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いつも考えていること

江國香織「彼女たちの場合は」他

江國香織『彼女たちの場合は』

アメリカに住む十七歳の逸佳と十四歳の礼那、従姉妹同士の二人が「すごいこと」をしたくて親に黙って家を出て、アメリカを旅するお話。心配しなくても、すごく嫌な事件は起きない。バイクに乗せてくれた男の子にキスされそうになったり、ヒッチハイクして乗せてくれたおっさんが気持ち悪かったり、バドミントンで遊んでいたら荷物を見失うも自分たちが移動していただけだったり、おばあさんに犬の面倒を見させられたり、バイトしていたら移民嫌いのアメリカ人に追い出されたり、ちょっと変なおばさんに殴られたり。それくらいしか事件はない。一方で、編み物男ことクリスやオレンジ男ことケニー、犬の面倒を押し付けてきたおばあさんの孫ヘイリー、バイト先の友達らなど、いろんな「良い人」たちとも出会う。

家族は、礼那の父親の潤はずっと怒っている。妻の理生那は無事でいてくれればもう怒らないと達観する。逸佳の両親は割とのんびりしている。二人とも若い頃旅をしていた経験があるからだ。クレジットカードの使用履歴を見て旅の経過を想像するシーンはほのぼのしている。

逸佳は「アメリカ人の男(しかも病死したパートナーの喪に服し続けているゲイ)のアパートで暮らし始め、その後七年間帰ってこない」こと、礼那は「理生那が潤と別れて、子供たちを連れて帰国する」から日本に戻ることが示唆されている。

「たとえばこの朝がどんなにすばらしいかっていうことはさ、いまここにいない誰かにあとから話しても、絶対わかってもらえないと思わない?」

「誰かに話しても話さなくても関係なくて、なにもかも自動的に二人だけの秘密になっちゃうんだよ? すごくない?」

二人だけの旅はやっぱり「すごいこと」だったわけだ。

ちなみに。ツイッターで一人だけ指摘している人がいたが、469ページに不可思議なブランクがあった。改訂望む。

「およそ一時間半後に娘たちが帰ってくることも(…)鍵のあく音がして、 を待っているのは礼那ではなく逸佳のはずなのに、礼那が先にとびこんでくる(「ただいま」ではなく、「ひゃーっ」という奇妙な歓声をあげる)ことも、(…)」。

 

長嶋有『三の隣は五号室』

小説は時空を越える! という言葉のまま。そうやって飛んだら跳ねたりできるんだなあ…。

 

ウェルベックセロトニン

本作のウエルベックの切れ味は鈍い。それは低い評価ではない。錆びたノコギリで襲いかかってくる、突如村に現れた殺人鬼、そんな切れ味の悪さ。まとめサイトで真相を読んで、田舎の村の闇深さを知るよう、後味の悪さ。

そう、日本人男性ならおなじみの、死ぬまでの暇を持て余す男の話。むしろヨーロッパ人がこういう物語を持っていないことに驚く。主人公は性欲の減衰に生の終わりの一つを見出すが、ずいぶん昔から日本人の性欲は減衰していたから、もはや悩みですらない。しかも日本人は抗鬱剤を服用していないのに勃たないのだ。大した人種である。まったく。

日本人はなるべく高尚でなく、なるべく金のかからない、なるべく我を忘れられる娯楽や発想を持っていて、その最たるものが仕事である。おかげさまで定年退職後多くの過労気味の男性は悩む間も無く体力尽きて死んできた。最近は長生きし始めたから、定年年齢も引き上げることにしている。さらに素晴らしいことに、仕事をしてても資産がたまらないように日常の税金がバカ高いし、投資先もないように設計している。死ぬまで働かないといけない設計図を引いて悩まないように対策している。素晴らしい。

それでも最近、働き方改革などと言い出すから(ああ、これはまったく「女」の仕業である。ウエルベックの小説で最も忌み嫌われる、人類を進歩させ、古い人間を駆逐する存在!)、仕事場から追い出された男たちは暇を持て余す。しかも金がない。

でも大丈夫!(by 吉高由里子)

我々には、安くてアルコール度数の高いクソみたいなストロング系飲料もあれば、安いガールズバーもあるし(たぶん)、地下アイドルやアニメにハマってもいいし、VRの向こう側にまで世界は広がっているのである。スマホゲームも潤沢だ。金のかからない楽しみ方、暇の潰し方が山のようにある。それは明日への活力でもなんでもない。日々のスキマ時間を埋める何か。

ウエルベックを読んでいると、ヨーロッパには「SPA!」がないのだと思う。くだらない暇つぶしを山ほど紹介してくれるあの雑誌がないなら、そりゃあ鬱になるし、抗鬱剤飲むしかないわな。我々日本社会には、死ぬまで「セロトニン」を放出させる仕組みがかっちり出来上がっている。西洋社会に入り込んだばっかりに、乱交に励むユズはかわいそうだ。日本には素晴らしき「意味や意図を隠蔽した部品的な仕事」とか「安く気絶できるアルコール飲料」とか「無料のエロ動画」とか「マッチングアプリという名の出会い系サイト」とか、グロテスクで人間らしく、死ぬまで悩まずに済む仕組みが整っているのです。そこにはグローバリズムフェミニズムも、ポリティカルコレクトナスも及ばない。及んだとしても、日本人男性はヨーロッパの人々ほどそれに罪悪感やなんかはない。漫然と続いていく。

悪しき我々の文化は、決してウエルベックの描く悩みに到達させていただくことはない。ありがたいことに、私たちはそこまで西洋化することはないだろう。きっとかつてジャポニズムが文化的な流行りとなったように、西洋はまた日本の悪しき文化を羨む。その時と同じ。未開の社会に対する羨望。