朝、YouTubeで母校の礼拝を見ている。
新型コロナウイルス感染症に伴い休校となったため、その措置として配信することにしたらしい。
母校はキリスト教教育を軸とするミッションスクールだ。中学生だった三年間、学校のない日曜日を除き毎日礼拝していた。当たり前のこと、普通のこととして執り行われていたから、世間的に特殊な環境だとは思ってもみなかった。
今また毎日礼拝を受けていると、どこかしっくりくるところがある。「洗脳みたい」と言われることもあるが、一方的に教えを押し付けられるような内容でもないから、それは違うだろうと思う。「宗教の話は…」と言われたら、まあ宗教の話ですね、って感じである。盆とかクリスマスとかと同じ、宗教の話である。重要なことは、単調な毎日の中に、十分、十五分だけ集い、集中する時間を持つことである*1。
学校再開後も配信を続けてほしいとちょっと思う(無理だろうけど)。
礼拝は黙祷、賛美歌、聖書朗読、感話、お祈り、という流れで執り行われる。
感話というのは、いわゆるお説教、説法というやつだが、そんな堅苦しいものではない。日替わりでいろんな先生が、人生哲学を語ってくれる。人生哲学といっても、日頃気をつけていることや心がけていること、あるいは最近の話題を絡めて思ったことくらいのもので、そんな厳しいものではない。
三年間、毎日人の話を聞いてきた。今振り返るとそのために学費を払ってもらってたような、それくらい重みのある時間だったと、僕は割と美化している。
さて。
配信でも、いろんな先生が感話をしてくれている。「うわ、年取りはったなあ!」とか「あ、あの人、先生になったんや」(自分がいた頃は部活の大学生コーチだったり、一つ下の後輩さんだったり)とか「誰?」とか。
そして、若い先生が増えたなと感じた。あの頃「若手」だった先生は、今「中堅」なのだろう。そしてあの頃「中堅」だった先生たちは、もういない。
正確なことは覚えてないが、あの頃「若手」だった先生は三十歳、「中堅」だった先生が四十五歳。それぞれ十五年経って、四十五歳と六十歳。当たり前に年をとる。
ただ、あの頃四十五歳の先生を、中学生の僕はえらく年寄りに思っていた。あと、二、三年すれば定年じゃないか、くらいに思っていた。
この感覚!
怪しい。
数理社会学のファラロ=高坂モデルが援用できる気がする。
ファラロ=高坂モデルとは、個人の社会認知を図示したもので「個人の社会認知は客観的な階層イメージになっている」「自分の所属階層に近いところは客観的に認識しているが、遠いところは大雑把にしか把握できていない」という前提のもと、作られる。
たとえば社会の中で階層が
{HH, HM, HL, MH, MM, ML, LH, LM, LL}
の九階層に分かれていたとしよう。「階層」は収入とか学歴とか、まあ実際は人々の社会認知によるものなので、大雑把に捉えてもらえればいい。Hはハイ、Mはミドル、Lはロウだ。上流、中流、下流である。
この時、あなたが「MH」に属する人だった時どんな風に社会を認識しているかというと、
{H, MH, MM, ML, L}
こんな風に社会を認識している。つまり、HクラスやLクラスとは自分はハナから(第一階層から)異なっていると認識しているが、Mクラスの中ではもう一段階(第二階層まで)踏み込んで比較して階層の違いを認識する。
なので、たとえば「LM」層に所属する人は
{H, M, LL, LM, LL}
と認識することになります。
これを人間の年齢認識にも横展開してみる(ほんとどーでもいい横展開で数理社会学関係者の皆さんには申し訳ないが…)。
つまり、十五歳の僕には四十五歳が年寄りに見えるけど、三十歳の僕には四十五歳はほとんど同い年のようにさえ感じる、という社会認知を図示してみる。
まず、十五歳の認識はだいたいこう。
{40歳以上, 30歳, 20歳, 19-18歳,17歳,16歳,15歳,14歳,13歳,12歳,11歳,10歳以下}
次に三十歳の認識はこンな感じ?
{60歳以上, 50歳,40歳後半,40歳前半,30歳後半,33-31歳,30歳,29-26歳,25-20歳,19歳以下}
十五歳の僕には四十歳以上は全ておじさん〜おじいさんに分類されていたが、今の僕にとっては四十歳以上も様々細分化されている。
だから、若い先生が増えたような気がする、のだと思う。
はて。長々書きましたが、言いたいことは「私も年をとりました」ということだ。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」
旧約聖書「コヘレトの言葉」である。母校の中学生には、礼拝の毎日を楽しんでほしい。聖句はこう続くから。
苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに
*1:余談であるが、僕は会社の朝礼が好きだ。それはこの習慣から来るものなのかもしれない。