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いつも考えていること

TRANS–KOBEの感想(グレゴール・シュナイダーの作品の感想!)

神戸ビエンナーレがいつのまにか企画ごとなくなっていた。

2007年から始まり、2015年まで5回開かれたアートイベントで、私は2011年から3回、訪れたことがある。

コンテナの中に作品を展開させたり、海沿いの公園に作品を散りばめたり、寂れた高架下で作品を展示させたり、試みに満ちたチャレンジングかつアクセスの良いアートイベントだった。不意に現れるいけばな展の作品も好きだった。

少し検索すると、2017年のビエンナーレ中止を求める署名などが見つかって、現在神戸に居住していない私にはわからない何か問題があったのだろうと思う。

いずれにせよ大規模でいながら、どこか素人くさく、時折ハッとするような良作に出会えたあのアートイベントがなくなったことを、少しく残念に思う。

 

しかし2019年、その神戸で満を持して新たなアートイベントが催された。

TRANS-KOBEである。

さっそく1つ訂正する。これはイベントではなく、プロジェクトだ。

 

グレゴール・シュナイダーとやなぎみわという二人のアーティストのみが参加。

シュナイダーは神戸の街を使って作品を展開し、やなぎみわは野外劇を行った。

残念ながらやなぎみわの作品は見られていないしシュナイダーの作品も半分だけしか鑑賞できていないが、しかし、すごかった。

ビエンナーレにあった素人くささ、市民芸術感は一切なく(といっても、その市民感覚ビエンナーレの良さであったが!)、最先端のアートが街のふとしたところに突如現れたのである。

というのもシュナイダーの作品は、12に分かれており、それぞれを「留(Station)」と称して展示する。この留はキリスト受難の道を意味し、鑑賞者は巡礼を模すこととなるそうだが、その説明は美術手帖の記事で初めて知った。

作品群は第1留、2留こそ神戸駅すぐそこのデュオ神戸でオープンに展示されているが、第3留は旧兵庫県立健康生活科学研究所なる閉鎖された施設、第4留は地下鉄へ続く地下道に100メートルに渡って展開される。第5留はアートビレッジセンターなる建物で映像作品が上映されるため比較的わかりやすいが、第6、7留にいたっては場所は非公開、申し込んだ人だけが場所を知らされ鑑賞できることになっており、第8留は神戸市立兵庫荘と名前だけ聞けば別荘のようだがこれまた閉鎖された日雇い労働者の一時宿泊施設であり、第9から12留もまた街の片隅での展示だった。

私は残念ながら、第5留までしか辿れていない。しかし、もう、これはヤバく良い作品だということはひしひしと感じた。

白眉は第3留。旧兵庫県立健康生活科学研究所という、感染症や食品、飲料水などのための検査や研究を行なっていた施設が舞台となる。1968年の建物であり、現在は廃墟。一歩踏み入れた途端に、万遍なく亡霊が漂っているのではないかなどというような余計なことを考えてしまうような空間。シュナイダーが用意した部屋とアレンジも、そこはかとない怪しさを秘めている。つまり、たとえば「バイオハザード」などと書かれた張り紙はもとより、なんてことない実験器具やメモ、一般人には用途不明な機械の説明書とか、そういうものが漠然とした不安を煽る。7階では動物を飼育していた跡が残され、これもまたさまざまな妄想を膨らませさせる。もちろん、ここでの研究によって我々の「健康生活」の安全が守られていたわけだし、現在は移転先で同様の業務に従事されているのだから、施設そのものになんらかの偏見を抱くことはおかしなことだ。きっとこれは舞台が何の廃墟であっても、つまりたとえば新聞社であってもいいし、郵便局であってもいいし、学校であってもいい。抜け殻であることが重要で、そこに私たちは「亡霊」を見る。屋上からは神戸に住む人々、家々が見渡せる。かつてここで働いていた人たちがいて、今、私がここにいる。現在と過去、死と生。はっきり分かれていると思い込んでいたものの境目がいつのまにか揺らぎ始める感覚に陥る。

そして第4留もまた面白かった。これは地下鉄に続く地下道に作られた作品である。この地下道には初めて来た。きっと寂れていたのだろう。テコ入れ的に卓球場とゴルフの練習場があって、特定の人々を吸い寄せているようである。そんな年季の入った地下道にシュナイダーは金具だけが残された浴室を作った。鑑賞者は暗室を通り抜けて、その部屋へ入る。閉鎖的な、狭小空間である。何もない。扉を開けるとまた暗室だ。その暗室を通り抜けると、全く同じ空間が現れる。差異を探しても見当たらない。何もない。また次の部屋へ行く。暗室を通り抜けると、お察しのとおり、同じ部屋が現れる。少しだけ動悸が速くなる。後ろを振り返れないような気分になる。部屋の壁に貼られた鏡が怖くなる。足早に次の部屋へ。まだ続く。地下道の長さを考える。暗室の通り抜け方を考えて、もしかしてとんでもない場所へ迷い込んでいないかなどと考え始める。そのあたりから冷静に間取りを考えたりする。おおよその見当をつけて不安を解消させるもまだ部屋は続く。アニメ的表現、地獄巡りを実感する。不意抜け出ると、卓球場からピンポン球の跳ねる音がする。抜け出た先には職員も誰もいない。地下道が続いている。あっけにとられたまま、歩き出す…。

 

第5留の映像作品も、なんとなく面白かった。ああ、第6留以降も観たかった…。時間の制限があったことが、悔やまれる。この一回性こそが、本作品の醍醐味だろう。

 

あまりにもシュナイダーのことが気になったので、六本木で開かれていた小さな個展にも行ってしまった。床にUSBが落ちていると思ったら、部屋の間取り図と称した作品だったり、部屋の風景と解体シーンを並べて映像作品として流していたり、シュナイダー的世界観がよく開陳されていた。

とにかく、現実と思っていること、つまり「現実と生」と現実でないもの、つまり「過去や死」との境目が揺らぎ、薄まる。私も過去や死の一部であると実感し始めるのである。その先っぽで、かろうじて炎を燃やしている。ロウソクの先端のようなもの。

 

TRANS–KOBEについて、一般の鑑賞者として少し意見を言わせてもらえば、ビエンナーレと違って、アートのプロっぽいのだが、アートのプロっぽさが先行して、案内や広告がわかりにくい。

とにかく非公開なことが多く、ホームページに載せられた画像はモザイクまみれ。恐怖である。

インターネットで検索しまくっても、なかなかどこに行けば良いのかわからなかった。とにかく第1留のあるデュオへ行き、案内を受けてようやく腑に落ちた次第だ。

たしかにシュナイダーの作品を、デート気分で観るのはオススメしない。しかし、それでもできる限りビエンナーレの精神を受け継ぐ要素として市民のイベントであってほしいから、もう少し丁寧に案内してほしい。

私は事前にアプリまでダウンロードしたんですよ。それでもわからなかった…。ていうか、そもそもあのアプリはなんだったのだろう。どう活用すればよかったのか、わからなかった。ダウンロード数いくらだったのか教えてほしいですね、きっと1000くらいだと思います。

 

このTRANS-KOBEの来場数は、たぶんビエンナーレのそれには及ばないだろう。しかし、間違いなく超一流のアートプロジェクトであり、成功させたと評価して間違いない。

このことを神戸市はどのように評価し、今後どのように引き継ぐのか。

来年が楽しみである。