Nu blog

いつも考えていること

Obviously, no one can make heads nor tails.

一旦逆の立場になって考えてみ。もし俺が謝ってこられてきてたとしたら、絶対に認められてたと思うか?(かまいたち)

昨年、千葉市美術館で開かれた目[mé]による「非常にはっきりとわからない」展について考えていると、冒頭に掲げたかまいたちの漫才の言葉が浮かんできた。

言葉の一つ一つは分かっているのに、全体を通せば何を言っているのかさっぱりわからない。けれど、とりあえず言い訳していることは確からしい。そんな言葉。

最近は国会答弁でも「募っているが募集してない」とか「公開対象だけど、公開するとは言ってない」とか、「わかっちゃいるけどやめられない」とか、最後のは嘘だけど、言葉はわかるけど何言ってんだかわからないことが多い。

「非常にはっきりとわからない」展は、そんな状況を意図的に作り出し、提示してきた。美術館に来て展示室に行ったことは間違いないけれど、どれが展示で何が作品なのかさっぱりわからない。時折会場内が何か変えられている様子があったりなかったりで、不穏な気配に包まれる。

ネタバレもクソもない。全貌は観客にはわからないようになっている。だって物理的に無理なんだもん。展示室は七階と八階に分かれてて、同じことが同時進行で起きているのかどうかも定かではないし…(展覧会で購入した本によると「様々な展示物や彼らの動きは会期を通して変わらず、むしろ鑑賞者の存在によって変化しようとする状況をいかに元に戻していくか、ということに心を砕いていた」らしい)。

 

これまでの目の作品、といっても私がみたこと(体験したこと?)があるのは、銀座と埼玉と六本木であるが、それらの作品も常に不穏な気配に満ちていた。

銀座、資生堂ギャラリーであった「頼りない現実、この世界の在りか」は地下に古めかしいホテルを作り上げた作品である。その一室に入ると、鏡がある。しかし鏡に見えたものは鏡でなく、全く同じ部屋が鏡(じゃない)の向こうにある。

まるで鏡の中を通り抜けるかのように、鏡(じゃない)枠をまたぐことができる。

埼玉、さいたまトリエンナーレ2016では(2019はやってたのかな、ちっともチェックしなかった…)、湖と思ったら湖じゃない。水に見えるものは(もしかすると一見して水には見えないという人もいるだろうけど)鏡なので、履物脱いでその上を歩くことができた。なぜか鏡面を歩いた記憶がまったくないが、そういう作品であったことは確かに覚えている。

六本木は昨年のことである。六本木クロッシング2019展での「景体」である。最も景色の良い展示室に海を作り出した。正直何を見たのかあんまり覚えていない。写真を見ても、なぜかおぼろげだ。

どの作品も、どうにも説明しにくい。SNSにおいて「すごい」「おもしろい」「怖い」「ヤバイ」と拡散された。

行ってみれば、ぽかんとするより他ないものばかり。それを見て自分が何を感じているのかわからない。騒つき。

千葉市美術館学芸員の畑井氏が「今となっては、自分がどのような動線を選択し、果たしてそこで何を見たのか、おぼろげな記憶としてしか残されていない。」と書いているが、同じ気分である。

 

他の作品も、見てみたかったものばかりだ。

水戸芸術館現代美術ギャラリーの「レプけーショナル・スケーパー」あるいは新潟の越後妻有アートトリエンナーレにおける「憶測の成立」はそれぞれ美術館とコインランドリーの裏側を見せるような作品だったそうだ。別府市役所における「奥行きの近く」では濃い霧によって輪郭が曖昧になった球体が光る風景を出現させ、それは市役所に広がる日常を侵食し、どれが作品で何が作品か、その境界線さえ曖昧だったという(熊谷周三氏による感想がめちゃくちゃいい)。

 

現代美術は集客力がある、わりと。しかしそれはどちらかといえばインスタ映え的な文脈のことが多い。あるいはブラックボックス展のような口コミによる拡散か。

何か特別な体験を求めて目の作品を観に来る人がたくさんいた。それはとても素晴らしいことだと思う。そしてきっと多くの人がキョトンとして、たぶん何度も検索したりして答えを探しただろう。

でも答えはない。確かに一応何が起きてたか、そのネタバレはある。それらしいものはある。

でも答えじゃない。前出の畑井氏は

「非常にはっきりとわからない」は発見の導きとなる作品であるーーすなわち示唆し、刺激し、若干は苛立たせさえするのである。決着をつけるべく作り出されたのではない。

とクリフォード・ギアツの言葉を変容させる。

「決着をつけるべく作り出されたのではない」これが重要ではないか。私も作品の一部として他の人に影響を与え、他の人は「私の観た作品」の一部となっていた。だから、全体はなく、万能の神的な答えはない。

このことを受け止められなければ、あの作品を観た意味などない、なんて「決着」的なことを思いたくなった。

作品の英訳のとおりーーObviously, no one can make heads nor tailsーー明らかに誰もそれを理解することはできないのである。