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いつも考えていること

松田青子、江國香織、チョン・セラン、李琴峰、チェ・ウニョン、町屋良平、書肆侃侃房、文藝、中村桃子、山内マリコ、上野千鶴子

松田青子「持続可能な魂の利用」

おじさんが見えなくなった社会とその前夜を織り交ぜて進む物語。

欅坂46とそのセンターである平手友梨奈(作中ではグループ名は伏せられ、平手友梨奈は××と表記される)に惹かれる女性を中心に話は進んでいく。

ツイッターで見かける残念な日本社会のありのままのエピソードを繋げ、そうした現状を乗り越えようとする日本の女性らをエンパワメントするフェミニズム小説であり、共感を持って受け入れられる作品。

 

江國香織「去年の雪」

断章が繋がり繋がっていく不思議な小説。薄い繋がりで登場人物たちは世界を行き来させられ、迷い、行きたり死んだりする。

セックスの描写が秀逸。日常的な官能性がさりげなくて美しい。

特に妻の乳房が大好きな岩合和久が気に入った。「毎晩眠っている妻の背後から腕をまわし、乳房を下から支えるように持って、その重みと感触を味わうことがやめられない。そうしないと眠れない、とまでは言わないが、そうした方が安心して眠れることは確かで…」というまったく本人の気持ちとして妻のおっぱいが好きなことが伝わってくる。 「手のひら全体を使って乳房を持ちあげたり軽くつぶしたりしたあとで、そっと包み込むようにする。あくまでも下から。その感触の心地よさには何度でも胸を打たれる。胸を打たれ、同時に満ち足りた気持ちにもなって、和久はゆっくり眠りに落ちる。」(p.92)

 

チョン・セラン「保健室のアン・ウニョン」

霊感のある保健室の先生が、構内で起きるトラブルに立ち向かってゆく物語。そう、お察しのとおり、「地獄先生ぬ〜べ〜」だ!笑

ぬ〜べ〜と違って、おどろおどろしい妖怪は多くない。どちらかといえば、その場を去らない妖怪たちで、先生はそれらにおもちゃの剣やBB弾の銃で立ち向かう(この剣と銃の由来となったエピソードがとても素敵だった)。

強い守護霊を持った(本人には見えてない)漢文の先生から充電させてもらったりするが、ここの男女間が甘い恋愛で彩られないのが今っぽい。保健室の先生が安易に花柄を着ているというくだりがおもしろかった。漢文の先生のそういう気持ち、なんとなくわかります。

 

李琴峰「ポラリスが降り注ぐ夜」

新宿二丁目におけるレズビアンやAセクシャルらの物語。台湾のひまわり学生運動のエピソードが興味深かった。

新宿二丁目とか、あるいはゴールデン街とか、そういう小さなサークルを作るような飲み屋というものに縁がない。たぶんそれは私が大変マジョリティに属する圧倒的強者な立場だからで(まあ金も権力もないのだが)、とにかくそういう立場にあるから、わざわざ止まり木を必要としない。

素面で表通りを歩くことはとんでもない特権だ。少なくとも大手を振って、人を押しのけたり追いやったり嘲笑したりすることのないよう細心の注意を払うべきだ。傲慢にもそんなことを思った。

 

チェ・ウニョン「わたしに無害な人」

あ!と思わされる話がある。誰にもあるはずの、誰かを傷つけた極私的なエピソード。深く刺さる。その時は、その判断が、いいと思ったのに…。後悔の物語というよりも、その時の自分の加害者性を静かに見つめる。誠実な小説だ。

 

町屋良平「坂下あたるとしじょうの世界」

ぎゃっ!と叫んで穴に隠れようかと思った。ブンガクにハマる高校生らの青春物語。それも最悪なことに、現代詩手帖に投稿したり、それが選外佳作に選ばれたりする。ネットの投稿サイトでいいねがついたとかコメントがついたとかを気にしたりする。

俺か! 俺なのか!? ああ!直視、できない!

投稿作品が採用されているか、発売日に本屋に行くシーンなんて、ちょっと自分すぎてのたうちまわっちゃう。私の行きつけの本屋は私が現代詩手帖を買うものだから二冊入荷するようになりましたよ! 詩のコーナーも日を追うごとに充実していってたのを、友人らに「俺が育てた」的に言ってました。ああ、恥ずかしい。

ちなみにプラスペには元ネタのサイトあるんでしょうか。私の高校生の頃、「現代詩フォーラム」というサイトが盛り上がっていたことを、十年ぶりに思い出しました。久々に見たら、まだありました。私のアカウントはいつだったかたぶん削除した。現代詩フォーラムは詩の世界でなかなかインパクトを持っていて、たしか雑誌「詩と思想」では連載とかあったような記憶です。

思えば、あの頃は実は現代詩が盛り上がっていたんだろうなあ。思潮社も若手詩人の詩集をシリーズ化して出版したりしてた。本書でも取り上げられている三角みづ紀や、「ことばと」に小説を発表した小笠原鳥類、キキダダマママキキ(岸田将幸)や永澤康太、社会学者の水無田気流とか。その後だったか思潮社が特別に開催した現代詩新人賞中尾太一が獲ったんですよ。「数式に物語を代入し何も言わなくなったFに、掲げる詩集」。かっこよかったなあ。あの変形本。今でも手元にあります。衝撃的だった。そのあと最果タヒとか文月悠光とかが出てくるけど、そこらへんから詩を読まなくなった。

というのも、近代詩がある種軽んじられてて、現代的な言葉で現代をうたうのだ! みたいな空気があったように思ったから。たぶんすごく誤読なんだろうけど。

ナイーブなブンガク少年としては、やっぱり中原中也が最高なわけですよ。ランボーとかロートレアモンとかね。

この小説を読んで、改めて私は現代詩には馴染めないんだろうなあって思った。自分がどんだけがんばって書いても、明らかに近代詩なんだもん。最近もこのブログに詩を載せてますけど、めっちゃ近代詩だもんねえ。

なんちゅうか…。

こんな欠けている不完全な世の中で、それでも自己肯定感が高かったりする私なので、現代的な問題が表現できないんですよ、どうやら。でもまあ、いいんです。ポエジーは各々に爆発する。私は私の爆弾を。あなたはあなたの爆弾を。

 

書誌侃侃房「ことばと」

千葉雅也の小説を初めて読んだ。よかった。比留間久夫の系譜でしょうか。あるいはロートレアモンなどを引き合いに出してもいい気がした(さっきもロートレアモンのこと書いたから引きずられたな…)。肉と肉のぶつかり合いではなく、骨と骨のぶつかり合いのような硬筆さ。

 

文藝「韓国・フェミニズム・日本」

実はまだ「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んでいないのですが、韓国(フェミニズム)小説の流行りはすごい。完全に重ならないけど近くて、ほとんど同じ状況、という距離感と類縁さがその根っこにはあるようだ。韓国の小説を読んでいるときに感じる少しの距離感は、取り巻く状況の類似性をほどよく緩衝してくれる。ウェルベックを読む時に感じる同族嫌悪の感情は名誉白人的な勘違いが大きもんなと思う。

チョ・ナムジュの小説は「ヒョンナムオッパへ」を読んだことがあったのですが、ここに収録されている「家出」もおもしろい。家父長制と父の不在をテーマにした短編。場面が鮮やかに描かれて、すぐにでも映像化できてしまいそうだ。

イ・ランの「手違いゾンビ」はエキストラ志望の俳優が有名になってエキストラができなくなってしまうおはなし。日本でなら松尾スズキが書きそうな感じ。序盤のコメディ要素はゾンビ映画ということもあって「カメラを止めるな!」のことを思い出したりもする。終盤にかけての重さがつらい。

豊崎由美が「斎藤真理子についていきます」と書いていて、全く同じことを考えていたから笑った。斎藤真理子の訳書は「ハズレない」。本当にそう思う。

チェ・ウニョンは「最近はおかしなぐらい女性作家が多い、と言われるけど、男性の教授が多いのはなぜか、とは言われない」と書く。そして「フェミニズムに触れ、傷つきながらも自由になった」という言葉が、小川たまかの「私たちはただ自分たちの傷つきを確認し合い、手を取り合う」という言葉と共鳴する。

 

中村桃子「新敬語 「マジヤバイっす」社会言語学の視点から」

「そうっスね」というような言葉遣いを「ス体」と名付け、ス体の持つ意味を敬語イデオロギージェンダーイデオロギーから明らかにしていく本。

2章で男子大学生が実際にどのようにス体を使っているか見ていくのがなかなか面白い。丁寧さと親しみを込めて使われるス体。ていうか先輩って一歳違いなのにどうしてこんな偉そうなんだろうね。自分の言葉遣いを分析されたら、威厳を保とうとしたり、保身してたり、恥ずかしいことになりそうだ。

北海道の警察官が犯人を捕まえようとするときだけ関西弁になる話が印象深い。メディアによって言葉の運用が決められ、人はそれを借用する。東京に何年もいながらいわゆる標準語ではなく「関西弁」を話している私にはどこか耳の痛い話だ。何年も標準語に囲まれている以上、私の使っている関西弁はもはや偽物であろう。そういう「キャラ」として使用している側面があるのかもしれない(標準語のイントネーションが習得できないだけなのだけれど…)。

 

山内マリコ山内マリコの美術館は一人で行く派展」

2013年から2018年に行った美術館の感想コラム。私自身上京した頃だから、行ったことのあるものも多い。

それにしても、サブカルという男性目線を内面化していた作者が時を経てフェミニズムを獲得し、「ルノワール、嫌い」となる感じ。分かる…!

若い頃好きだったルノワールを、年取ってみるとイマイチわからんくなる現象、ありますよね。

昔は「美しさ」と思えてた主題が「ただの変態」になる感じ。でも、もともと美術に触れてない人からすれば、最初から「変態」でしかなかったので、戻ってきただけなのだ。

そーいう意味では、モネは素晴らしい。睡蓮だもん。絶対、コンプライアンスに引っかからない。モランディもいい。瓶だもん! ロスコもいい。ぼやっとした四角だもん! だけれども美しい!

このコラム、三菱一号館美術館東京ステーションギャラリーが多く出てくる印象。東京駅、銀座あたりが一番過ごしやすいよね、という感覚もなんだか共感します。

美術館に行った感想を書く仕事、羨ましいなあ、とも思った。

 

上野千鶴子「情報生産者になる」

種明かしというか、これをちゃんとやれば研究者になれまっせ、というような一冊。もちろん研究者になったから食えるというわけではないが。

上野ゼミはほんとーにまともで、ちゃんと教育してくれるんだなあと感心する。教育しないまま追い出す(卒業させる)大学や先生が少なくない世界で、感動する。

学生のやりがちな研究に「人生相談分析」が挙げられていてショック。自分、それやりました。とはいえ手法は今はもう当たり前のテキストマイニングを使ったもの。技巧に走りすぎて、問いがなかったなあと反省するしかないです。

 

………………

 

図書館が再開したので、数万円分の書籍をバリバリ借りて読みまくった。楽しい。

しかしねえ、予約のみ受け取り可って対応が続く図書館の立場はつらい。

本棚を歩いて、あるいは司書から推薦される図書を見て、知的好奇心を喚起され新たな知へ踏み出そうとする場であるはずが、ただの貸本屋のごとく、ネットからキーワード検索によりタイトルだけで予約され、それを貸すだけ。

その本の横にある本や本棚はたどり着くまでに目についた本があったはずなのに、それは叶わない。

皆さんいつの間にかネットで検索して買うのが普通だと思ってますが、本来書籍という物質は本棚に並んであるところへ私たちが行き手に取るものなのですよ。本棚という巨大な物体を前に、畏怖しながら、求めるところを探し当てる場が図書館であり、本屋なのだから、場であることを放棄させられたらそれは図書館でもなんでもない。感染症対策はわかるものの、本棚間をスクロールするくらいは許してほしい気がする。昔のパチンコ式書架じゃないけども。

とはいえ、図書館がその自由を守るために利用者の氏名や住所を控えることを拒否したのは立派だったと思う。

さて、明日も予約図書の受取りに、図書館へ行こう。