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いつも考えていること

『同期のサクラ』五話目まで

「同期のサクラ」五話目までがとても良かった。

遊川和彦作品は『女王の教室』以降、『純と愛』のせいで遠ざかっていたため、あまり見る気もなかったのだが、たまたま第二話の途中から見始めたら「あ、これおもろいやつや」となってしまった。

ラグビーW杯終了後、録画していた一話から五話まで一気見。同期全員がサクラに救われる五話目まで。

 

一話ごとに一年経つ設定が秀逸で、五話のエピソード、つまり五年間のなかで、日本企業に勤める入社五年目、いわゆる「若手社員」期の悩みや成長を的確に掬い取っていた。一話目は新人研修、二話目は上司との軋轢、三話目は女性のキャリア、四話目と五話目は資格や周囲、家族とのコミュニケーションからのアイデンティティクライシス、それぞれを上手に織り込み、サクラおよびじいちゃんを通して解決へ導いていった。

 

「同期」という言葉はいつから使われているのか。ドラマのタイトルは軍歌「同期の桜」のパロディである(家政夫のミタや過保護のカホコなど湯川作品らしいタイトルだ)。推測するに軍隊やサラリーマンの成立と同時に浸透した言葉だろう。

妙な連帯感を生み出す言葉である。軍歌では「貴様と俺とは同期の桜/同じ兵学校の庭に咲く」と歌われる。

白い巨塔」の財前と里見も同期であった。「半沢直樹」などTBS日曜劇場枠も同期とつながりを主張しがちだ。お笑い芸人でも、吉本ならNSC入学を基準に厳格な芸歴が決められており、同期の存在は特別に扱われていたりする。

官僚や宝塚歌劇などでは、同期の誰かが事務次官やトップ男役になると、それ以外の同期は皆サポート役なり、出向なり、引退なり、次の道を探さなければならない。例外はあれど、人事の重要な要素として同期が使われていることもある。

学生時代は単なる「同級生」「クラスメイト」だったのに、いわゆる「社会人」はそれをわざわざ同期と呼び、峻別するのだ。

 

「同期のサクラ」第一話で描かれるように、ある程度の規模の会社になると、新卒一括採用による同期入社生を一定期間集め、学校の延長のように、研修を受けさせる。私も資格取得を含む一ヶ月半「同じ釜の飯」を食った経験がある。モラトリアムの延長のような不思議な期間に、同期の絆が作られるわけだ。

配属後も、何か相談事などを同期にする機会は多い。上司から「同期いないの?」などと聞かれることもしばしばある。反対に、上司の同期も押さえておく必要があって、知らないで反目していたり、先に出世している上司の同期を話題に出して、寒い空気が流れることもある。

同期の結婚、出産、育児、異動、転居は気になるもので、情報交換も頻繁になされる。先を越された、出し抜いた。そんな感覚も同期ならではのものである。

仲間であり、ライバルであり、実のところ他人でしかない存在。

 

「同期のサクラ」は、そうした同期間のつながりを描くとともに、会社組織のつながりを描こうとしている。

つまり、人事部、広報部、営業部、設計部、都市開発部、土木部…etc。

営業部が仕事を取ってきて、設計部や都市開発部が内容を詰めて、広報部が世間への発信を担い、人事部は同じ会社で働く人々を守り、支える。

重要なことは、椎名桔平による言い換えだ。

上からの命令、たとえば残業時間の削減というミッションを相武紗季には「各部にお願いして」とだけ伝えるが、サクラには「無駄な残業を減らして社員の健康を守るため」と変換して伝える。震災時に「女性社員は先に帰れ」と伝えた際も「お前一人が残っていると他の女性社員が帰りにくくなる」と変換する。

その変換が真っ当かどうかは議論の余地があるものの、本音を建前に落とし込む。建前は建前でしかない。しかし、実際の人間は、与えられた数字の達成に邁進して建前さえ忘れることがある。

一度疑問を持って施策の意義を問いただすサクラにハッとさせられると同時に、あの息を吸い込む動作を見て、一旦呆れつつも真摯に答える周囲に、新鮮ささえ感じるのである。

 

五話目までのこのドラマには、津村記久子の小説の筆致を感じた。「お仕事」をテーマに人間を描く。「お仕事」は金儲けではなく、ささやかな生き方、あり方そのものだ。そこに嘘をつきたくない人も大勢いる。そんな人の心に、爽やかに吹く風のような物語

描かれた物語にひっそりと寄り添う森山直太朗の歌声。十数年の時を経て、過去のヒット曲が新たに響く。これもまた新鮮であった。

 

一応、六話目以降の展開を補足すると、六話目からは故郷の島に橋を架けるストーリーを軸に「大人になるとは」を主題として、サクラ自身にフォーカスが当たっていくことになる。

しかし、すでに入社六年目。年齢で言えば二十八、九歳。その悩みに直面するのが少し遅いように感じてしまったのは私だけだろうか。誰も結婚しておらず、同期五人の中だけで惚れた腫れたをやっているのも奇異に感じる。

内閣府の家族に関する調査から、「パートナーがいるかどうか」という項目を分析した結果、いわゆる正規雇用の男性であれば、半数以上が既婚または恋人がいることがわかっている。一方で、いわゆる非正規雇用の男性においては既婚または恋人がいる人は二割程度で、八割程度はパートナーがいない(女性にその差はあまりない。むしろ非正規雇用の方が既婚率が少し高いが、既婚または恋人がいる割合はほぼ等しく半数を超える)。

若年層の経済格差と家族形成格差-増加する非正規雇用者、雇用形態が生む年収と既婚率の違い | ニッセイ基礎研究所

妙齢の男女五人、七話目でようやく一人に恋人ができたし、後の二人がサクラに好意を寄せている状態だということを考慮しても、バランスが悪い。周囲にモブ役を配置して、そいつに世間標準を表させるなどしておけば良かったものをやけにクローズドなコミュニティなのである。

まあ、そういう人、そういう関係もありえなくはないし、別にいいんですけどね。

結婚すべきとかそういう話ではなく、現実を描いてきたドラマにおいて、そのような差があると不意にしらけてしまうということが言いたい。研修の様子を見るに、同期はあの五人だけではないわけだし、いくらでも演出できたのではないか。

そして病室に現れるみんなが老けすぎではないか。六話目、七話目からすれば、病室にいるみんなはその三、四年後なわけだ。

そこまで極端に容姿の差が出るはずもないのに、みんなめちゃんこ老ける。メガネとかしちゃって。それもちょっとしらけポイントでありました。