Nu blog

いつも考えていること

フィールド・ノート(第4話)

 うーわ、全然数字合わへん。フカミは何度も資料の端から端まで数字を見回し、のたうち回っていた。いや、足し算は合う。エクセルは足し算を間違えません。母数である社員数が、昨年の数字と比べた時に大幅に減っているのだが、社員が大幅に減ったなんて話は聞かない。おかげでコンプライアンス違反の割合が、母数が減ったせいで大きくなるから、こんなもんを上司に見せたら「何があったんや!」と騒ぎ出すに違いない。
 こりゃあ、母数を適当にでっち上げた方が世のため、人のためかもしれん…。とは思いつつも、小さなことながら捏造は避けたい。頭をかきむしったり、机にガンガンぶつけたりしたいくらいだが、恥ずかしいのでしない。耳の穴からプスプス煙が出ているような気がする。
 横に座る田中君が「ふーむ」などと難し気な声を出してパソコンをにらんでいる。何の仕事してるんだろうかフカミには思い当たることがない。右隣の係長も、どっさり積まれた紙類に囲まれながら鬼気迫る表情でキーボードを叩いたり、資料を見返したりなんかしてる。その奥の課長や部長もパソコンに向かっているが、この人たちは時たまクリックしてるだけで、暇そうだ。羨ましい、この謎を解決するお手伝いをしてほしい、と思うが、思うだけ。
「そんなんではあかんよ、きっちりチェックしぃや」
「はいはい。うん? それやとこっちとの調整要るんちゃうん? あー、それならええんかな」
「いや、推測はええから、とりあえずぱっと電話して聞いてみ」
 よその担当ラインがわいわいやり取りしている声が飛び交い、オフィスは活気づいている。フカミの担当ラインは活気と活気の間に埋まって、陰気な感じ。
 
 出たとこ勝負じゃ、と出したままの数字で持って行って母数が変わった旨伝えたら、係長は特に興味関心なく、課長は「そういえば定年退職者数と採用者数のバランスを見誤ったって話、聞いたことあるなあ。それでいけるんちゃうか」と適当な助け舟を出してくれ、部長は「ま、ファクトやからね。件数的には増えてないし、ええんちゃう」などとやはり関心なく、すんなり通ってしまった。
 席に戻ると、先とは違いオフィスの中は海に沈められたように、静かになっていた。
 
 しのは、海辺に放っておかれたよく分からないごみっぽい、けど、そこまで汚くない何かの上に座って、職場へ電話した。電話に出た後輩に風邪を引いてしまったと伝え、課長に代わってもらう。
「どうした、風邪引くなんて珍しいな。二日酔いなら嘘つかんでもええぞ」
 課長の声だなあ、としのはしみじみする。
「二日酔いじゃないです。すんません。とりあえず今日お休みいただきます。すんません」
「なんか風強いな」
 どうやら海の風が受話器越しに聞こえているらしい。慌てて身を屈めて、スマホ全体を手で覆ってみる。後で後輩に聞いたところ、課長はこのあたりで個室へ移動したという。
「風邪引いてるらしいから、手短に言うぞ。もしも会社に来たくない気持ちになってるなら、有給休暇ある分しっかり休め。ただし、連続で休むな。一日おきに来い。上には、嫁さんが入院してるとかなんとか適当なこと言うといたる。下手に病院行って病名付けるな。長期の休職して戻ってきた奴、ほとんどおらん。戻れたとしてもしんどいぞ。自分をコントロールしろ。一か月は付き合ったるから、そこは安心しろ。それでも無理なら、後はお前次第や。以上」
「……はい。明日はとにかく行きます。すんませんでした」
「今日明日やっとかなあかんことないか。他の奴にやらせるから」
 しのは二、三ややこしいクライアントの件を伝えた。
「分かった。最後にもう一つ。うちはブラック企業じゃない。自分のやりたい仕方で仕事を進めたらいい。これが住本流や、とか言うて押しつけてる気はない。自分のやり方が分からん奴が押しつけられたと思い込んでしまうことがあるが、俺から言わせたらアホや。まず、自分がどうしたいのか、仕事との折り合いをどうつけるんか、それが分からんうちは使われてる気分のまんまやぞ。そろそろ気づけよ」
 課長に謝辞を伝え、電話を切った。水面が光を反射してキラキラしていたが、冬っぽく色が薄いようだった。夏場の海は、もっと、こう、色が濃かったはずだ。
 立ち上がり、砂を払って、
「風邪、治すかー」
 と伸びをした。
 
 駅前のドトールで、スマホの電話帳を指でスクロールしまくるが、連絡する相手が見当たらない。
 一人カラオケ……、する勇気はない。なんかエッチなところ……、に行く勇気も元気もない。やりたいことがやりたいのになあ……、と喫茶店のメニューを見て、パフェの写真にも気が乗らない。
 ふと大学生の時によく聴いたSUPERCARの曲が頭の中、うろ覚えで聞こえてきた。あまりにもうろ覚えなメロディで気持ち悪かったから、イヤフォンをスマートフォンに刺して聞き直した。今の気分ではない感じがしたが、懐かしかった。
 音楽を聴きながらも頭の中では次に何しようか、同じことばかりぐるぐる考えた。喫茶店は暖房が効いていて、身体全体がぱさぱさになりそうだった。
 それでアルバム一枚、四十分ほど音楽を聴いて、ぱさぱさになった頃、ようやく踏ん切りをつけて叙々苑のランチを食べることにした。たとえ今すぐ石油王になっても、この程度の贅沢しか思いつかないだろう。根っからの庶民だから、奇想天外な贅沢も思いつけない。
 メニューから一番高いのにしてやろうかなんて思ってもみたけど、やめた。かといって、一番低い値段のも癪なので、中くらいのを選んでしまった。待っている間、なんだか恥ずかしくなった。
 で、食べた。
 美味いって思えた。
 そんなにお客さんもいないし、店員さんも近くにはいなかったけど、誰にも聞こえないように小さな声で「まだまだ大丈夫なんだろ」と呟いてみた。大丈夫な気がした。
 
 満腹の腹をさすりながら、また電話帳を上に下にスクロールして、ダイキの名前が目に入る。大学生の時に、フカミと三人で遊んだ日のことはそんなに覚えていないが、いつも前髪が鬱陶しく、バンプが好きで、フカミとしのがバイトしている時も、就活している時も何もしないでいた奴。
 さっきもちょっと思ったが、こいつは家にいるだろう。久々に会ってみようと電話番号をタップした。
 
 フカミが眠気と戦っていた午後三時、胸ポケットに入れたスマホが揺れた気もするし、揺れたとしてもただのメルマガかもしれないし、メルマガだったとしてもさっさと消して未読を知らせる数字をなくしておきたいし、でもまあ、すべてどうでもいいわ、などと思いつつ、眠気覚ましにトイレまで歩いた。
 仕事上の関わりが少ない部署を横切る。何をやっている部署かぜんぜん知らないが、フカミの部署と違って、いつもわいわいがやがや、上下ないように話し合っているし、遅くまで残っている。同じ会社とは思えない部署。ホワイトボードを使って議論をしたり、書類を受け渡す箱があったりする。フカミの部署にはホワイトボードはないし、書類を受け渡す箱もない。
 便器に腰かけてスマホを開くと、しのから「いま、ダイキと飲んでるから、仕事終わったらおいでよ」とのメールだったから、想像してないことが起きることもあるんだなあと感心した。
 しのには「オッケー。どこ?」と送り、聡子に「なんか、しのとダイキが飲むらしいから行ってきます。遅くならないようにします」とメールする。ダイキと聡子は結婚式以外で会ったことがない。ダイキはどうやら女性がいるのが好きじゃないらしいから、しのと飲む時のように聡子を誘えない。
 隣の個室の扉がバタンと大きな音を立てて閉まる。トイレットペーパーを引き出すがらがらという音が鳴り、鼻をかむ音、そして「ふぃーっ」という何とも言えない声が響いた。フカミはそれを聞き終えてから、静かにトイレットペーパーを引き出し、尻を拭き、そっと扉を開け閉め、個室を出た。
 
 会社を出ると、駅へと連なる行進が歩道を占めていた。
 暗くもなく明るくもないこの時間帯に、多くの人は家路につく。みんなどんな一日を過ごしたのだろう、と目の前の男性の肩を見て、フカミはふと想像する。久々の定時なのか、いつもどおりの定時なのか。この後用事があるのか、家に帰ってからも忙しいのか、家に帰ってのんびり過ごすのか。今日一日の仕事は楽しかったのか、楽しくなかったのか。そもそも今の仕事をどう思っているのだろうか。給料は十分にもらえているのだろうか。何か思いがけない悩み事があったりするのだろうか。
 妙に規則正しい足音がフカミを包む。嫌いだな、と思う。でも、この足音を構成する一員として、自分も今ここを歩いているんじゃないかと思う。外れることは難しい。取り乱したくはない。
 
 サイゼリヤに入ると、ダイキの顔は赤く、しのはグラスになみなみ入った赤ワインに口を付けているところだった。まだデキャンタ三個目だとしのは言うが、ダイキはそれほど飲めないから、しのがずいぶん飲んでいるようだった。
「しのが何ンもない日の過ごし方が分からんって俺に言うねん」
 ダイキが不服気にフカミに告げる。
「何ンもない日ってなんや」
「や、実は今日は俺、唐突に会社休んでん。で、一日好きなことしたろ、と思ってみても、したいことがぱっと浮かばなくて、あれ? って」
「それでスーツなんや。てっきり、外回りの仕事が早めに終わったとかかと思ってたわ。ええね、ずる休み」
「ええか悪いかは分からんけど」
 詰襟を着た中学生か高校生らは頻繁にドリンクバーに通い、男女混じった大学生ぐらいらは一人がおどけると調子を合わせるように全員でげらげら笑い、子どもを連れた女性らがちょうど帰ろうとしているところだった。
 人はいるのに、なんとなく閑散としていた。受胎告知の絵が、フカミの向かいに座るしののさらに向こうに飾られていた。
 しのは饒舌にいろいろ話すのだが、どこか要領を得ないと言うか、もどかしい言い方というか、核心を隠していると言うか、本当に言いたいことは絶対に言いたくないような感じだった。
 その本当に言いたいことを言わせられる上手なやさしさなど持ち合わせていないフカミは、普段よりはからかわないように、肯いてばかりいた。ダイキも、そんな感じで、適当に肯いてあげていた。
 
 しのは酔っぱらっている自分を自覚しながら、カナのことをすっかり忘れていることに気がついた。ひどいな、とは思わなかった。今日一日、夢中だったんだなと思った。ダイキとフカミに隠すように、ちらっとスマホを見ると「今日は実家に帰ります」とメールがあった。
「あ、カナが実家に帰ってるみたい」
 とわざとらしく言ってみたら、
「どないしはったん」
 とダイキがだるそうに言うが、
「喧嘩したとかちゃうんやけど、たまに帰るねん。ま、近いから、ええんちゃう」
 としのはすらすら口先で話してしまうので、嫌になった。
「帰って、酒臭いとか言われるのもあれやし、ちょうどええね」
 と思っているのか思っていないのか自分でも分からないまま、口が勝手に動くのだが、フカミもダイキも「ま、せやな」「そんなこともあるな」と相槌を打ってくれた。
 
 帰り道、しのは酔っぱらった頭が重かった。暗がりの中、母親に会いたいなと思ってしまった。涙が出たらいいのにな、と思っても出そうになく、とにかく悲しかった。
 母親は十年も前に亡くなっているのだが、いつまで経ってもこの気持ちは薄れない。けど、濃くなることもなく、毎日に薄く溶け込んでいる。寒さも相まって鼻水を垂らす。車が一台通れる幅の道を、電柱に手をやって休憩し、次の電柱までようやくよたよた歩く。
「あーあ、疲れたなあ」
 と酔っ払いらしいひとり言が漏れる。割と元気な自分だ。
 さっさと帰ろ。
 だらだら歩くのにも疲れて、酔っ払いにできるかぎりのしゃっきりした歩いてみたら、母親に会いたい気持ちはどこかへ潜むように溶けて消えた。
 
 翌日、仕事へ行ってみた。行けたし、できた、としのは思った。足がすくんだり、会社の前でうずくまったりするんじゃないかと思っていたけれど、何事もなかった。
 朝、課長からは何も言われなかったので、しのは小声で
「また、危なくなったら、休みます」
 と伝えた。
 キーボードを打つ手を止めた課長がちらっとだけ視線をしのに向けた。
「そうならんようにうまいことやるもんやろ」
 とそっけなく言われ、あっち行けと手を振られた。
 しのは、この上司の態度をどう捉えればいいのか分からなかった。
 
 聡子がベッドから出た音が聞えたので、フカミは右腕を体の前に持って、人差し指を天井に向けて立てて、口角を上げて微笑んだ。
「おはよー、なにそのポーズ」
「さて、なんでしょう」
「うーん。ジョジョ立ち?」
「ブー」
「うーん。ゴルフのスウィングの後?」
「全然違う」
「分かりませーん」
 聡子は、あくびをしながら洗面所へ行ってしまったので、フカミはポーズをやめた。
 雑誌を読むと、もう春のことを話題にしているのに、真冬の寒さが続く二月の初めだった。暖房をつけたリビングで、フカミは聡子のことを待っていた。なんとなく、いつにもまして聡子とじゃれつきたかったのだ。
 聡子が顔を洗う音が聞こえる。
 朝起きてすぐ暖房をつけるようになったのは聡子と結婚してからだ。聡子と暮らし始めてから始めたことはたくさんある。毎朝洗濯機を回すこと、毎朝テレビをつけて芸能ニュースを眺めること、カレンダーを壁に貼ったこと、ドライフラワーを飾ったこと、人形と一緒に寝ること、毎週末買い物に行くこと。
 テーブルクロスやハンカチを何種類も持っていることもフカミ史上初めてのことだし、気に入った家具を探しにたくさんの店を見て回ったのもフカミ史上初めてのことで、十万円以上の買い物を立て続けにやってのけたのもフカミ史上初めてのことだった。
 聡子といると、初めてのことを始める楽しさがある。それまでの自分なら面倒だな、嫌だなと思うことを、聡子とならやらなきゃな、どうせなら楽しもうかという気持ちに変えてくれる。
 電気カーペットの上に正座しているフカミの上に、顔を洗い終わった聡子が覆いかぶさって抱きついてきた。
「さっきのポーズ、正解は何なん?」
 と頭の上から聡子の声がする。フカミはおっぱいに挟まっている。
ダヴィンチの洗礼者ヨハネのポーズやん」
「なんじゃそりゃ」
 聡子はそう言うと、ダイニングに行きパンを焼き始めた。平日は毎朝、出るタイミングは一緒なのに、フカミの方が一時間早く起きるから、朝ご飯は別々に食べる。フカミの淹れたコーヒーはもう冷めているが、猫舌の聡子は、それくらいがちょうどいいと言う。
 
 ダイキは久々に十時に起きた。ずいぶんの寝坊だった。
「めんどくさ」
 と呟いた。昨日のしののことだ。付き合わされてしまったな、と思う。
「ま、俺ら友達おらんしな」
 とまた呟いて鏡を見たら、髪の毛がすべて重力に逆らっていた。
「まじでめんどくさい」
 ダイキは走って部屋に戻り、布団にダイブしてじたばたした。