Nu blog

いつも考えていること

スケッチ(勘定)

学生たちが一斉に降りて、プラットフォームはにわかに人でごった返しになった。

僕は、発車ベルの音に急かされながら、もたもたと人混みの尻尾に並び込んだ。車内を満たしていた話し声が、そっくりそのまま外へうつし出されていた。さっきまでプラットフォームにあっただろう静寂が、車内にそおっと入っていった。空気の抜ける、気だるげな音とともに扉が閉まり、電車は向こうへと走っていった。大学生のくせに、僕はいまだに上りと下りの区別がつかない。

階段を上がって改札を抜けたら、先の方に先輩の姿が見えた。カジュアルないでたちの学生らの中でも、一際目立つ髭面、長髪、そしてカラフルなタイダイ柄のTシャツ。

嬉しくなった僕は、そそくさと人の間をくぐり抜けた。その人の斜め後ろを歩きながら、人違いじゃないことを確認し、おもむろに「おつかれさまでっす」と声をかけた。

先輩は機敏にこちらを向いて「おお」と間抜けな声の返事をした。

「授業ですか?」

「いや」

というとあたりを見渡して声を潜め、僕の耳元に口を近づけて

「授業料払いに来たんや」

と言った。釣られて僕も小さな声で

「なんで声小さいんですか」

と言ったら

「懐に百万円持ってんねん。ちょっと怖いやろ」

とますます小さな声で、僕の耳に唇がつきそうな距離で言った。

傾きすぎて歩きにくくなった先輩は、姿勢を戻して

「二限の授業か?」

と僕に聞く。

「いや、三限からなんですけど、それまでご飯食べたり本借りようかなと」

「ほな、一緒に来るか。金払うところ見るんも、ええ勉強やろ」

と後半はまた小さな声で、僕の耳に口を寄せて言った。

周囲の学生らは、二限の時間が近づいてきたからか、歩を速め、僕らを追い越していった。

 

「五年生以上は、学費って現金で払うもんなんですか」

「そんなわけあるかい」

先輩は唇を緩めた笑い顔で、僕の素朴な疑問を一蹴した。そして少し恥ずかしげに

「振込の期限に間に合わんかったんや」

と言って髭をかき分けるように頬をかいた。

「そう、なんです、かあ」

突然失礼。今振り返ると、この時の僕は先輩の言っていることが正直言ってよくわかっていなかった。世間知らずで、学費は親任せ、他の学生のように飲み歩いたり、遊びまわったり、オタク趣味にはまったりしていなかったので、週に二、三度バイトで小銭を稼いでいれば十分だった。なんて幸せな人だろうか。お金のことがよくわからない、なんてどこぞの貴族じゃないか。閑話休題

 

正門をくぐり抜け、授業が行われる学部棟とは反対の道を行き、本部棟と書かれた建物に入った。先輩は、慣れた様子で廊下を行き、財務部と書かれた扉を開けた。

「こんちはっす」と先輩がカウンターの向こうに声をかけると、パソコンに向かっていた職員さんの一人が「どうもどうも」と言ってやって来た。

「すんません、持ってきました」と、この職員とどうやら話が付いているようで、先輩は淡々と札束を出した。

思わず僕が「おお」と感嘆の声を上げると、先輩と職員さんは同時にこちらを見て笑った。

「後輩なんですよ、ゲンナマ見せてやろうと思って」

「ははは。今時こんな大金、なかなか見ないよねえ」

職員さんはそう言いながら札束を何か機械に突っ込んだ。機械はバサバサバサっと音を立て、札束を弾いた。

「これで数えてくれるんだよ」

と職員さんは僕を見て言った。まるで社会科見学だ。

「はい、百万円ね。学費は確か…」

「百三万八千円。に加えて延滞金三千五百円。ちょっと待ってください」

先輩はそう言うとボロボロの財布から何枚かの紙幣と百円玉を五枚を取り出した。

「はい、ちょうどです」

先輩はまるで居酒屋の会計のように言ったが、職員さんは意に介さずその紙幣をペシペシ音を立てて数えた。

「ちょうど、いただきました。領収書書くので少々お待ちください」

職員さんはそう言うと札束をともに奥へ消えた。

 

「初めて見ました、札束」

と僕は先輩を喜ばせようと、あえて少し興奮した声で言った。あえて興奮したふりをしたつもりだったが、言葉を口にしてみると、本当に興奮しているような気がしてきた。

「正直言って俺もや。去年はなんとか工面できたから銀行で振り込めたんやけどな。今年はいろいろ重なって遅れてしまった」

「はあ、そうなんですね」

ここでも相変わらず僕は金の工面に関して要領を得ていなかった。

「去年の時点で留年は決まってたんやけど、四年間は学費の半額出してやるって親が言うてくれてな。しかしまあ今年はビタ一文出さんよと。貸してくれって頼みも聞いてくれんかったね。家賃取らんだけ感謝せえって言われてしもた。まあ、しゃあないわな」

「先輩ってなんで留年になっちゃったんですか」

「クラブ行きまくってたら朝一の英語落としたんよ。必修やからね。今思えば一回の時点で決まってたわけやな。つらいわ」

 「もったいないですねえ」

 

職員さんから印紙の貼られた領収証を受け取り、先輩と僕は外に出た。五月の青空に鳥が飛んでいた。

「ほんま、五回生になったらいきなり知り合いおらんようになってしまうわ。どの授業受けてもなんとなく居づらくてなあ」

先輩は木陰でまだらに陽を浴びながら、ため息をついた。

「就職はどうするんですか」

と僕が聞くと

「それはな、なんとかなる予定やねん。知り合いのレコード会社の取引先に潜り込ませてもらえそうでな」

「そんなルートがあるんですね。いいなあ」

「ええことないよ。薄給激務の下請けやで。せやけど東京行けるからな。そのうち会社辞めて別のことするつもりや」

その頃すでに就職活動といえば、大量にエントリーし大量にエントリーシートを手書きし、大量にお祈りメールを受け取って一つだけ内定をもらう時代だったから、先輩のような就職の仕方は一般的な学生とは違っていた。

「君も夏にはインターンシップ始まるし、秋からは企業説明会で大忙しやで。こんなダラけた時間もあとちょっとや。どんなとこ受けたいとかあるんか」

「え、いやあ。ないっすねえ」

「まあ、しっかり考えや。今の時代、一応門前払いはないんやから、受けたいところ受けたらええねん。俺も一応、大手レコード会社受けてみたもん。エントリーシートで落ちたけどな」

「そうっすね」

僕は照れ隠しで頭をかきながら、ふっと出版社や新聞社への憧れをほのかに思い描いた。そんなところをこの程度の大学から受験することさえできるのだろうか、とも思った。

「ほな、俺ちょっと寄ってかなあかんとこあるから、ここですまんな。見てたとおり、もう一銭もないしな。今度、ラ・ボラッチャで昼飯奢ったるわ。あそこのパスタはどれもうまいからな」

「わかりました。またお見かけしたら声かけさせてもらいます」

「おう」

先輩はその頃はやっていたスキニーパンツに手を突っ込んで行ってしまった。むっちりした下半身が強調されて、どこか滑稽に見えた。以前、スキニーパンツを履いていると太ももが擦れあって破れるんだと、薄くなった内腿部分を見せてもらったことがあった。なぜだか知らないが僕はそれを「かっこいいな」と思った。

僕はとりあえず図書館へと向かった。もしかしたら暇している知り合いに会うかもしれないし、会わなくても本が読める。

風が吹いて髪の毛が一瞬ふわりと逆立った。先輩の寄るところはどこなんだろうと思ったがちっともわからなかった。