Nu blog

いつも考えていること

暇の後先

昨年末、コミケ中核派が出展、という話題があった。

コミケというのは反社会的勢力、つまり暴力団、ヤクザでなければどんなサークルでも出展できるらしく、法律上は「反社会的勢力」でない極左暴力集団であっても、あるいは過激な宗教団体であっても、ルールさえ守れば参加できるみたいだ。

マア、反社会的勢力なのか反社会的組織なのか、そういう区分には興味がない。

中核派の参加を批判する人が「反社会的だと認定することで安心したい」気持ちは分かるが、それ以上でも以下でもない。

オルグされる人が出るのでは、という懸念についても、そもそもコミケに出展しようがしまいが、引っかかる人は引っかかってしまうもんだろうと思う。

確率や可能性の話をするならば、ソフト路線によって扇動される確率や可能性は高まるだろうけど、だからといってそれはどうしようもない。

冷たい言い方をすれば人生を棒に振ったその本人が悪いのであって、コミケの主催者はもとより勧誘する中核派も悪いとは言えない。

これが健全なサークルを隠れ蓑に使った勧誘が行われていたとかだったら看過できないが、今のところ中核派中核派を名乗っているわけで、非難しようがない。

オルグされてしまった時点で残念でした、って感じである。

 


コミケ出展より前からユーチューブをやっているらしく、視聴者の問いに答える、みたいなものを見てみた。

未だに武装蜂起を企んでいることに目眩がする。

革マル派ファシスト反革命スターリン主義と罵るくだりにもクラクラした。

シャレでもなんでもなく、そういう発言をしているんである。

もしユーチューブからかぶれるような人がいたら、ちょっと笑ってしまう。そういう人は遅かれ早かれ発症してたんであって、ユーチューブは悪くない。

 


アマゾンプライムで「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が観られるようになっていたので、ひさびさに、たぶん四回目くらいの視聴をした(円盤を持っているのだ)。

当時の新左翼、過激派はごちゃごちゃ理論を並べ立てはするけども、基本的にただのテロリストだ。

郵便局強盗をしたり、銃砲店に押し入って散弾銃を奪ったり、交番の警察官からピストルをもぎ取ったり…。

戦争だ闘争だと大声を張り上げるが、市井の人々の誰の支持も得ていないから、何やってんだかよく分からない(得ていると思っているのは本人やシンパだけ)。

果ては内ゲバ。それも水筒を忘れただの、髪の毛を梳かしてただの、銭湯に入っただの、クッキーを食べただの、いさかいの理由のくだらなさにはあきれ返る。

そして、大仰に「異議なし!」と声を張り上げ、「総括しろ!」「自己批判しろ!」と怒鳴りあう姿も目がマジだから、滑稽さが際立つ(素晴らしい演技です)。

 


この映画のハイライトはあさま山荘に立て篭もったメンバー間での諍いだ。

配給制にしたクッキーを勝手に食った」という理由で「自己批判しろ」と迫るも、「クッキーに革命も反革命もあるかよ」と言い返す。

迫った側の怒りは沸点に達し、「死んでいった同志にどう顔向けするんだ」とクッキーを食った人に銃を向ける。

仲裁に入った人間が「お前が自己批判すりゃ済む話だろ」と言いだし、クッキーを食った人が「クッキーを食べたことを自己批判します」と言って場がようやく収まるのである。

書いてて、読んでて、ナンジャコリャって感じである。

これまで仲間に求めてきた「自己批判」ってのはなんだったんだ…?とポカンとするシーンだ。何がひどいって「お前が自己批判すりゃ済む話だろ」である。ナンシャソリャ?

映画の終わりに最年少で兄弟を殺された少年が「ぼくたちには勇気がなかった」と叫ぶシーンがあるが、勇気がなかったんではない。

時間がありすぎただけなのだ。

暇なのでごちゃごちゃ考えてしまう。生活や恋愛、趣味、スポーツ等毎日が忙しかったら、そんなバカげた夢想もしないし、しょうもない喧嘩もしない。

もちろん彼らはそれを「奴隷の幸福」などと批判するだろう。あるいは誰かの痛みの上に成り立った幸福であるとか、いくらでも批判は可能だ。

現政権を支持するつもりは毛頭ないが、現在の社会の体制が、ある程度社会全体の不幸の総数を減らせていることはまず認めるべきだ。みんなでちょっとずつ不幸やリスクを分散させることに、ある程度成功していることは疑いようがない。

どうがんばっても、全員幸福は無理、不幸はゼロにならない。それを目指すことはそもそも誤っている。

政治や社会を考えるにあたっては、いかに不幸の総量を低減するかに真摯に向き合わなければ、すべて夢想と帰す。

かつて菅直人率いる民主党が「最小不幸社会」とか言ってたが、あれはあながち間違ってないと私は思う。

 


朝目が覚めたら理想の世界が達成される、というような夢物語を持つ者をテロリストと呼ぶ。

そういう意味では極小には、いつか王子様が現れるかもと夢見る少女も理想の女の子が空から降ってくると願う少年も、ある日いきなり人気者になれないか期待するだけのフリーターも、そして理想の社会が一夜にして達成されるべきだといきり立つ革命家も、皆そのくだらなさには差異がない。