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いつも考えていること

フィールド・ノート(第2話)

 玄関先に積んであるコープさんの荷物を目にすると、もう二年もこの契約を続けているのに、いつも感動してしまう。エレベーターのない三階までお米やジュースを運んでくれて、本当にありがとう。でも、玄関先じゃなくて、できたら冷蔵庫に入れるところまでやってほしい、鍵は渡しておくから。
 保冷用のアルミシートをひっぺがすと、発泡スチロールの蓋が擦れて嫌な音が鳴った。「あー、もう、あー」
 と文句を垂れる。自分の足でスーパーに行き、三階まで運ぶことを考えれば、なんの文句もないはずだが、そんなことを殊勝に思うのは数か月に一度だ。
 玄関先から玄関へぽいぽいぽいとモノを放り込んで、玄関から冷蔵庫へえっちらおっちら大仰に運ぶ。冷蔵庫が満タンになって、やっとウキウキした気持ちになる。
 来週もウキウキした気持ちになるためには、チラシを見て注文しなきゃならない。自分の足でスーパーに行って、うろうろ店内を見て回ることを考えれば、何も面倒なことなどないはずだが、そんな謙虚なことは思わない。
 聡子が「さむさむさむさむ」と連呼しながら、リビングに飛び込む。
「うー、さむ」
「残業?」
 フカミの問いかけに「せやねん」と頷く聡子。毎週木曜日は意図して残業しているんじゃないか、とフカミは思う。だって、先週も先々週もフカミがコープさんを入れた。なんて、文句を言っても仕方がない。
「あ、コープさん入れてくれてありがとう」
 と聡子が冷凍庫の中を見て言う。「ほいほいほい」と返事をする。どうでもええんやけど、と思うことにする。
 
 ぽたりぽたりと汗がタオルに落ちるのが気持ちいい。
 飲む前にしのを誘って、フカミは銭湯のサウナに入っていた。銭湯だのサウナだのが気持ちいいと知ったのはつい半年前のことだ。こんなに気持ちいいならもっと早く知っておきたかった。すべてのだらだらしてきた時間をサウナに充て直したいくらいだ。
 太ったおじさんがふーふー言いながら出たので、室内にはしのとフカミと小さなおじいちゃんの三人になったから、フカミは小さな声でしのに話しかけた。
「調子はどうなの」
「相変わらずやね」
「接待ばっかりってのはどうにかならんのかね。体が持たんやろ」
「上司見てたら、四十歳五十歳んなって、出世しても接待で飲み続けてる」
「きついな」
「ま、どうにかなるやろ。
 それよりさ、めっちゃ前になるけど、ヨギーの新譜聴いた?」
「聴いた。最高やな」
 サウナの中は谷村新司の『昴』が流れていたが、フカミは頭の中でYogee New Wavesの曲を流す。おじいちゃんにとっては『昴』の方が自分の人生にしっくりくるかもしれないが、フカミやしのにとってはヨギーの曲の方が人生にしっくりくるのだ。
『昴』が終わると、小さなおじいちゃんが立ち上がった。
 二人の前を立派な刺青が通って行った。
 
 フカミが政治について語るお笑い芸人の悪口を言っていると、聡子が「おーす」と言って座った。
「久しぶり。元気にしてる?」
「久しぶりー。しのさんは相変わらず働き過ぎ? カナやんも相変わらず?」
 聡子はメニューを何度も往復して思案してから、サングリアを頼んだ。
「働き過ぎてるし、飲み会に行かされ過ぎだし、カナやんは相変わらず美人だよ」
「カナやんのニュースないん?」
 聡子はカナやん情報を聞くのが好きだ。カナやんとは、しのの妻さんのことで、本人がいないところでの呼び方だ。
「聡子はしのもカナやんも好きよな」
 フカミが言うと聡子は「しのさんは話しやすいし、カナやんは面白いからねー」と残り物をさらいながら肯いた。
 
 カナやんは、普通に歩いているだけで「誰や」「なんや」「モデルさんか何かか?」なんてひそひそ声を立てられるようなきれいな人だ。
 しのとは高校生の頃からのカップルで、フカミにとっては今でも、カナやんのイメージは、S女学院の制服を着ている姿だ。その美しさたるや、電車内に入ると、乗客全員がエキストラと化すような、主人公感のあるものだった。
 その頃しのにメールのやりとりを見せてもらったら「マヂぅける」的なギャル文字が並び、ハートが多用されていた、という話が聡子にバカウケだったのが発端でカナやんネタが話題になるようになった。
 フカミも聡子も「マヂぅける」的ギャルとは一瞬も無縁の日々を送ってきたので、カナやんに会うとああ、この人はギャルだったんだな、と感慨深い。『ポップティーン』読んでたんかな、とか。聡子は『ピチレモン』の宮崎あおい派だったそうだ。
 このメールの話をいつもネタにしていたが、しのが「ほんまに一時期のことやで、いつまで引っ張るねん」とご立腹なので、最近はいじらない。
 しのとフカミは、高校のラグビー部の先輩後輩だ。二人ともそんなにやる気はないけれど、少しばかり器用だったから弱小高校のレギュラーに居座っていた。やる気のないレギュラー同士気が合って、いつも一緒にいた。
 週末の練習が終わると、しのはカナやんと会わないといけないから、フカミは家が好きでさっさと帰りたいから、二人で部室に走って戻り、ぱっと着替えて、駅まで喋り歩いた。
 駅でしのを待っているカナやんに会釈すると、カナやんも会釈を返してくれたが、いつも対外的なよそよそしさだった。今でもフカミはカナやんとの交流、会話がほとんどない。嫌われてんのかな、って思う。
 一度別れてまた付き合うなどの紆余曲折なく、二人は三年前に結婚と相成った。結婚式でのカナやんは式場のモデルのようだった。しのは友人や会社の同僚、上司らを呼んだが、カナやんは会社の人は呼びたくない、友人は本当に祝ってほしい人だけでいい、としのの客の半分以下だった。誓いのキスも友人の余興も親への手紙もあほらしいからと言ってなしにした。
「超クール」
 と、聡子は肯く。フカミと聡子はそれを参考に、会社の人は呼ばず、親戚も数人に限り、誓いのキスや友人の余興、親への手紙をなしにした。披露宴というより、駄弁っているだけの華やかな飲み会になって、とても楽しかった。ドレスを着て飲み会するのが流行ればいいのに、とか思う。
 フカミも聡子もカナやんに憧れていたが、カナやんとはまったく直接の交流を許されていなかった。カナやんが嫌がるのでお宅にお邪魔したこともないし、いつもこうして、カナやんのことを話題にしながら飲むばかりだ。
 憧れているのに、少しのことしか知らないから、そのことを延々と話している。
 
 七階まで上がる狭いエレベーターに乗る時、フトーは嫌だなあと思ってしまう日がある。七階まで上がることが嫌なのか、狭いことが嫌なのか、エレベーターが嫌なのか、そもそもアルバイトが嫌なのか、フトー自身にも思い当たるところはない。高いところは好きだし、狭いところも嫌いじゃないし、エレベーターが苦手ということもないし、アルバイトはまったく苦じゃない。にもかかわらず、雑居ビルのガラス戸を押し開け、エレベーターの前に立つと、嫌な気持ちが胸をよぎる時がある。
 ま、気にせんよ、アイドンケア。
 押し上がるエレベーターの重力を感じながら、ニューヨークのビルを思い浮かべてみるが、チンという間抜けな音がした後、しばらく間があって開いた扉の向こうは、客のまだいない居酒屋である。
 留学前から働いていた居酒屋に戻ると、バイトの面子はみんな変わってしまったし、店長もえらく老けてしまったが、仕事のやり方に変わりはなく、すぐに馴染んだ。
 戻ってすぐの頃、昔からよく見るお客さんに「兄ちゃん、昔おった子ぉちゃうか。なんとなく見覚えあるで」と言われた時は驚いたし、嬉しかった。
「前にいたの七年前ですよ。よう覚えてますね。ありがとうございます!」
「ほんまかいな。何してたん」
アメリカに留学してました!」
アメリカに留学してたのに、また居酒屋戻ってくるってどういうことやねん! なんかもっとええ口探さんかい!」
 赤ら顔のおっさんが間髪入れずにツッコんで、周囲のおっさんらがどっと笑う。フトーはツッコミにひるんでしまって、にやっと笑って黙ってしまった。おっさんらの赤ら顔と、テーブルの上にたんまり残された揚げ物たちをぼんやりと眺める。
「いや、なんか考えがあるんやろ。ごれ、帰国祝いのご祝儀や。少ないけど」
 フトーの反応を気にしてか、おっさんが財布からさっと千円出して、手に握らせた。
「いえ、そんな」
「いっぺん出してしもたもん、よう仕舞わん。ごちゃごちゃ言わんと取っとき」
「家帰ったら、洗濯もんやら食器やら、なんでも仕舞うんが俺の仕事や言うとったがな」
「しょうもないこと覚えとんな」
 おっさんが仲間に向かっておどけながら、フトーの太ももをぱしっと叩いた。
「な、受け取っとき」
「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします!」
 と頭を下げると、おっさんらの「がんばりや」と優しい声がかかった。
 アメリカで密かにアルバイトをした時はチップをもらう習慣があったけど、こんなに感謝したことはない。日本でおひねりをもらうとこんなに価値を感じるんだな、と不思議だった。
 
 フカミは、フトーを誘って牛串の店へ連れて行った。ねじり鉢巻きをした大阪の屈強なおっさんの店員しかいないのだが、みんな物腰低く接客してくれる。あんまり陽気なおっさんのいない、真面目さとおかしみのある店で、フトーのお気に入りなのだ。
 切って、焼いて、盛って、入れて、運んで。くるくると五人で行ったり来たり。お客さんらが出たり入ったり。お金を渡されたり、お釣りを返したり、サービス券を渡したり、使われたり。フトーがバイト先のことをそんなように言うので、フカミは「俺はのらりくらりで、ダイキは寝たり起きたり、か」なんて混ぜ返してみた。立ったり座ったり、注いだり注がれたり、刺したり刺されたり、見たり見られたり、とそんなような言葉を言い合ってみる。
 フトーの髪は、フカミの記憶の中と違って、黒くなっていて、刈り上げでこざっぱりしていた。なんだか『トップ・ガン』のトム・クルーズとか、そういう体育会系のアメリカ人みたいだ。
 黒いタートルネック一枚の上にモッズコートを羽織っているだけの、セーターを着てマフラーをして手袋もしているフカミからすれば薄着で、そこにもアメリカナイズを感じたりする。
 自分のスーツ姿は、ちゃんとサラリーマナイズされているのだろうか、とふと思ってみたり、みなかったり。
 
 フトーがアメリカに行く直前に飲んだことを思い出す。そもそもフトーとフカミはダイキつながりでふわっとつながった関係で、なぜ二人で飲みに行くことになったのか、よく覚えていない。
 日本らしい店に行こう、とフカミが選んだのは駅前のワタミだったが、今はもうない。
「何すんの?」
「何するんすかね、分かんないっす」
 汚い金髪頭のまま行くのかと思うと、フカミが恥ずかしい気になるのはおかしいのだが、心のどこかで恥ずかしく思ってしまう。
「や、ま、知らんけど、楽しんできいや」
「最初は窓拭きの仕事したいんですよ」
 フカミは窓拭きと聞いても思い浮かぶものがなかったので、首を傾げた。
「でっかいビルの窓拭いて、中見たいなと思って。どんな人らが働いてるんか、見てみたくないっすか?」
「ええな、ニューヨークとかのでっかいビルの中で働いてる人らをちらちらっと。足元はよう見いひんやろけど」
「ですね」
 確かあの日撮った写真をフカミは現像してどこかに仕舞ったはずだったが、探す気にはならないし、ぼんやりと頭の中でどんなだったか思い出せる。縦縞のポロシャツを着たフカミと首元が伸びたTシャツを着たフトー。写真を撮ってくれた店員さんを睨みつけるような二人の不機嫌な目つき。
 
 カウンターの横に座るフトーを見たら、写真に残っているはずの不機嫌な目つきはもうしておらず、ずいぶん柔らかだった。きっと、フカミの目もふにゃふにゃしているに違いない。
「居酒屋のバイトずっと続けるん? なんか別のことするん?」
「もう漠然としたことしかないんやけど、自分で商売することは決めてるんですよ。何しよかなと思って。飲食店したいわけでもないから、どうしよっかなって」
「ふーん。自分でなんかやるんや。ええやん。
 ぼく、そんなん考えたことないもん。根っからの雇われ気質なんかなあ。おるよね、起業するにせよ、親の会社継ぐにせよ、自分で経営できる人というかする人と、できへんというか、する気ない人と、二種類」
「ま、この調子やったらずるずるできへん人になってしまうんで、どっかでなんかせなあかんと思ってるわけです」
「英語使えるやん」
「イエア、アイキャンスピーク、イングリッシュ」
 フトーがそれっぽい発音でしょうもないことを言うから、「あかんな」とフカミは串を頬張ってわざとらしく呆れた顔をしてみせた。
「そんなもんです」
 とフトーは柔らかな目で笑った。いろいろ経験して人生が楽しくなったんだろうな、とフカミは勝手に思った。
 
 ダイキは、自分の部屋に設置した小さな冷蔵庫から発泡酒を取り出した。テレビから、アルコール度数七%のビール系飲料のCMが流れてくる。「嫌なことも流し込む」と俳優が缶を飲み下す。酷い宣伝やな、と思いながら一口飲む。はーっ、と口から漏れ出る炭酸が心地いい。発泡酒のアルコール度数は四・五%だった。
 暗い部屋でテレビが煌々と光っている。
「静かやなあ」
 とひとり言を言ってしまうから、余計に静かな気がしてくる。世界で一人この部屋に取り残されてしまったような、なんてね。
 座っても寝転んでもいいのに、ダイキは缶を持って立ったまま、窓を見ていた。自分が映り込み、映り込んだ先に少し外が透けていたが、何かが見えるわけではなく。
「このまま倒れてしまいたい、ね」
 おどけた調子で言ってみたら、本音を言ったのか、嘘を言ったのか、ダイキ自身にも分からない。窓に背を向けて、立膝をついて座った。左腕を出っ張りにもたれかけた。学習漫画で読んだ、坂本龍馬が暗殺された時の描写を真似してみたのである。