こうやって落ち着いて一緒に過ごせるのが、ほんま嬉しい」
 カナはいつも、ずっと前から素直ないい人やったもんなあ、と嬉しくなった。きっと自分が死んだら、悲しんでくれる。
 
 日差しに目を細めながら、ダイキは図書館までの道を歩いた。空気をかぐと、これまでの冬の冷たい空気と違って、暖かいにおいがするような気がした。
 通りすがったおじさんから、小学校の時の先生のにおいがして、小学校の時の入学式の時の不安さを微かに思い出した。そして、いつの間に自分はひらがなやカタカナを書けるようになり、漢字を覚え、四則演算や分数とか小数点を知ったのだろうか、それを思い出せないことを考えた。
 二次関数で解を場合分けしないといけないことに気づいた時のことはよく覚えていた。グラフに放物線を描いて「あ、このグラフ、動くぞ」と思った瞬間、頭の中でグラフが動き出し、解がおぼろげに見えた時の楽しかった気分。
 
 政治家の失言一覧を読みふけっていたら、学校帰りの学生が分厚い参考書を開く時間になったから図書館を出ることにした。積んで読めていない本を借りるため、受付に本を渡すと、
「毎日いらっしゃってますよね。学生さんですか」
 と声をかけられた。
 はっとして相手を見ると、ほっぺたが赤ん坊のような赤みで、短く切り揃えられた髪の毛も子供のようだったが、きっと同い年くらいの女性で、エプロンを付けていた。笑顔を湛えた顔がちらっと見えて、もう直視できなかったから、うつむいてダイキは「いえ」と小さな声で答えた。その人は「そうですかー」と気を悪くしない返事をしてくれた。
 でもダイキは、すげー嫌だな、と思った。
 
 残業で九時過ぎに電車に乗ったら、フカミのすぐ隣に立った二人組のおじさんらが大きな声で話していた。内容は一つも分からなかったが、片方のおじさんが片方のおじさんに「色々教えてくださいよ」というようなことをしきりに言っていた。すると、頼まれた側のおじさんが突然、長広舌をふるい始めた。
「私はもう大変な経験をしたんですよ
 それはもう地獄のような経験でしたよ
 今なんてほんと、天国ですよ
 なんにも怖いことなんてありませんよ
 もうほんと、全然大丈夫ですよ
 大したことはありませんよ
 あなたは全く幸せもんです
 また今度ゆっくり飲んで話しましょう」
 おじさんは言うなり停車した電車からさっと出て行った。残ったおじさんは「どうも……」と言ったが、降りたおじさんにはきっと聞こえていないだろう。
 フカミはスマートフォンをいじるふりをしながら、その弁舌をじっと聞いて、意味分からん、と思った。何だってんだ、と思った。きっとおじさんの中では、おじさんの人生はいろいろあって、地獄のような時期を乗り越えたから、今があると言いたいのだろう。そして、今は幸せだから結果オーライなのだと言いたいのだろう。でも、それにしてもなんなんだろう、あの、どこか自慢げな言い方は。
 フカミはいらいらして、言われていたおじさんをちらっと見ると、スマートフォンの画面上を熱心に指でなぞり、詰まれたものをばちばち消すゲームに勤しんでいた。フカミの前で座る女性もそれをしているようだったし、隣に立っている高校生は野球のゲームをしていた。
「この先少々揺れます、吊革等におつかまりください」というアナウンスが流れ、電車が揺れた。おじさんも前に座る女性も、高校生も、揺れに合わせて上手に画面をなぞっていた。すごいなー……。
 
 ラーメン屋の店先に置かれた券売機の前に立って、フトーはどれにしようか悩んでいた。つけめんか普通のラーメンかをまず決めたいのだが、どちらがこの店の売りなのか、調べずに来たので分からない。そればかりか、汁なし中華そばとか、辛味噌とか、特製とか、濃厚とか謎の接頭語があって、券売機のボタンは五十個近くある。
 そうこうしていると、後ろに人が立ってしまった。フトーは焦るのも嫌だったので、その人に順番を譲った。スーツ姿の若いような若くないようなどっちとも分からない印象のその男性は迷うことなくボタンを押したので、フトーは彼が何を買ったのか見逃してしまった。
 まだまだ寒さの残る外にいるのに、手汗をかいていた。昔から、少し焦ると汗が出てしまう。
 小学生の頃、尿意を催して小便器の前に立ったのに、待っている人が列をなしていることに気づいて、尿意が引っ込んでしまったことがある。それでも、今しなかった結果、授業中に我慢できなくなってしまったら……。堂々と手を挙げてお手洗いに行くことなどできるわけがないし、なんなら「あいつ休み時間に小便してたよな」とか言われるのでは……、と考え始めてしまい、ますます尿意が消え去った。自分より後に始めた人が先にトイレから出る。焦って汗をかいたのは、きっとそれが初めてのことだった。
 冷たい空気が、額に浮かんだ汗を冷たくする。
 また一人後ろに立たれたので、フトーは左上にある標準のラーメンを選んだ。店内に入ると「お一人ですか!?」と威勢よく聞かれた。一人です、と答えたら「少々お待ちください!」と壁に並べられた椅子を案内された。カウンターはちょうど埋まっていて、さっきの人に譲らなかったら、さっさと食べられたのにな、と悔しく思った。
 高校生くらいの男の子が、母親らしい眼鏡の女性に「久々だなー、このラーメン屋」と嬉しそうに言っていた。背中しか見えていないのだけれど、母親らしい女性は、関心がなさそうで、とにかく心底疲れた雰囲気を漂わせていた。
 ラーメンを待ちながら、ウキウキした様子で、座り直したり、壁に掛けられた店のポリシーを眺めたりしていた男の子が
「病院に来たらこのラーメン食べられるからなー」
 とひとり言のように言ったら、母親らしい女性が暗い声で
「せやね」
 と言った。
 その「せやね」が、母親と食事した時に聞いたことのあるもので、つまり、フトーが高校生の頃、母親と何か食べた時があって、それは祖母が入院していた頃で、だから、お見舞いの帰りだったはずで、病院の近くのお店に入った時のことだった。
 フトーは外食が嬉しくて、メニューを丹念に見て「これ、おいしいそうやんね」とか「悩むなー」などと言ったはずだったが、母親が「私決まったから」といつもと違ってそっけない声で言ったのは間違いない。その「私決まったから」がさっき聞いた「せやね」と同じだったけど、フトーはその時のお店が、どんな感じだったか思い出せない。
 そして、そりゃあ、自分の親のお見舞いというか、世話に行った帰りに何を食べようかなんてテンション上がるわけないよな、と思い至るが、絶対にその時は何にも思わなかった。ただ、とはいえ、少し変だなと思ったから、こうして今思い出すのだろうと思う。
 フトーはお見舞いに行くのが嫌いだった。好きな人なんてほとんどいないだろうけど。母親にわがままを言う祖母、看護師さんの言うことにははいはいと肯く祖母、フトーを見ても何も言わない祖母。
 フトーは、ベッドに寝転ぶ祖母を小さくなった、くしゃくしゃになった、と思った。
 フトーが小さかった時、夜寝る前にわざと怖い話をする嫌な祖母、フトーの嫌いなひじきや酢の物をたくさん出して、食べないと大きくなれないと脅す祖母。暖房に当たっていたら体が弱くなると蔑んだ目で言った祖母。その時は、絵本に出てくる魔女のような、大きな、怖い人に思えていた。
 実家に置いてある祖母の遺影は、年々薄くなっているようで、だからフトーの記憶の祖母も、なんだか薄い色をしている。今思えば、小さいがしゃっきりした祖母だった。どんな声だったか、思い出そうとしても、思い出せない。
 高校生の俺、そしてそこの君、お見舞いの帰りに外食ではしゃぐなんて、バカみたいだ。
 
 ポットでお湯を注ぎ、インスタントのラテを作った。それは、お気に入りじゃない犬の描かれたマグカップで、聡子は、お気に入りのものは何重にも包装して、大事にしまっておくタイプだった。
「そのワンちゃん、可愛いね」
 と向かいに座るおじさんが声をかけてくるから、まったく思っていないけれど、「そうっすねー」と返事した。三十歳を越した女が「っすねー」と言うことのやる気のなさが、ちゃんと伝わればいいのにな、と思うが、どうしてか伝わらない。
 このおっさんは、聡子の仕事に直接関係ない人なので、聡子にとってはこの日常会話に、業務上でも業務外でも、何らの価値がない、とばっさり思っていた。このおっさんが、聡子と同様に末席に座っているのは、鬱病等々の病気で休みがちだからで、かつては管理職もやったことがあるそうだけれど、今はコピー取りもさせてもらえないで、じっと座っている。
 可哀想、と聡子は思う。仕事がしたいと思ったことはないけれど、仕事させてもらえなくなったら、辛いんだろうな。
 前にニュースで、あんまりにも仕事させてもらえないから裁判した人がいるのを見た時に、すぐにこのおっさんを思い出したが、おっさんはきっと裁判なんてしないだろう。
 おっさん、おっさんと考えていたせいで、聡子はラテを味合わないうちに飲み干してしまって、もったいなかったと残念に思った。くそー、おっさんめ。
 おっさんは、消え入りそうな猫背でパソコンの画面を見ている。聡子は、次はこれを入力しようと、書類を手に取る。聡子が動いたから、おっさんがちらっとこっちを見たのが分かるが、聡子は知らん。書類とパソコンの画面とを交互に見て、入力作業を始めた。