Nu blog

いつも考えていること

きっと彼は許されたくない

昨年2019年の暮れに、ぽっかりと暇な日曜日が現れて、うっかり松本人志ワイドナショーを眺めてしまった。そもそも日曜日のテレビ番組でろくなもんがないのに、テレビをつけた時点でうっかりしていたのだが、さらにこの番組をつけてしまうなんて、リテラの記者として記事を書くようなことがない限り有り得ないチョイスである。

とにかくそんなうっかりしたある日曜日だった。番組には松本人志のほか、泉谷しげるNHKのアナウンサーだった人とゲスの極み乙女の人が出ていた。そして、2018年に起きた東海道新幹線車内殺傷事件の判決が無期懲役で確定したことについて話していた。泉谷しげる松本人志NHKのアナウンサーだった人も間髪入れずに「死刑が相当。判決は不当」と言い切り、ゲスの極み乙女の人も「感情的には死刑」と言っていた。

頭の中が真っ黒になったような、どんよりした気持ちになった。テレビ画面の中で「死ね、死ね」コールが起こっている!

被告人が、死刑にならないように三人ではなく二人殺したことや、判決確定時に万歳三唱をしたこと、そして精神疾患の判定があったことについてそれぞれ批判があった。また、裁判員裁判において死刑とされたものが控訴の結果無期懲役となるケースが続いており、松本人志が「我々の感覚と判決がずれていて、おかしい」旨発言していた。

今回のケースは現行犯逮捕、つまり冤罪の可能性もないから、そういう自信を持った発言につながっているのかもしれない。

しかし、どうも腑に落ちない。怖いと思う。なぜだろうか。

そりゃあ、新幹線の中でいきなり切りつけられることを考えれば、それはとても怖い。NHKのアナウンサーだった人は、新幹線に乗っても落ち着かない、オチオチ寝られないと言っていた。この年末年始の帰省の際、たくさんの人が爆睡しているのを見かけたが、皆内心は不安で仕方がなかったのだろう。という皮肉なことを言っても仕方がない。実際、警備員さんが何度も往復していた。これはたしかにこの事件の影響だ。

むしろ声高に死刑が妥当だと正気な目で言う人たちに感じる怖さは、目の前で暴力が発生しているという怖さとは別の、もっと底意地の悪い怖さである。

NHKのアナウンサーだった人は「本人の最も嫌がっている死刑にするのが処罰なのではないか」とも発言していた。デスノートのライトくんみたいなことをいとも簡単に言うけれど、私はその発想でいくならば、「許すこと」が最も本人の嫌がる処罰ではないかと思う。今までの考え方に瑕疵があったことを認めさせることで、社会がそれを許す。これは今の本人にとって最も嫌なことだろう。理解されたくない自我を、包み込むように理解しようとされる。それはきっとこれまでのアイデンティティーを揺らがす「嫌なこと」に違いない。これを実践するためには時間がいるし、環境も必要だ。無期懲役がそう使われることを願う。

「犯罪者を殺せばすべてが終わり平穏で心穏やかに過ごせる」、そんな世界に私たちはいるのだろうか。そんなわけはない。その人が何を考え、どうして強行に至ったのかを理解することで同じような誤りを避けようとする社会が作られていく。漸近的に良くなっていく、そんな世界に私たちはいるべきではないか。

死刑にすればいい、が先行して率先して表明されることに違和感を抱く。死刑もまた殺人である。国家的な殺人をどのように許容するかへの繊細さを欠いているように思う。

自信満々に発言していたあの人たちは、ちょっとも不思議に思わないのだろうか。みんなが思っていることを代弁しているだけなのか。鶏が先か、卵が先かは知らない。不安になった。