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いつも考えていること

鷲田清一『モードの迷宮』

一年半前に書いてたのにアップしてなかったので加筆し、今更ながら(2018年4月)。

 

鷲田清一『モードの迷宮』(中央公論社、1989)を読んだ。

図書館で目についたから借りたので、文庫版でなく、ハードカバーである。装丁がかっこいいと思ったら、やはり菊池信義さんである。「あっ、かっこいい」と思ったら、たいてい菊池信義、本当に。

モードの迷宮

モードの迷宮

 

 

1987年7月から1988年11月まで、『マリ・クレール』に連載されたもの。意識高い系女性誌というのは今もあるが、たとえば『クレア』誌が池上彰佐藤優であることを思うと、時代の移り変わりを思うのです。

鷲田清一氏とともに、思索の散歩をする本書。迷宮をさ迷い、抜け出た先の景色は、迷宮に立ち入る前と何も変わらないようでいて、何もかも変わっているようでもある。

むろん本書を読んでもらいたいが、自身の備忘録も兼ねて、迷宮のなかで見た風景をさらっておきたい、出口からではなく入口から順に。というのも、哲学であれ、迷路であれ、数学の証明であれ、答え=出口から辿る方が理解しやすいし、腑に落ちやすいのだが、だからこそ、入口からいかに迷うかが重要なことだ。

では、

無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。(『パンセ』断章72)

という刺激的かつ身に覚えのある言葉を掲げる迷宮の入口から、一歩一歩進んでいこう。

と、書いたそばから前言撤回するようであるが、その実入口と出口は同じである。つまり、本書の問い=答えは以下の通りとなる。

私たちのなかの、あるいは〈私〉という名の、根源的なディスプロポーション。それは、ファッションのあらゆる局面にいつも顔をのぞかせている。(p11-12)

ディスプロポーションとは「不均衡、不釣り合い」「背反する運動に引き裂かれ、定まらぬこと」 を意味している。さっそく入口に掲げられた言葉が頭をよぎるが、ピンとはこない。

はたして、私たちの中にある根源的なディスプロポーションとは何か?はたまたファッションのそれとは何のことか?

鷲田はファッションについてのそれをすぐに教えてくれる。つまり、

隠蔽しながら強調する、誘惑しながら拒絶する、保護しながら破損する、といったたがいに背反する運動、対立するヴェクトルが、衣服の構造の中でしのぎを削っている。(p12)

ということ。しかしあまりにも抽象的で伝わらないだろう。この言葉が表すものは何か。

具体的な例は後に置いておくとして、さらに衣服のディスプロポーションは時間的にもあると予言される。

均衡点が発見されたとしても、それはやはり束の間の僥倖でしかないだろう。背反する動性に引き裂かれていることとしてのディスプロポーションは、時間的にも自己を繰り広げる(p13)

つまり、

ファッションの歴史的展開の過程で、スカートの丈、ズボンやネクタイの太さは、限られた一定の可能性の幅を往復する。皮革、繊維、合成樹脂、金属といったベルトの素材は循環する。身体に密着した服は次第に身体の輪郭から離れていくが、ある許容度を超えると反転して、ふたたび身体の表面に戻ってくる。(p13)

といったいわゆる「流行」をファッションのディスプロポーションのひとつととらえるのである。

では、私たちのなかにある根源的なディスプロポーションとは?

ファッションを、相反する動性に引き裂かれた状態、つまりディスプロポーションとしてとらえること、そしてそれを通じて、〈私〉の存在がまさにそれであるようなあの根源的ディスプロポーションのなかに分け入っていくこと、それが問題だ。(p14)

問題が示された。立派な門をくぐり抜けて、3つの部屋を順番に訪ねていこう。

 

〈Ⅰ 拘束の逆説〉

衣服のディスプロポーションとは何か、そのひとつのキーワードである「拘束」について考える。

軍隊では足に合う靴ではなく、靴に足を合わせろと言われたことは有名だが、そのように、衣服に身体を合わせることが時に求められる。

たとえばコルセットなどにいたっては内臓の位置が変わるほどに締め上げたというし、纏足のように足を小さくするために縛ることもまたそうだ。

現在においても、男女問わず外反母趾は多くの人を悩ませているが、そもそも特に女性の履くヒールを見れば、靴を足に合わせる気がないことは一目瞭然であって、つまり身体の拘束が前提とされているのだ。

衣服は身体の輪郭をなぞるかにみえて、実は身体の変形を要求している(……)衣服が適合すべき身体は、造形的な規範に従属する身体でなければならない。私たちのフィジカルな存在である肉体そのものが、ファッションの視線に貫通され、いわば彫塑の対象となっているわけだ。(p22)

これは私見だが、ときどきMサイズに生まれたかった、と思うことがある。つまり、自らに適合した服ではなく、身体が服に合っていれば楽なのに、という気持ち。

それだけでなくそもそも誰もが衣服を着ていることさえも一つのディスプロポーションと捉えられる。つまり、

ファッションに関心があるか、ないか、ということとは何の関係もない。〈私〉はいつもすでにファッションの視線に貫通されているのであって、〈私〉がファッションを外側から対象として眺めることができるというのはひとつの抽象である。「ファッションには何の興味も関心もない」と宣言するひとも現に衣服を身につけているはずだし、衣服であるかぎりそこにはスタイルがある。皮肉なことに、ファッションに無感覚なひとほどワン・パターンの「流行服」(たとえばドブネズミ色や紺色の背広)で身を固めているようで、様式にこだわるという語の本来の意味で、彼らこそもっともファッショナブルな種族なのかもしれない。要は、問うか、問わないか、その違いがあるだけなのだ。問うに値するかどうかは、問いに直面していないひとがとやかく言うべきことではない。(p24)

ということである。興味関心の問題ではなく、問いを得たか得ていないかが問題なのである。

そう考えれば衣服とは誠に不思議なものである。

束ね、重ねて厚さを測ってもたいていは1センチにもみたない衣服の蔽い、これが私たちを躍動させると同時に不安に駆りたて、守ると同時に縛り、傷つけ、〈私〉を取りまとめると同時に攪乱する。(p24)

身体は〈私〉という見えないものに浸透されてはじめて、〈私の身体〉として可視化する。ところが逆に、この〈私〉という見えないものは、衣服や身体、さらにはそのヴァリアントとしての言語といった可感的な物質の布置のなかで、〈意味〉を通して紡ぎだされるものでもある。(p25)

服を着れば着るほど私の身体は見えなくなるのに、私そのものがくっきりと表されるようになる。漫画や映画で描かれる、透明人間の輪郭のようではないか。それを端的に表せば以下のように断言されるわけである。

だから、衣服の向こう側に裸体という実質を想定してはならない。衣服を剥いでも、現れてくるのはもうひとつの別の衣服なのである。衣服は身体という実体の外皮でもなければ、被膜でもない。衣服が身体の第二の皮膚なのではなく、身体こそが第二の衣服なのだ。(p26)

であれば「意味」とは何なのか?

衣服はさまざまな意味作用が重層的に交叉し、絡まり、反響しあう多様体である。(……)衣服は(……)意味生成の確固とした軸をもたないから、意味は散逸し、たえまなくその位相を転換する。(……)いわばリード・オフ・マンのいないゲームのようなもので(……)意味を解読しようとする視線に対していつまでも真意を示してくれない。あらゆる意味が暗示にとどまっているという点では、衣服は言葉以上に嘘や皮肉、冗談、駆け引きに長けている(p29)

衣服の意味はたえず変容し、ときには反対物に転化することによって、いつも本気になってしまう私たちを愚弄するのだ。(p30)

今日来ていた服を明日も着たらば、その意味は変容する。夏の暑い日、次の日も同じ服を着ていたら「汚い」「不潔」など別の意味を纏うことを想像してみよ。そうした即物的な意味だけでなく、たえず衣服の意味は変わってゆくのである。

その意味変容を例示すれば

カラー、ネクタイ、ベルトといったものは、衣服をまとめ、留めるといった機能をすっかり逸脱して、締めつける、縛るといった動きへと転換しており、その効果は衣服を超えて身体にまで及んでいる。(p31)

〈拘束〉の象徴的意味(……)コルセットの象徴力、それがかもしだす暗示(……)とは〈道徳〉のそれであった。貞淑、慎み深さといった道徳観念が、コルセットに可視的なしるしとして浸透していた(p36)

というような小物らが挙げられる。1つ1つのパーツがさまざまな意味を持つ。まるで絵画に描かれた子犬が「従順」を示すかのような、メタ的なものであるが、衣服に関して私たちはそのメタ的なメッセージを比較的容易に、あるいは日常的に受け取りながら生きている。

私たちの身体は、当の関係もその秩序を内部から揺るがしたり、混乱させたり、無視したりするような、さまざまの欲望の力線が交錯する訳のわからない存在、たえざる不安の対象でもある。(p37)

規範の身体への刷り込みは、道徳の名の下に、家庭においても、学校でも軍隊でも、教育が秘かに、ときにはあからさまに眼目として掲げているものである。(p38)

靴もそうである。職場でのヒール着用が話題となったが、靴には身体を破壊する要素が少なからず含められている。

コルセットやガードルと比べれば、たしかに靴はそれなりの機能性を中心にデザインされているようにみえる。起伏のあるざらざらとした地表から、過熱あるいは凍結した地面から、靴が私たちの足の裏を保護してくれていること、このことはだれも否定できない。けれども、その形態を見ればすぐわかるように、靴もまた、身体をわざわざ毀損するために考案されたようなところがある。(p43)

職場でのヒール着用のメタメッセージとは?

身体の拘束は身体を毀損するだけではない。それは何よりも、私たちの自然な動作を否定する(……)がんじがらめの仕立てで、女性の自由な活動を抑制ないしは禁止し(……)わざと歩行を困難にするようデザインされている。(……)分散した身体の諸分肢の運動はある別のスタイルのうちへと取りまとめられ、転位させられる。運動が一貫して変容させられ、意味作用の新しい別の次元が開かれるのである。歩行はもはやたんなる歩行としてではなく、「行儀のよい」、「気品のある」、「優雅な」、「妖艶な」、「かわいい」、「挑発的な」、「偉そぶった」、「だらしのない」といった別の意味の視線のなかでとらえられるようになる。(p45-47)

本書の重大な目的がここで明らかになる。

ファッションの問題は〈自然〉の問題ではない。自然としての身体には、それ自体として美しい部分も、恥ずかしい部分も、猥褻な部分も、エロティックな部分も、そしてもちろん道徳的な部分もない。(……)ファッションの構造は、〈自然〉の〈文化〉への変換、あるいは〈文化〉の生成そのものと関わっている。〈自然〉の歪形、〈自然〉からの逸脱――おそらくここに≪モードの迷宮≫の扉をこじ開ける鍵が秘匿されているのだろう。(p50)

衣服が生み出す文化を探り当てること。これが目的なのである。文化とは自然の対義語か?

身体を徹底的に締め上げることによって〈肉〉の沈黙を強要するコルセットは、皮肉にもその表面に逆の効果をも及ぼしてしまう。たとえば輪郭線、コルセットは極細のウエストを作り上げることによって、反比例的に、胸部と臀部を異様に豊満に見せる。授乳と生殖・妊娠といった自然的営みを思い起こさせる身体部位が強調される。(……)肉感性を隠伏させてしまうはずのアイテムが、逆に肉感性を顕在化してしまうのだ。(p54)

〈肉〉の封鎖を志向する衣服構成上の戦略は、(……)身体のあちらこちらで〈肉〉に思わぬざわめきを起こさせ、〈美徳〉を裏切るような意味を不可避的に産出し、(……)何でもない身体部位までが、淫らな感じを匂わせはじめる。そうするとますます点検箇所が増えていく。この過程はまさに神経症的に進行していくのだ。(p57)

自然と文化という相反するものが一緒くたになることこそ、ファッションのディスプロポーションなのである。

規範を強要する運動が自らの足元を突き崩していくような運動へと反転して、ぐらぐら動揺しはじめるとき、このゆらぎが、この不安定さが、エロティシズムという名の私たちの全身的な感応を惹きおこす。(……)つまり、ファッションが道徳的であるとすれば、それと正確に同じ程度にファッションは淫らである(p62)

こうした衣服による拘束を私たちは不快なものと感じるのか?

衣服が、拘束という手法によって身体のさまざまな部位で境界感覚を覚醒させるとともに、身体の大部分を包み込むことによって、(……)輪郭を喪失してしまうのではないかといった不安におびえている〈私〉に明確な囲いを与えてくれている(p66)

むしろ私たちは衣服によって私を明らかにする安心感を得る。反対に「裸になること」もまた別の快楽を持つわけだが…。

衣服の脱落、身体の露呈、この「見せる」というゲームにおいては、〈私〉の構成を巡る現実性と虚構性の境界が、あるいは必然性と恣意性の境界が賭けられている(……)ディスコで(……)〈私〉の境界の攪乱に酔おうとしたり、LSDを服用して身体の内/外の閾を取り払い、ばらばらでぐにゃぐにゃになった、形のない身体感覚とともに中空を浮遊していようとしたりするときと同じように。(p67)

〈Ⅱ 隠蔽の照準〉

復習すれば、衣服と私の関係性は以下のように言うことができる。

〈私〉の存在そのものが、その根源にある〈脆弱さ〉を隠しもっていて、それが衣服の可視性に訴えかける(……)衣服が想像力に「夢の足場」を形作ってやる(……)その脆さにつけ入って、私たちを、あるいはその〈夢〉を、愚弄し打ち砕きもする(p82)

「拘束」が身体を変形させつつも浮き彫りにしたことと同じ歩みでもって、衣服はそもそも私たちの裸を「隠蔽」してくれる。

〈拘束〉の手法が私たちの身体的存在に規範への従順さを要求し、自然的な身体を物理的に変形するまで強く、肉的なもの、野性的なものを規制する意志を表明していたのに対し、〈隠ぺい〉の手法は、貞淑や慎み深さといった「美徳」を脅かす気配のあるものを包み隠し、遠ざけることによって、肉的なもの、野性的なものを一貫して回避しようとする。そしてこの過程もまた、〈拘束〉の場合と同様に、とどまることを知らず、ほとんど神経症的に進行する。(p93)

どこまで隠すのか、何を隠さなければならないのか、という文化を考えたくなるが、いやその前に隠された向こう側には何があっただろうか?

”秘部”は剥きだしになったその瞬間に消失する。適量の矮小な快楽の余韻を残して。そしてその小さな快楽をもとめて、また同じサイクルが蒸しかえされる。(……)この”秘部”は、隠されたものを露わにしていくという物語のなかでのみ意味をもつのであって、その物語の外部では、「白けた」ものでしかない。(……)”秘部”はいつも空虚なままである。(……)ヴェール、それは背後を覆い隠すのではなく、背後には何もないということを覆い隠している(……)最後のヴェールは剥がされてはならないのだ(……)私たちはいつもあの「隠されたものが露わになっていく」という物語のなかにとどまっていなければならない(……)「結末」へと向かうプロセスそのものにとり憑かれていなければならない。(p103-104)

隠された向こう側には何もない。モザイクの向こうには平凡な性器があり、閉ざされた展覧会には核爆弾のスイッチでも何でもない、ただの彫刻があるだけだ。しかし、私たちは覆う。覆うことそのものに意味があるからだ。

「ただの坊や」は、やがて幼稚園児に、生徒に、学校を終えたらたとえば郵便配達員に、結婚すれば保護者という名の父親に、なっていく(……)社会的な意味の閾をいわばなぞるかたちで、自らの感受性や判断を枠どり、身ごなしを組みたて、外見を整え、そうしていかにもそれらしき「ひと」になりきっていく(……)けれども、園児、生徒、郵便配達員……は、特定の教育制度や郵政制度をもたない時代や社会にあっては、そもそもありえない生のかたちである。つまり、社会的な意味の閾とは、そのかぎりで偶因的な性格を免れない(……)〈私〉の生成にとって決定的な役割をはたすのが、衣服なのである。他らなぬこの〈私〉となること、(……)自らをなにかへと縮減すること、「私は~である」というふうに自らを自他のあいだで理解可能な限定されたかたちへと枠どること(……)属性にかなった表情、身ごなし、身なりのプレゼンテイションとして、あくまあで可視的な次元で展開され(……)ひとをひとつの職務へと囲い込んで、別の〈私〉となる可能性をいったん棚上げにするために、つまり感受性や身ごなしをひとつの意味へと収斂させ、他の可能性への感覚を麻痺させるために、様々な制服が考案され(……)可視性のコード化を強制している(……)重要なことは、後世のスタイルによって社会的な差異を暗示するというその象徴性である、そしてそのような象徴機能を作動させるかぎりにおいて、あらゆる衣服は制服なのである。(p111-117)

(制服としての)衣服が狙っているのは、よく言われるように、多様な個性の均一化ではない。(……)衣服は(……)個々人の差異を消すという口実のもとで、別のもっとのっぴきならない事態を隠している(……)私が現にいまこの〈私〉であることには必然的な根拠がないということ、この事実を衣服は隠蔽する。それは、私にある共同的な表象をまとわせることによって、(……)私が〈私〉となるプロセスが存在することを隠蔽し、私を〈私〉であるという自己同一性の夢のなかに閉じこめる。(p118-121)

むしろこのような告発が許されて良いのかとさえ思うような、身の毛のよだつ糾弾ではないか!

衣服には社会的な意味作用が記入されており、その衣服が提示している一連の可視的イメージのなかに自分を嵌めこみ、押しこめながら、私たちは自分自身を同定(アイデンテイファイ)する。(……)自分をひとつのイメージで包囲する(……)いまあるのとは別の自分でもありうる、という秘かな声を抹消することでもある(……)自他のあいだで共有された意味の軸線にそって自分を象るために、可視性の統一的なイメージが、衣服の一貫した構成スタイルが強く求められ(……)トータル・コーディネイションということが口やかましく言われる(p125)

だから、だから、私たちは衣服を選び取り、インスタグラムに上げ、主張しなくてはならない。これが私である、と。

他者たちからひとつのタイプとして承認されるかぎりでしか〈私〉となりえず、その意味で共同性のなかにすっぽり包み込まれる(p126)

それは否定的なことばかりではない。この隠蔽は隠蔽し続けるからこそ意味がある。

私たちが抱いている別の自分になりたいという〈他性〉への渇望を、衣服をとりかえることによってそのつど可視性を転移させながら、いつもほんの少し満たしてくれる(……)それは〈私〉に小さな変換、ささやかなエクスタシーをもたらす(p131)

それだけでなく、

私がもはや〈私〉ではなくなってしまうような臨界戦上まで私たちを連れだしはしない。(p131)

ということは、

たえざる偽装、はてしのない移行。(……)服を変えれば、世界の感触、空気の香りまで変わってしまう(……)私は別のものへの移行と変換(エクスタシー)においてはじめて〈私〉となる(……)〈私〉の生成は、後戻りのきかない不可逆的なプロセスなのである。(p133-134)

となる。止めることのできない隠蔽だが、止めなくてはならないなどということはない。明らかにした先は「空」である。むしろ、常に途中経過であることに留まり続けなければならないのである。

〈Ⅲ 変形の規則〉

そんな「空」でしかない私は私をどのように規定すればよいのか?

〈私〉自身を明確に感じることができなくなったとき、わたしたちは(……)とくに〈私〉と〈私〉でないものとの境界部分に注意を集め(……)〈私〉の過小に、、あるいは意味の不足に焦立って、逆にそこに意味を過剰に充電しようと(……)可視性を演出していた分割線が、身体を分離する切断線となる。(p146)

同じ比喩となるが、漫画や映画の透明人間の輪郭のようにしか、私たちは私を認識できない。

つねにフェティッシュへとスライドしてしまうこれらマテリアルな媒体においてしか(つまり、身体的な存在としてしか)関係としての〈私〉は存在しえないとすると、〈私〉はそもそもその根源よりしてフェティッシスティックな存在だということになる。(p148)

であれば、ぴったりのサイズを着ることの重要性が出てくる。サイズこそ私の私らしさではないか? 否、そうではない。

衣服の形やサイズに関して言えば、それは身体の表面をそのままなぞるものであってはいけないし、かといって身体のフォルムをまったく無視するものであってもいけない。身体にぴったりと密着したコスチュームも、身体の輪郭の痕跡をまったくとどめていない(たとえば、球形の、あるいは立方体の)コスチュームも、ともにおぞましく、そしてあまりに不自然に感じられるのは、それらが、別の身体、別の自然へと私たちの可視的存在を転位させようというモードの志向に反するからだ。(……)同じように、化粧は素顔の再現ではありえないにしても、だからといって顔面の構成を攪乱したり、表情を完全に覆い隠すものであってはならない。モードは自然を離れなければならないが、それを忘れ去ってもいけない。膨らんだり縮んだり、締まったり緩んだり、きわだったりぼやけたり……要するに自然がぶれること、それをモードはもくろむ(p151)

隠蔽の手段は、女性誌など見ればたくさん書かれている。覆い隠す、目を逸らす、配色で錯覚させる…。

わたしたちはなぜ、いつも自分たちの可視的存在を整形(加工・変形)しようとするのか? どうしてありのままの自分に満足できないのか? それはありのままの自分というものがありえないからである。(p159)

ここで私そのものへと鷲田は踏み込む。むろん、これが本書の問いの根源であるからだ。

〈私〉 の時間的生成についても(……)〈私〉の現在はただちにもはや現在ではないもの(「たったいま」)へと滑り落ち、(……)現在には、まだ現在でないものがどんどん流れ込んで(……)たえざる到来と消失の運動(……)そうしたなかで〈私〉が〈私〉であるためには、〈私〉は自らを同一のものとしてたえず受けとりなおす(……)自己の差異化・複数化と見えたものが、実は自己の反復であることを示さねばならない。つまり、現在ともはや現在でないものとを、同一のものなら反復としてたえず架橋していかねばならない。(……)自らに形を与えつづけなければ、〈私〉は流れる時間によってたえず帳消しにされる(……)箱のなかの物体の形状や量感を、箱を揺さぶることによって確認するように、私たちは自分が何であるかを、共同的な意味の枠を揺さぶる(p165-166)

ある共同的な意味の枠、それにぶち当たったり、それをかすめたり、なぞったりするときのその感触が〈私〉にほかならないのであって、中身(=本文)が不在であるからこそ、私はたえず意味を揺さぶりつづけなければならないのである。(p174)

私が私であるために、私は意味を得続けなければならない。まるで、後年の福岡伸一動的平衡を先取ったような議論である。

ひとは自らの可視的存在を変容し、そこにこれまでとは違ったスタイルを実現するために(つまり、新たに自分を受けとりなおすために)、(……)流行りの化粧と衣服で身を包もうとする。〈私〉を枠どっている意味が澱み、すり切れるのを回避するためだ。(p177-178)

衣服は直接意味を問い続けることを避けさせてくれる。衣服が私とは何であるかを意味してくれるからだ。一方で以下のような危険もある。

だが、モードはいつも危なっかしいものである。新たな「個」性をあたりに発散しているつもりで街を歩いていて、まったく同じ装いのひとに出会う可能性があるからだ。同じ化粧、同じイヤリングとブローチ、同じスーツの他人に出くわしたら、まったく目もあてられない。とたんにパニック状態に陥る。街角で自分と外見のまったく同じひとに出会ったら翌日かならず死ぬ、という迷信もあるくらいだ。なぜなら、私がほかならぬこの〈私〉であるのなら、他人とは異なった可視性を夢みていたはずだからである。突然、私の存在が消去されるからである。(p178)

大量生産の服を買っておきながら、同じ服の人がいないことを夢見る矛盾。これもまた、ディスプロポーションであろう。本書が執筆された当時存在しなかった「ユニクロバレ」などの言葉も想起される。ショッピングモールに行けば、服が大量に売られている。はたしてあれらはなんなのか?

衣服は限られた素材を用い、限られた手法によって構成されている。そしてそれら有限数のアイテムが、意味の転位と反転を、あるいは意味のすさまじい多義性を発生させる。だからこそ、コルセットひとつとっても、あるいはスカートやストッキングにしても、それが私たちにとって≪媚薬≫なのか≪心の鎧≫なのか、とても一義的には確定しがたいのであった。(……) 意味が次から次へと湧出し、たわみ、反転し、折り重なって、見通せなくなるのだ。(p179)

服を着ることの現実性と虚構性の対比。それはどちらかに軍配があがるものではない。二つの間で揺れ動く意味を私たちは綱渡りするのである。

意味の氾濫と枯渇をともに動機づけ、可視性のなかに幸福と不安を交互に去来させる、衣服の意味作用におけるこうした二重の不釣合い(デイスプロポーション)――意味するものと意味されるものとのきしみ、あるいはよじれ――、それがモードにたえざる変換を強いる。モードの運動が閉じること、一方向に収束していくことを禁じる。(……) 私がほかならぬこの〈私〉でしかありえない、そんな状態へと向けて私の夢を鎮めてくれるのかとおもえば、逆に、私が一度にあらゆるものでありうる、そんな状態へと向けて私の夢を煽り立てもする。そしてそのどちらにもならせてくれない。(p180)

であるならば、果たして、この疑問にまた立ち戻ることとなる。

「モード」の運動に身を挿入していくこの〈私〉とは、いったいだれなのだろうか。(p181)

服がもたらす身体性。この身体性を忘れてはならない。いくら空であるとはいえ、私たちには身体が与えられ、存在しているのである。

マヌカンやモデルのきりっとメイクされた顔を見ていると、(喩えがわるいが)ふと、スーパーで売っているあの透明のラップでびっちり蔽われた野菜や果物を連想してしまう。(……)毛を抜きとり、ローション、クリーム、パウダーをまぶし、塗り重ね、延ばし、拭いとることによって、しみを隠し、表面を均質化し、透明な輝きを与え、そうして皮膚から固有の陰影、固有の記憶を奪いとる。時間のもだえ、時間の苦しみをその表面から消去する。(……)〈私〉の存在をことごとくその空虚な表面へと吸いよせ、そこに呑みこんでしまう。(p185-187)

呑みこまれる? そう、可視性の変換が紡ぎだす諸感覚の戯れに〈私〉はいつも呑みこまれてしまうのだ。それは、感覚というものが、いつも〈私〉の存在の辺縁でいわば匿名的に発生するからである。(……)ソニア・リキエルは彼女が求めている服を「まるで自分の内側から生えてきたような服」と表現していたが、それをもじって、服がその内側に〈私〉自身も知らない別の身体を発生させると言うこともできるだろう。そして身体という感知器をこのように変容させることによって、世界をその意味ごとずらしたり、裏がえしにすることも可能になる。「前髪を切ったら世界が明るくなった」とか、「この服を着るとこれまでとは全然ちがった自分になれる」といった表現も、あながち比喩的と言ってすますわけにはいかないのだ。衣服はこのように(……)〈私〉の辺縁にあって〈私〉よりももっと古い、ある無記名な感覚の層に訴えかける。(……)思いがけない未知の回路に私たちを引きずりこむ(……)このとき、可視性の空隙が埋められず、どこまでも自分自身の存在に遅れていたあの〈私〉が、自分の知らない自分によって一挙に追い越されることになる。(p193-194)

服に包まれた私、私の肉体、皮膚。普段、私たちは己の肉体の存在を感じないでいられる。衣服の肌触りは感じるのに。私と私の距離。ゼロでありながら、もっとも遠い存在。

〈私〉の自己解釈と自己存在とのあいだにずれがあるかぎり、言いかえれば、〈私〉が自らの皮膚を、自らの可視的・可感的な存在をもてあましているかぎり、要するに、〈私〉の近さと遠さに不均衡(ディスプロポーション)があるかぎり、〈私〉にとって廃棄不可能な現象なのである。(p195-196)

私という現象。そう、本書は(当然のことながら)、現象学を論じていたのである。

〈あとがき〉

鷲田は執筆のきっかけを以下のように言う。

どうしてぼくたちは自分の可視性にそれほど自信がもてないのか? どうして自分の身体のまわりをいつもこのように不安げにうろつくことしかできないのか? モードというきらびやかな現象を前にしたとき、決まってこうした問いに捕えられてしまう。(p201)

私たちは私自身を持て余しつつ、その持て余しを楽しむのであろう。永遠の途中経過としての「私」。モード、つまり常に現在。その意味を存分に感じられる一冊であった。