Nu blog

いつも考えていること

年始の挨拶

毎年年賀状を百枚弱書く。友人や親戚ら十数枚と、仕事関係である。妻の友人宛も含めれば総数は百二、三十枚になる。

百枚のハガキの束は重みがある。言葉通りの重量だ。

年賀状は面倒だと世間で言われる。今時、他人の住所管理などできないし、百も二百も手書きで一言だけ月並みなコメントを書くのは馬鹿らしいと言う。

確かにそうだと思う。CMで喧伝されるほどに、相手に思いを馳せる時間が存分にあるわけではない。確かに「あー、今年会えなかったな!」「そういえば去年子供生まれたのか!」「いや、この人とは二十七日にも会うわ…」とかは思う。

でもまあ、人々が言うほどに厄介な作業でもない。デザインさえ決まれば(デザインの印刷された年賀状がたくさん売られている)住所だけだ。住所は私の場合は年賀状印刷ソフトで管理しているが、エクセルで差込印刷とかさほど手間のかからないやり方はある。

あとはプリンターのインクさえあれば、放っておくだけだ。日曜日の午前中、プリンターががしゃん、ウィーン、ジ、ジ、ジと音を立てて、私は久々にサンデージャポンを見たりする。年末である。

 

ところで喪中というのはもう不要なのではないかと思う。もちろん、旧年中に親族がなくなったことを偲んで、喪に服し、めでたやめでたやと浮かれる風習から一旦遠ざかるのもわからなくもない。喪中が届くと、あいつのオカン死んだのか、とその人の胸中を察する。これもまた年末であるが、人が死んでも腹は減る。私の場合、母が亡くなっても腹は減ったし、眠気もあったし、ちゃんと寝たし、洗濯もした。新年あけましておめでとうございますと言っても、何も差し支えはないように思えた。送られてきた年賀状を見て、特段何も思わなかった。

喪中のお知らせを送るのはよいと思うから、送られてくることを拒否する必要まではないのではないか、とそう思うのである。だから喪中のはがきには「年末年始の挨拶は控える」ではなくて「このはがきでもって年末年始の挨拶と返させていただき、皆様からの年賀状はいつもと変わらずお待ちしております」とかなんとか書くのがよいのではないか。

 

今年の年始は家にいないので、今頃家の郵便受けには幾らかの年賀状がつっこまれているのだろう。帰宅後に一枚一枚見るのが楽しみである。そこには少なくとも、それぞれの人の年末の作業があったのだ…。

 

以上。これをもって年始の挨拶とさせていただく。