Nu blog

いつも考えていること

さらに最近読んだ本

あいちトリエンナーレの件から「検閲」で検索して、以下三冊を読んだ。

 

①ARTISTS’ GUILD + NPO法人 芸術公社編『あなたは自主規制の名の下に検閲を内面化しますか』

②アライ=ヒロユキ『検閲という空気』

沖縄県立美術館検閲抗議の会編『アート・検閲・そして天皇

 

まず①。①はあいちトリエンナーレでの事件を語るにあたって、引き合いに出されることも多かった東京都現代美術館で2016年に行われた企画「キセイノセイキ」と連動する形で出版されたもので、アーティストと哲学者やドキュメンタリーの監督、建築家らとの対談が収録されている。

「アートやドキュメンタリーの強みって、見る側に判断を委ねられるところだと思います。そこが突破口のような気がします。扱うこと自体がダメな題材なんて、世の中にはひとつもないはずですから」や「怖いのは匿名の市民からのクレームや、コミュニティに不快感を与えるものだから取り下げろ、といった「市民レベル」の検閲。(・・・)上からの検閲はわかりやすいから意識できる。匿名の声というのは亡霊のように実態が希薄で、且つどんどん肥大化する」といった言葉は今回の問題とも近いものを感じる。

②は「言葉と表現、行動の自由を狭める動き」を検閲という言葉でくくり、幅広く考察している。なので、中には保育所へのクレームや、生活保護へのバッシング、浜辺の騒音、監視カメラ、祭りの喧騒、図書館・美術館の自由、報道の自由、史跡の説明板、国旗と国歌、外国人学校、公民館、NPOなどが取り上げられている。

簡単にまとめると、アノミーの高まりにより、画一的な社会を望む人たちが増えている。その画一的な社会は争いを嫌うため、不正や不条理を無視してしまい、同調しない存在に不寛容になる。なので、無害を目指すのではなく、間違いなど有害さを尊重することが自由を担保するのである、というものである。ただし、著書の立場として、反安倍政権、反自民党的なメッセージが多くあり、学術書というよりは様々な規制に対しての一つの視点・まとめ方として捉えざるをえない。

③は二〇〇九年に沖縄県立博物館・美術館で開催された『アトミックサンシャインの中へ in沖縄ー日本国平和憲法第九条下における戦後美術』において、大浦信行の『遠近を抱えて』が館長の判断で拒否された事件にまつわる本。

あいちトリエンナーレでまた問題となった『遠近を抱えて』のことなので、今回の件について考えたい人は必読でないだろうか。作品も載せられているし。

特に北原恵の「《遠近を抱えて》の遠景と近景」は天皇をモチーフとした芸術作品をまとめており、勉強になった。山下菊二の反天皇制シリーズや田部光子や富山妙子による天皇表象、そして大浦信行がいて、工藤哲巳の『天皇制の構造について』、そして嶋田美子の『焼かれるべき絵』、また大榎淳が「ファミリー・オン・ネットワーク」展に出品した垂れ幕、一九九〇年代半ばからは柳幸典の『菊の絨毯』、姜徳景の『責任者を処罰せよー平和のために』、杉本博司の『エンペラー・ヒロヒト』、中ハシ克シゲの『あなたの時代』といったものが挙げられている。そしてそれらに多く共通するものとして「作者自身の海外体験を大きな契機として制作されたこと」を挙げる。また、大浦の『遠近を抱えて』について、加冶屋健司の論文において、作中に使われた写真がすべて外国にいる天皇の写真または天皇を外国に置き直した写真を用いており、「異文化体験を主題の一つとしていること」が指摘されていることを紹介している。この観点は、この作品について語るにあたって確実に見逃せないものだろう。

大榎淳の『カミサマの写真は不快か』も面白い。富山県立美術館でカタログが焼却処分されたことをして「アノ方の御写真があったはず」と密やかに指摘している。こうした指摘が『遠近を抱えて PartⅡ』へつながったのだなとニヤリとしてしまう。

また、嶋田美子のフェミニスト的論文も痛快なので読んでいただきたい。

様々な対談においては、キュレーターである渡辺氏の対応なども一緒に疑問視されながら議論されていて、それも興味深かった。今回の津田大介氏の対応にも通じるものだろう。 

 

三冊を読んで、この日本社会における言葉の価値の下落を感じた。匿名のクレームも、「教育的配慮」などの館長の言葉も、言葉を借りれば「亡霊のように実態が希薄」でありながら「どんどん肥大化する」ものであり、議論の余地や相互理解のとっかかりなどがまったくない。

ツルツルで、捉えようのない言葉が幅を利かせている。否定も肯定もなく、ただそこにあって、揺るがないでいる言葉。そんな怖いものがこの社会を覆っている。そのイメージを思い浮かべただけで、沈んだ気分になる。

なお、②③は社会評論社による出版であることを付記しておく。いわゆる左寄りな目線であることに留意しつつ、自らの考えを深めるための一助とすべきだろうと思う。

 

そういえば、宮台真司朝日新聞で「エログロがないのはおかしい」と言っていたのは割と刺さった。会田誠がツイートしていた少女像の前にはすみとしこのイラストを置くという案もなかなかどうして否定しきれない。

つまり、誰からも文句を言われないために(あるいは論点を散らしまくるために)、いわゆる左翼的な思想だけ置くのではなく、いわゆる右翼的な思想の作品(たぶん、そういうものでも規制をかけられた作品はあるはず(寡聞にして知らないけど))も置いて、加えて閲覧注意・R18としてエログロも置き、また『検閲という空気』に書かれていたような、保育園への「子供の声がうるさい」という抗議のような生活に漂う「不寛容」みたいなものまで含めて展示することで、多様な見方を促進することができただろうなと思った。

そうなのだ、結局は「不寛容」そのものをテーマにしなければならず、であれば必然展示は寛容に、思想や作品の良し悪しあるいは好き嫌いの別なく広く置くことで、どうにかなったのではないか。

その点で、実行委員会の企画力、実行力そして、展覧会の価値に疑問符がつくのである。

 

また、外山恒一による『「なごやトリエンナーレ」事件について』は今回の騒動を知る上で欠かせない文章だろう。ファックスを送った犯人が逮捕された日に、別に逮捕された「ガソリンだぞ」事件のことである。

あいちトリエンナーレに対して反芸術ならぬ超芸術と称して「なごやトリエンナーレ」が開催されていたこと。現在は一九九五年以降における反テロ戦争=第四次世界大戦下にあること(ネグリ=ハートからの引用)。単に文章としておもしろいので参る。

そこから「なごやトリエンナーレ」のツイッターを見ると、声明として「氏の不屈の意志と不運とわけわからん言動は、水をガソリンに変えさしめた」とキリストになぞらえたり、「私は今超芸術的実践の中にいる」と連合赤軍などを想起させるような言い振りとか、思わず笑わされてしまうギャグのオンパレードである。

傍のお話ではあるが、しっかり押さえていきたい。

 

清水浩史『幻島図鑑』

昨年話題になった「エサンべ鼻北小島消失」の発端となった人の本。てっきり近所の人が見つけたのかと思ったら、本のネタを探しにいった人によって指摘されたという事の顛末を知って驚いた。

どうも今年の五月に調査を行い、七月には結果を発表するはずだが、音沙汰なし。はたしてエサンべ鼻北小島の運命やいかに。

全体に趣味的、日記的な文章。そこはかとなく、真面目な方なんである。しかし、学術的ではないのである。なんとも言えないバランス感覚で、不思議な感じがしました、

さて、島の写真を見ていると、ランド・アートを見ているような気持ちになってくる。というか、もうちょっと具体的に言えばロバート・スミッソンの『スパイラル・ジェッティ』を思い起こす。

日本にはたくさんの島があると言われるが、エサンべ鼻北小島のように侵食なんかで消えちゃったり、ホボロ島のように虫に食われて土になって消えていったりしているのである。

有人島無人島になったら、もう一度有人島になることは難しい」という言葉が何度も繰り返されるが、島にも寿命があるのだろう。なんとなく昨今のマンション事情などを思ったりした。この日本列島そのものが、小さくなっていく一つの島のように感じられなくもない。などと言うと、少し悲観的にすぎるか。