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いつも考えていること

この人を見よーあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」の中止について

「表現の不自由展・その後」について書く。

あいちトリエンナーレに行くことは随分前から予定していた。

この企画展にも関心があった。参加アーティストについて男女同数を意識して選出するという試みにも共感した。芸術監督が津田大介という、芸術界生え抜きの人選でないことも興味深かった。

だから、この結果は悲惨だ。

なので旅程を変更し、あいちトリエンナーレも少し観るけれど、ちょいと電車に乗って養老天命反転地に行くことにしました。

 

政治的な信念に関係なく、展示および作品は守られなくてはならなかった。

芸術祭が行政の一環、公的な催しであるからこそ、政治的思想を孕む作品も、そうでない作品も展示できる。そうしたアティチュードが、多様な価値観を内包し、また許容する社会であることを示す。

作家や作品の政治的態度を検閲することは許されないし、撤去を求めることもおかしいことだ。

気をつけたいのは、政治的であることと差別的であることはまったく異なる、ということだ。

最低限のラインとして、差別的な表現、ヘイトスピーチは許してはならない。私たちの社会が、多様性を重んじ、許容するが故に、差別を必要としないためである。

平和を願うことは、政治的かもしれないが差別的なことではない。

特定の人種や性的指向を持つ人に対して出て行けとか死ねとか言うのは、政治的な要素はかけらもなく、差別である。

だから「日本軍が強制したのではないから従軍慰安婦は存在せず、それを存在するかのように誤認せしめる少女の像は日本人の心を踏みにじるものだ」とか「天皇陛下の写真を焼くのは不敬である」とかいう主張は、政治的立場を表しているに過ぎず、作品の撤去につながるものではない。

あるいは「それはコーランを焼くようなものである」という意見も見たが、コーランを焼いたわけではないのだから、コメントのしようがない。コーランを焼く作品があるとすれば、コーランを焼くに至る過程があり、それが表す何かがあるのだから、その時考えなくてはならない。今考えなくていい。なので、誰かの写真が焼かれたことについても、その過程、表すことが何か知らなくてはならない。そしてその作品については今考えるべきだが、残念ながら作品に触れる機会が失われたため、考える機会も失われた。

また、「税金を使っているのだから国の立場と異なる意見を言ってはならない」「税金を使うなら政治的な芸術はすべきでない」というような意見もあった。で、あるならば「税金を使っている政治家は、すべて時の政権に同調せねばならないし、そもそも政治的な発言をすべきでない」という全体主義的な状態を生み出してしまうのではないか? と疑問を呈したい。アホなこと言うな? そうです、アホなことなんですよ。まったく。

 

今回の件でもうひとつ重要なことは、国家権力つまり政治による介入・検閲が行われたのではないものの、政治家・公権力を託された者による中止要請が脅迫行為を生む土壌となったことである。

それだけでなく、警察の捜査がどのようになっているのかは不明であるものの、サミットや選挙演説などで見られるテロや野次の未然防止のような対応を「表現の自由」に対しては行わないということ。

政治家を守ることには金も人もかけるが、表現の自由を守ることには金も人もかけられない。そう言っているようなものだし、実際そうなのだ。

そのことの示す意味はあまりにも重い。

※ 8/8未明に脅迫FAXを送ったとされる人物が逮捕された。また、8/7、会場である芸術文化センターにおいて警察官に対し「ガソリンだ」と言いながらバケツの液体をかけるなどした男も公務執行妨害で逮捕された。しかし、展覧会は再公開されるのか? 未然防止に取り組まない以上、再開できないだろうと思う。

 

最後に。

芸術は難しい。これはもう、難しいと言い切りたい。そんなことはないと言いたいけど、今回の件でやっぱり難しいんだとわかった。

芸術は難しいので、見慣れてない人は見やすいものから見てほしい。ぜひ、近隣の美術館の常設展から入門していただきたい。教科書に載っている作品がなぜ傑作と言われているのかひとつひとつ理解して、そして現代アートへたどり着いてほしい。いきなり難しいものに手を出しちゃダメだ。

芸術には文脈がある。

ありとあらゆる文脈、コンテキストを踏まえて作品は作られる。すべての作品は既存の作品と結びつき、資本主義の網目によって商品化されてしまう。グーグルで検索できないもの、アマゾンで買えないものが「ない(とされている)」ように。

グーグル、アマゾン、資本主義がすべてのものをまるで等しいもののように開陳させるから、私たちは自らの経験や知見をもとに芸術について語りえるように思ってしまう。

勘違いである。

自らの経験や知見に基づいて芸術について語ることはできないのだ。むしろ芸術について語ることで、自らの経験・知見について知ることができる。

だから、この企画展の全体を見たわけでもないのに、作品一つを取って批判するのは、芸術を見慣れていない人なので、もう何も言わないほうがいい。今回の件を機に、ゆっくりと芸術について知っていただきたい。近隣の美術館の常設展から。静かにね、一人思いを巡らせてね。

芸術でもっとも重要なことは、「実物を観る」ことである。

実物に魂がこもっているとかそういう話ではない。複製が容易な社会であるからこそ、実物にのみ与えられた再現不可能性が実物にはあるからだ。作家が意図していなかった偶発的な事象も含め、実物にはその作品の全体的な意味が宿っているのである。

なので、実物に出会い、世界が、価値観がひっくり返る瞬間に立ち会ってほしい。

つまり、まとめると。

この中でデュシャンの『泉』を「どこが芸術なのか」悩まなかった者だけが石を投げよ。あるいはトゥオンブリーの作品を落書きだと感じなかった者だけが石を投げよ。

自分に石を投げる権利があると感じるなら、やはりまずは近隣の美術館へ行け。